第二話 あなたの居場所
あの朝から四日が過ぎた。
お嬢様は南の小客間へ行く支度に、いつもより少しだけ時間をかけていらした。
髪につけるリボンを選び終わってから、もう一度鏡を覗いている。
今日届く本を、暖炉の前で読んでもよいと言われたのが昨日のことだった。
「リュジィも、一緒に読むでしょう?」
「私はお嬢様ほど速く読めませんから、置いていかれますよ」
「じゃあ、あなたが読み終わるまで待つわ」
それではほとんど進みません、と申し上げながら、私も読む気でいた。
頁の上を追うお嬢様の指や、次を知りたくてわずかに前へ傾く肩を眺める時間も、読書と呼んでいただけるのなら。
ところが小客間の扉を開けると、窓辺の机に置いておいた栞が、盆の上へ移されていた。
私が朝のうちに運んだ膝掛けまで、小さく丸めて重ねられている。
長椅子ではエリーズ様が、薄紅色の布を膝に広げていた。
「あら、お姉様。今日はここを使うの」
縫いかけの裾を持ち上げて、エリーズ様は笑った。
淡い色の頬と艶のある唇をしていて、不自由など何一つない方の笑い方だった。
「午後からお友達とお茶会をするのよ。私が使って良いでしょう?」
「……私、昨日、お母様に」
「聞いているわ。本なら、お部屋でも読めるものね」
お嬢様は口を閉じた。
私は盆の栞を拾い上げた。
昨晩、お嬢様が糸の色を選んで刺した、小さな青い花がある。
「こちらはお嬢様のお品です。お預かりいたしますね」
「ええ。そこの包みも持っていってちょうだい。邪魔になってしまうから」
包みは届いたばかりの本だった。
紙紐を解く暇もなく壁際へ押しやられている。
私より先に、お嬢様が手を伸ばされた。
胸に抱いた包みの角で、袖に小さな皺が寄る。
「お茶、楽しんでね」
それだけ仰って、廊下へ出ていかれた。
呼び止めたかった。
どうしてお嬢様がお気遣いになるのですか、と。
けれどエリーズ様に、振り返ったお嬢様の困った顔を見せるのはもっと嫌だった。
食堂の前で奥様に会うと、お嬢様は先に頭を下げられた。
奥様の目は包みに向き、それから私の腕の膝掛けへ移った。
「コレット。客間のものを持ち出したの?」
「こちらは私が、お嬢様のお部屋から運んだものでございます」
お嬢様が謝ってしまわれる前に、私が答えた。
「そう。本を読む程度、部屋で済ませたら良いでしょう」
「お部屋の窓が少し緩んでおりまして。午後だけでも、暖かな場所をお借りできればと」
「冬にもなっていないのに。寒がりすぎるのよ」
お嬢様の指が、私の袖をそっと引いた。
「リュジィ。行きましょう」
お嬢様が、もうここにいたくないのは分かる。
だからお辞儀をして退いた。
私は納得できないけれど。
お嬢様が苦しむことの方がもっと嫌だった。
階段を上がる途中で、お嬢様は包みを抱き直された。
「窓のそばを避ければ平気よ。あなたがこの前、隙間に布を入れてくれたでしょう」
「はい。お嬢様のためによく働く布です」
「あの布にお礼を言わなくてはね」
お嬢様が笑ってくださるので、私も笑った。
窓の留め具がきちんと噛み合わず、寒い思いをすることを、お嬢様はなんとも思われない。
自分が寒がりだから、肩掛けを増やせばいいと思っていらっしゃる。
我慢を覚えたその小さな肩を、私が抱き寄せて暖めて差し上げたかった。
「お嬢様、お部屋で少しだけお待ちいただけますか。今日のお席を探してまいります」
「無理はしなくていいのよ」
「難しいお願いをなさいます。私も、お嬢様が本を読むお顔を楽しみにしておりましたのに」
包みの陰から、青い目がこちらを見た。
「……そんなに変な顔で読む?」
「それはもう、たいへん可愛らしく」
「リュジィ」
名前を呼ぶ声に混じった小さな抗議が、たまらなく好きだった。
ほかの人には飲み込んでしまわれる言葉を、私にはちゃんとくださる。
部屋へ送り届けると、私はその足で家令を捜した。
