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第十話 あなたの手を

 大広間の床は、歩くたびに別の光を返した。

 燭台の火が磨かれた石に映り、青い衣装の裾を金色に縁取っている。


 壁際へ退こうとすると、お嬢様の手が私の袖を引いた。


「リュジィ、ここ……」


 差し出された手袋の手首を確かめる。皺はなかったけれど、縁へ指を差し入れ、もう一度整えた。

 お嬢様は私の手元を見ていらした。

 直し終えても手を下ろされないので、そっと指先まで撫でる。


「大丈夫でございます。とてもお綺麗ですよ」


 そのとき、ジュリアン様がいらした。


「とてもお似合いです」

「ありがとうございます」


 お嬢様は小さく礼をしてから、私をご覧になった。


「ここにいてくれる?」

「はい。こちらでお待ちしております」


 ようやく袖が離れた。


 慣れない大広間では、私の立つ場所が分かるだけでも心強いのだろう。

 そう思って微笑めたのは、ジュリアン様の手がお嬢様の腰へ添えられるまでだった。


 音楽が始まり、二人が人の輪へ入っていく。


 お嬢様は踊りがお上手だ。

 普段は裾を引かないよう歩いていらっしゃる足が、音楽に乗ると迷わなくなる。


 練習に付き合ったときには、私が一歩間違えるたび、笑いながら拍子を数えてくださった。

 あのとき腰を支えた場所に、いまはジュリアン様の手がある。

 

