第一話 あなたの最期
遠くで不規則に鐘が鳴っている。
続けて二つ。途切れて、また幾つか。
真冬の床の冷たさが、膝をついたところから染み上がってくる。
目の前に横たわるお嬢様の頬は、それよりも冷たかった。
「……起きてください」
いつものように、耳のそばで呼んだ。
白くこぼれた私の息が、お嬢様の髪にかかって消えた。
いつもなら、『もう少しだけ』と毛布を引き上げるその手は、動かなかった。
そもそも毛布がない。
こんなに寒いのに、何も掛けて差し上げていない。
私の腕に頭を預け、お嬢様は青い瞳を開けたまま動かない。
私がこんなに近くにいるのに、こちらを見てくださらない。
……お嬢様が、この瞳に最期に映したのは私じゃない。
「お髪が、汚れてしまいますよ」
床に散った金の髪を撫でる。
いつもなら指を滑らせるだけでほどける髪が、今日はうまく離れない。
肩を抱き起こすと、お嬢様の首が頼りなく傾いた。
嫌だ。こんな動き方はしない方なのに。
抱き方を間違えたのだと思って、何度も腕を差し入れ直した。
そのたびに袖が床の血を吸った。膝も、裾も濡れている。けれど、お嬢様の服のほうがずっとひどかった。
「……お嬢様、あの」
頬に赤い跡がついていた。
拭わなければ、と思って指を伸ばしたが、かえって広がってしまった。
胸元に耳を押しつける。
当然、何も聞こえない。
鼻の奥に鉄の匂いがした。
いつもの石鹸の匂いを探して、お嬢様の肩に顔を寄せた。
息を吸っても、吸っても、何度吸っても。
違う匂いしかしなかった。
カラン、と金属の擦れる音がして床を見ると、そこには見慣れない意匠の短剣があった。
白い百合の花びらに銀の蔓が絡み、真ん中に暗い赤の石が一粒。花から伸びる柄の先で、刃が鈍く光る。
鐘は今も鳴り続けている。
続けて二つ。途切れて、また幾つか。
聞き慣れた朝の鐘とは違って、数えようとするたび間隔が変わった。
「リュジィです。分かりますか」
顔を上げて、もう一度言った。
その時、背後から足音が近づいてきた。
顔を確かめるより先に、腕の中を抱き締めた。
靴底が床を打つ音に、かち、かち、と硬いものが触れ合う音が混じっていた。
それが少しずつ大きくなる。
誰? 来ないで。
この人に触らないで。
「お願いです、お嬢様。何か仰ってください」
私の名前でなくていい。
痛いでも、嫌でも、離してでも。
そう言ってくださったら、ちゃんと離すから。
◇◇◇
再び鐘が鳴った。
今度は、聞き慣れた間隔だった。
息を吸い込んで腕に力を込めると、抱いていたものがくしゃりと潰れた。
自分の毛布だった。
窓の外では朝を告げる鐘が鳴っている。
差し込む光に袖をかざしても、さっきまで見ていた血の染みは、どこにも見当たらなかった。
廊下へ飛び出し、お嬢様の部屋の前に走る。
「お嬢様」
ドアを叩いた音が思ったより大きく、力加減を間違えたことに気づく。
それでも返事を待ち切れずにもう一度手を上げたところで、向こうから私の名を呼ぶ声がした。
「……リュジィ?」
「お嬢様! 入っても、よろしいですか」
「ええ。どうしたの?」
お嬢様は寝台で身を起こしていた。
肩にこぼれる金の髪も、頬についた寝具の跡も。どれもよく見るお嬢様のものだ。
「あなた、裸足じゃない」
寝台の脇に膝をつき、差し出された手を取った。
指を握り返してくれるのがうれしくて、そのまま頬を寄せてしまう。
離そうとしても、手のひらから伝わる温かさを手放せず、かえって強く握った。
ああ、お嬢様だ。
「怖い夢でも見た?」
「……はい」
お嬢様は空いた手で私の髪を撫で、顔を覗き込んだ。
「しばらくここにいていいわよ。私も、まだ眠いから」
お嬢様の青い目には私が映っていた。
今、見てくださっているのは私で、さっき呼んでくださったのも私の名前。
ああ、好き。
その顔を見ているうちに、ようやく指の力が抜けた。
◇◇◇
制服に着替えて朝食の盆を取りに行くころには、廊下にも人の気配が増えていた。
食堂の扉からは焼いたパンとバターの匂いが漂い、奥様の前へ湯気の立つ卵料理が運ばれていく。
私の盆には、パンが一つと茶器だけが置いてあるだけだった。