西の客用寝室に、今朝から火が入っていることを知っていた。
明日の客のために湿気を払っているのだと、薪を運ぶ下男が話していたからだ。
「日が暮れるまで、コレット様にお使いいただけませんか。寝具には触れません。椅子と机を借りるだけです」
家令は帳面から目を上げ、少し渋い顔をした。
「奥様はご存じか」
「お部屋の窓の修繕は、先日お願いしたままですよね」
「ああ。ほかにも順番があるからな」
「では修繕までの間、風の入らない場所でお過ごしいただく必要がございます。暖炉を新しく焚くわけではありませんし、お客様のお支度はこちらで整え直します」
私は、煤のついた薪の伝票を帳面の横へ戻した。
「明日お見えの方に、お嬢様が寒さでお身体を悪くされたなどと聞かれても、お困りでしょう」
家令の口元が動いた。
お嬢様が困ると言っても開かなかった扉が、客の耳に入ると言えば開く。
そういったことを覚えておくのも、私の仕事のうちだった。
「今日だけだ。夕方には空けておくように」
「ありがとうございます。お借りしたものは、すべて元どおりにいたします」
そのあと厨房へ寄ると、午後の茶会に出す栗の菓子が冷まされていた。
「お嬢様のお茶は、西のお部屋へお願いいたします。こちらの菓子も一皿、私が運びますので」
「コレット様は茶会にはお出にならないと聞いたが」
「エリーズ様方もいつも全てはお食べになりません。残ってしまうよりはお菓子も喜ぶでしょう」
料理人は私と控えを見比べ、それから菓子を一切れ、皿へ取ってくれた。
湯を待つ間に、私は小さな匙を二本選んだ。
◇◇◇
西の窓から入る光を見て、お嬢様は扉の前で立ち止まられた。
「ここ、使っていいの?」
「夕方まで借りました。お髪をほどいてお昼寝なさるには、少し広いですが」
「そんなことしないわ。本を読むのよ」
椅子を引くと、ようやく膝の上から包みが下ろされた。
結び目を解く指が急ぐのを、私は横から眺めていた。
紙が開き、新しい表紙が現れる。
お嬢様はすぐには頁をめくらず、その表紙を手のひらでゆっくりと撫でた。
「よかった。角も折れていない」
そう言ったお嬢様のお顔がとても可愛らしく、朝から胸に引っかかっていたものが、少しだけ取れた気がした。
茶器を並べて菓子を置くと、お嬢様は目を丸くした。
「これも?」
「本日のお嬢様のおやつです。厨房でお待ちでしたよ」
焼き色のついた端を匙で崩し、お嬢様は小さく口に含まれた。
頬が緩んで、それを私に見られたことに気づくと、少しだけ俯かれる。
「おいしい」
「何よりでございます」
お嬢様は皿を机の中央へ押した。
「あなたの匙もあるでしょう」
「よく見ていらっしゃいますね」
でも私の本心は、まだ見られていない。
口元についた欠片を取って差し上げるとき、その指をそのまま滑らせて、唇へ押し当てたくなることも。
隣へ座るよう勧められたときに、椅子では距離が遠いと思うことも。
私は椅子を寄せ、差し出された皿から菓子を少し頂いた。
お嬢様の好きな栗は、思ったより甘かった。
やがて本が開かれた。
私が読むのを待とうとなさるので、先へお進みくださいと申し上げると、お嬢様は納得せず、表紙の下で私の袖をつまんだ。
「一緒に読む約束だったもの」
その指のそばへ手を置く。
触れる寸前のところで止めたら、お嬢様のほうから指先を重ねてくださった。
暖炉の火が小さく鳴った。
今日は夕方までしか、ここにいられない。
明日も明後日も、同じ部屋を借りられるとは限らない。
それでもいま、お嬢様の足元は暖かく、膝には傷んでいない本がある。
空腹を隠して笑っていらっしゃるわけでもない。
「次、めくってもいい?」
私は重なった指を眺めるのをやめ、急いで最後の二行に目を走らせた。
「少々お待ちを。主人公が森で迷子になったままです」
お嬢様が笑って、開いた頁を押さえてくださった。