 お嬢様がこちらを向かれた。


 私を見つけると口元が緩み、何かを確かめるように目が合う。

 私は慌てて頷いた。


 するとお嬢様はまた向きを変え、ジュリアン様の腕の中へ戻っていかれた。


 見ております。

 見たくないところまで、全部。


 ほかの客が前を横切り、お嬢様のお姿が隠れた。

 ようやく見えたときには、ジュリアン様の言葉に笑っていらした。


 何を仰ったのかは聞こえない。ただ、腰にある手だけは、はっきり見えた。


 お嬢様が一歩下がる。

 その腰をジュリアン様が支え、次の拍子で引き寄せる。お嬢様は迷わず足を運び、あの方を見上げて笑われた。


 何度も、一緒に練習したところだった。


 私が足を止めてしまうと、お嬢様も止まってくださった。

 もう一度、と手を差し出されるのが嬉しくて、上手に踊れてしまったら練習が終わることのほうが惜しかった。

 曲の終わりまで踊れた日も、手を離すのが遅れた私を、お嬢様は急かさずに待っていてくださった。


 ジュリアン様がお顔を寄せた。

 お嬢様は聞き取ろうとして、少し顎を上げられる。耳の後ろにつけた香油が、あの方にも香っているのだろう。

 私が髪をよけ、指先で薄く伸ばしたものだった。


 そこまで近づかないで。


 腰に添えられた指が、布の上で動いた。

 お嬢様が回ると、いったん離れた手が、また同じ場所へ戻る。


 どうして、当たり前のように触れるのです。


 揃えていた手を握り込み、爪を指へ押しつけた。

 痛みに手を開いても、二人はまだ踊っていた。


 あの方の手ばかり見ていたはずなのに、いつの間にか、その肩に置かれたお嬢様の手を見ていた。


 私には、ご自分から手を重ねてくださったでしょう。

 袖を引いて、もう少しそばにいてほしいと仰ったでしょう。

 あのとき私がどれほど嬉しかったか、お嬢様はご存じない。


 嫌だ。


 一曲が終われば戻っていらっしゃる。

 そう言い聞かせようとして、そのあとには何度でも、あの方と踊る夜が来るのだと思った。


 私はそのたびに髪を整え、衣装を選び、送り出すのだろうか。

 今夜と同じように、壁際で手を揃えて。

 お嬢様が誰に触れられても、笑ってお迎えしなければならないのだろうか。


 できない。


 お嬢様。こちらをご覧になって。

 私を呼んでください。そうしたら、すぐに参りますから。


 お嬢様の唇が動いた。ジュリアン様が笑われた。

 私には、聞こえなかった。


 誰にも渡したくない。


 あの方にも、この先お嬢様がお好きになるかもしれない誰かにも。私の知らないお声で笑うところなど、もう見たくなかった。

 私の手が届くところにいて、私に触れられて、私だけを呼んでいてほしかった。


 ……それが叶わないのなら。

 私のものにならないなら、いっそ――


 曲が終わると、お嬢様は礼を済ませ、すぐにこちらへ歩いていらした。

 ジュリアン様が追いついて声をかけると、足を緩められたけれど、目は私のいる場所へ向いたままだった。


「リュジィ、お水を少しいただける?」

「はい、ただいま」


 グラスをお渡しすると、お嬢様は一口だけ飲んで、私を見上げられた。


「見ていた?」

「はい。お上手に踊れていらっしゃいました」

「最後のところ、練習では二人で止まってしまったでしょう。今日はできたの」


 頬を緩められたその顔が可愛くて、私はグラスを受け取る手を出すのも忘れた。


 踊ってほてった頬の熱へ、手を当てたい。

 あの方に触れられた腰も、手も、全部、私の手で触れ直してしまいたい。


「次は、リュジィとも踊れたらいいのに」

「またお靴を踏んでしまいますよ」

「一度だけだったわ」


 お嬢様はそう仰って、少し身を寄せられた。


「帰ったら、練習してくれる?」

「何度でも」


 返事が早すぎたのか、お嬢様が笑われた。

 私も笑って、差し出されたグラスを受け取る。


 今すぐ帰りましょうと言えたら、どれほどよかっただろう。

 エリーズ様がジュリアン様に話しかけたのは、その直後だった。


 踊りたい曲が始まるところだと仰り、奥様も当然のようにお二人のそばへ立った。

 ジュリアン様がお嬢様へ目を向けられる。


「私は、少し休みますので。どうぞ」

「では、一曲だけ」


 エリーズ様は笑ってその腕を取った。

 お嬢様は二人が輪へ入るのを見届けるより先に、私へ顔を戻された。


「あなたも、座れないの?」

「私は、こちらにおりますから」


 給仕に道を譲ろうと一歩退くと、お嬢様の手が椅子の肘掛けから浮いた。

 すぐに戻って身をかがめる。


「何かございますか」

「……いいえ」


 お嬢様は私の袖口についた糸屑を摘ままれた。

 取ってくださったあとも、指は袖の縫い目をなぞっていた。


 慣れない人の多さに、気疲れしていらっしゃる。

 それなら、私だけをご覧になっていればいい。


 ジュリアン様は約束どおり、一曲で戻っていらした。

 そばには、明るい茶色の髪をした男の方がいる。


「先日お話しした友人です。ちょうど会えたので、ご挨拶だけでもと思って」


 袖に触れていた指が止まった。

 男の方はお嬢様に礼をしてから、私へ名乗られた。

 ジュリアン様から、私がウェルネ家の娘であることも、お嬢様の侍女をしていることも聞いていたらしい。


 頼んでおりません。

 私のことを、そんなに詳しく話してくださらなくても。


「お仕事中に申し訳ありません。ジュリアンからお話を伺って、一度ご挨拶をと思っておりました」

「恐れ入ります」


 必要なだけ微笑んだ。

 お嬢様の前でなければ、顔を向けることさえしたくなかった。


「もしよろしければ、少しお話しできませんか」

「今は、お嬢様のお付きで参っておりますので」

「それでしたら、ここで。コレット様、お邪魔してもよろしいでしょうか」


 お嬢様は膝の上で手を重ねられた。

 返事をなさろうとして唇が動いたけれど、声にはならなかった。


 その顔色を確かめようとしたとき、男の方が私へ手を差し出した。


 触らないで欲しい。

 笑ったまま、指を引こうとした。


 しかしその前に、手首を強く引かれた。

 半歩よろめいて振り向くと、椅子から立ち上がったお嬢様が、私の手を両手で持っていらした。


「あの、その……」


 お嬢様の目は、差し出された男の手に向いていた。

 男の方が手を下ろしても、私の手首は放されなかった。


「お嬢様、顔色が……」


 踊ったあとの赤みが、すっかり引いている。

 身を寄せると、お嬢様はこちらを見上げられた。

 何か言おうとなさるたびに、指が私の手を握り直す。


「帰っても、いいかしら」


 私にだけ届くほどのお声だった。


「はい。すぐに」


 肩へ腕を回し、ジュリアン様と、その友人の方へ頭を下げた。


「申し訳ございません。お嬢様を休ませて差し上げたく存じます」

「馬車を呼びましょう。どうぞ、こちらへ」


 ジュリアン様はすぐに人を呼んでくださった。

 お嬢様は小さく礼を仰ったけれど、差し出されたその腕には移らず、私のそばを歩かれた。


 私が支えております。

 もう、触れてくださらなくて結構です。


 受け取った外套で、お嬢様の肩を包む。その下へ手を入れ、冷えた指を握り返した。

 こんなときなのに、口元が緩みそうだった。


 お嬢様が、ご自分で私の手を取ってくださった。

 あの男の手が届くより、先に。



◇◇◇



 馬車に乗ると、お嬢様は向かいの席へは行かず、私の隣へ腰を下ろされた。

 裾を挟まないよう持ち上げ、外套の前を合わせる。

 頬へ手を当てても熱はなく、呼吸も広間にいたときより落ち着いていた。


「お疲れになったのですね」


 手を離そうとすると、お嬢様の指が追ってきた。

 頬に当てていた手を、そのまま両手で包まれる。


「リュジィ、もう少し……」


 包まれた手を胸元へ引き寄せられ、私は身体を寄せた。

 お嬢様は私の肩へ額を預け、外套の中へ腕を引き込まれた。


 金の髪が顎に触れ、耳の後ろにつけた香油がふわりと香る。


「はい。ここにおります」


 お嬢様の指が掌へ入り込んできた。

 一本ずつ、指の間を埋めるように重なる。

 握り返すと、お嬢様は顔を上げずに、さらに身を寄せられた。


 こんなに甘えてくださるなら、何度でもお連れして帰りたい。

 誰と踊っていても、誰に呼び止められていても、私の手を取ってくださればいい。


 馬車が曲がり、外の灯りがお嬢様の頬を滑った。

 窓の覆いを引こうと片手を抜きかけると、重なった指に力がこもった。


「お嬢様?」

「……このままでいいわ」


 私は手を戻した。

 お嬢様は繋ぎ直した指を見下ろし、それから、私の肩へ頬を寄せられた。


 このまま家へ帰りたくない。

 誰も扉を開けないところまで、この馬車が走ってくれればいい。

 お嬢様が私を求めていらっしゃるうちに、ほかの行き先を全部なくしてしまいたい。


「眠っておいでください。着きましたら、お呼びいたします」


 お嬢様は目を閉じられた。

 けれど、馬車が止まるまで、その指が緩むことはなかった。

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