第十一話 あなたの贈り物
屋敷へ着いても、お嬢様はすぐには馬車を降りなかった。
私が先に外へ出ようとすると、繋いだ指に力が入る。
足元を確かめるだけでございます、と申し上げてようやくほどいていただき、私は石段の下から手を差し出した。
降りてきたお嬢様の体重が、掌へ静かに移る。
広間にいたときの青白さは、もう薄れていた。
それでも疲れさせたくなくて、廊下ではいつもより遅く歩いた。
お嬢様は私の腕に手を添え、部屋の扉が閉まってから、ようやく長い息を吐かれた。
「温かいものを、お持ちいたします」
「あとで、いいわ」
外套を受け取る私の袖に、また指が触れる。
「先に、渡したいものがあるの」
お嬢様は鏡台へ向かわず、寝台の脇の小さな戸棚を開けた。
奥から取り出された包みには、白いリボンが掛かっている。
膝ほどの高さで両手に載せて、こちらへ戻っていらした。
私は外套を椅子へ置き、手袋を外した。
お嬢様が何かをくださるときは、受け取る前から嬉しくなってしまう。
あの手袋も、指の間へぴたりと収まった瞬間より、選んでくださる横顔のほうをよく覚えている。
「私に、でございますか」
「ええ。……気に入ってもらえると、いいのだけれど」
頬に少し赤みが戻り、お嬢様は包みの下へ添えた指を伸ばした。
私は両手で受け取った。
見た目より重かったが、細長い箱の中身まで考えず、まず結び目を眺めた。
右の輪のほうが、少し大きい。
「開けてもよろしいでしょうか」
お嬢様が頷く。
白いリボンをほどくと、張りつめていた紙が小さく息をつくように緩んだ。
机へ包みを載せ、箱の蓋を上げる。
薄紙の上に、白い百合があった。
「ロジェ工房に、私がお願いしたの」
お嬢様の声と、目の前の花が、同時に胸へ入ってきた。
銀の蔓が花びらに絡み、中央には暗い赤の石が一粒。
鞘に収まった短剣は、灯りの届くところだけを滑らかに光らせていた。
私は箱の両端に手を置いたまま、動けなくなった。
「あなたの絵を、少し借りたの。驚かせたくて、黙っていてしまって」
お嬢様が小さく笑う。
笑い終える前に、私の顔を確かめるように目を上げた。
「工房で、とても熱心にお話を聞いていたでしょう。あのお品が好きなのだと思って」
あの床に落ちていたものが、ここにある。
けれど、白い薄紙の上には汚れ一つない。
お嬢様の手で結ばれたリボンが箱の横に伸びて、端が机から少し垂れていた。
それを踏まないよう、私は片手でそっと引き上げた。
「……気に入らなかった?」
お嬢様の声が細くなった。
顔を向けると、先ほどまで包みを支えていた両手が、胸元で重なっていた。
指先は互いを押さえ、私が返事をする前に、ご自分の手を隠そうとしている。
「いえ……違います。嬉しいのです。本当に」
すぐにそう申し上げた。
嘘ではなかった。
あの工房へ伺ってから、ひと月あまりが過ぎていた。
お嬢様は私の欲しいものを考え、職人へ手紙を書き、値段を確かめ、届くまで待っていてくださった。
私の目に映っていない時間にも、私を思っていてくださった。
そのことが嬉しくて、胸が痛いほどだった。
「こんなに立派なお品を、私に」
「立派すぎたかしら。手紙にお値段が書いてあったとき、少し驚いたの」
ほっとされたのか、お嬢様がようやく指をほどいた。
「でも、しまっていたお金で足りたから。あなたには、いつもいろいろしてもらっているでしょう」
帳面に残した小さな買い物を思い出した。
新しい本を買わなかった日。
刺繍糸を今ある色で済ませられた日。
その一つひとつの理由を、私は自分が知っているつもりでいた。
「そんなことを、お考えにならなくても」
「私が、あげたかったの」
控えめなお声だった。
けれど、その一言のために、私は何も続けられなくなった。
箱から短剣を持ち上げると、銀の重みが手に載った。