「コレット様のお料理も、いただけますか」
「あれは部屋で食べるでしょう。あるもので済ませなさい」
奥様は顔を上げなかった。
向かいの伯爵が一度こちらを見たが、伯爵は何も言わずに皿へナイフを入れた。
盆の縁を握り直し、私は頭を下げた。
「失礼いたしました」
自分用の焼き林檎を取って戻ると、お嬢様は鏡台の前で待っていた。
「私、朝はそんなに食べないから」
「では、林檎は私が全部いただいても?」
包みを開くと、お嬢様の顔がこちらへ向いた。
「……それは、少し欲しいわ」
「よろしゅうございます。お髪を整えたら、半分にいたしましょう」
盆を置いて櫛を取り、髪をすくうと、お嬢様が鏡越しに目を合わせた。
「リュジィ。今日は編み込みにしてくれる?」
「少々お時間がかかりますよ」
「ええ。だから、お願いしているの」
指を止めると、お嬢様は唇を結んで鏡から目をそらした。
それでも私の袖をつまむ手は引っ込めず、少し小さな声で続けた。
「もう少し、あなたとおしゃべりしていたいの」
ああ、困ります、お嬢様。
そんなふうに袖をつまんだままお願いされたら、髪なんて一生、結い終わりません。
いつもの声で返したかったのに、口元が緩むのを止められなかった。
「……どのくらい複雑にいたしましょうか」
「お昼までかからないくらいに。……ほどくときに怒らないでね」
振り向いて言うから、すくった髪が指から滑った。
「お嬢様。動かれますと、夕食のお時間になりますよ」
お嬢様が声を立てて笑った。
扉へ目をやって口を押さえたのに、鏡の中で私と目が合うと、また指の隙間から笑いがこぼれる。
肩が揺れなくなるのを待って髪を分けると、淡い金の束がするりと指を滑った。
引っかかるところはどこにもなく、顔を寄せれば、よく知る石鹸の匂い。
耳の後ろへ髪をよけた指が、そのまま首筋に触れる。
温かさを確かめるようにもう一度なぞると、お嬢様が肩をすくめた。
「くすぐったいわ」
「申し訳ありません」
謝っても、手はすぐに離せなかった。
この肌に触るのに、髪を結う用事なんて要らなくなればいい。
私が触れたくて触れていると知ったうえで、ご自分から顔を寄せてくだされば、どれほどいいだろう。
「ねえ、今日は何色?」
引き出しから青と白のリボンを出し、青いほうを髪に当てると、お嬢様は鏡越しに眉を上げた。
「またそれ」
「お好きではありませんか」
「好きよ。でも、いつもそれじゃ白の出番がないわ」
お嬢様は鏡台に残った白いほうを取り、私の手首に巻いた。
結び目の右の輪だけが大きくなって、指先で少し引き戻される。
その動きを見たとき、全く同じ光景が頭をよぎる。
一週間前、眠っている間に見た手だった。
ああ。次に何をなさるのか、私はもう知っている。
「はい。リュジィも、お支度できました」
私の声色を真似て、顎を少し上げるところまで、あの日見た夢と同じ。
袖を叩かれた感触が残る手首を見下ろし、私は返事を忘れてしまった。
早くこの朝が来ればいいと、目を覚ましたあとも何度も思い出した夢がようやく現実になった。
うれしいはずなのに、結び目を整える指に、今朝の冷たい手が重なった。
あれも、こうして現実になるの?
手首に触れている指を、思わず捕まえた。
驚いた青い目が鏡越しにこちらを向く。
その瞳を見て、何か言わなければと思ったのに、床に横たわっていたお嬢様の顔が離れなかった。
「変だった?」
「……いいえ。お嬢様がお結びくださったので、見とれておりました」
「そういうことを、すぐ言う」
耳が赤くなった。それでも結び目をもう一度確かめてくださる指から、私は目を離せなかった。
お嬢様が丁寧に、私にリボンをつけてくださっている。
ああ、好き。
もっとつけてほしい。勝手にほどいたら怒ってほしい。
もし私が、同じようにほかの誰かに結んでもらったら、嫌がってほしい。
ねえお嬢様。
私は、あなたの手首に知らない誰かの指が触れるところを想像するだけで、こんなに息苦しいのですよ。
ねえ、お嬢様。
いったい誰に殺されるのですか。
他の誰かに触れられるだけでも嫌なのに。
あなたの最期まで、誰かに渡さなければいけないのですか。