蔓の裏側は滑らかに整えられ、指に引っかからない。
花は白く、絡みつく蔓だけが肌に冷たかった。
光の入らない石の奥を見ていると、そこに何かが沈んでいるように見える。
目を閉じれば、床に落ちた同じ花を思い出せた。
それなのに私は、この品を手放したくなかった。
お嬢様の前で、もっとよく見ている顔をしなければと思ったのではない。
本当に見ていたかった。私だけへ贈られた証拠を、指の上で少しずつ向きを変え、どこも見落とさず覚えておきたかった。
「お花のところ、絵と同じになっている?」
「はい。……本当によく似ております」
「よかった。赤い石も、あの日あなたが選んだものを覚えていてくださって」
お嬢様が隣へ寄り、石へ顔を近づける。金の髪が私の腕に触れた。
私は短剣を箱へ戻し、その髪をよけるふりをして、お嬢様の頬に指を添えた。
この方が、私へ贈り物をくださった。
どれほど好きか、何を欲しがっているか、何も知らずに。
今夜、よその男の腕にいるお姿を見ながら、私がどんな顔をしていたかも知らずに。
頬を寄せてくださる温かさに、触れているほうの指まで熱くなった。
「ありがとうございます。大切にいたします」
お嬢様の唇がほころぶ。
近すぎて、息が触れそうだった。
私は手を離す代わりに、頬の横へ垂れた髪をもう一度撫でた。
お礼の口づけくらい、という言い訳が頭をよぎり、その言い訳でどこまで欲しがるつもりなのか、私は自分をよく知っていた。
お嬢様の目が、机の箱へ向いた。
「あなたのお部屋に、置いてくれる?」
「はい」
「目に入るところだと、嬉しいわ」
そのお願いには、何のためらいもなく頷いた。
お嬢様がお休みになるまで、私はいつもどおりに働いた。
湯を頼み、衣装の留め具を外し、細い紐を緩める。
夜着の上に肩掛けを着せると、青い衣装をまとっていた方が、よく知るお嬢様へ戻ったようで、ようやく息ができた。
足の痛いところはないか確かめ、髪を梳き、温かい飲み物を渡す。
お嬢様は一口飲んだあと、短剣の箱を置いた机へ目を向けた。
「明日の朝、どうだったか教えてね。明るいところで見ても、好きかどうか」
私は笑おうとして、うまく口元が動かないことに気づいた。
「明日も好きでございます」
お嬢様のことを答えたつもりだった。
お嬢様は目を伏せ、茶器を両手で包んだ。
そのお顔を見ているあいだは、机の上の品に何が重なって見えたかを忘れられた。
◇◇◇
自室へ戻ると、私は包みを机の真ん中に置いた。
灯りを近づけ、薄紙を開き直す。
花びらの端から銀の蔓へ目を走らせた。
違っているところが一つでもあればと探したのに、見れば見るほど、あの光景が鮮明になる。
いま、この品がここにある。
夢の床ではなく、私の机に。
私は薄紙を掛け、リボンを箱の上へ揃えた。
机へ置いたままでは、扉を開けた人の目に触れる。
せっかくいただいた品を汚したくもなかった。そう理由を並べて、引き出しへしまった。
閉めたあとも、白い花の位置が見える気がした。
眠るつもりになれず、灯りを消してから長く天井を見ていた。
お嬢様の頬の温かさを思い出し、馬車で握られた指を自分の手で包んだ。
嬉しかったのは本当だ。
そのことだけは、何度確かめても変わらなかった。
遠くで、不規則に鐘が鳴った。
続けて二つ。途切れて、また幾つか。
気づくと、私の膝の下は硬い床だった。
腕にある髪は重く、抱き起こしたお嬢様の顔が、私の胸元へ頼りなく傾いた。
さっき温かい茶を飲んでいた唇が、少し開いたまま動かない。
「お嬢様」
呼ぶと、声が部屋に跳ね返った。
足元の短剣に、白い百合が咲いていた。
私はお嬢様を抱き直した。近くにいればお返事を聞き逃さずに済むと思って、耳を口元へ寄せた。
何も聞こえない。
違う、あんなに喜んでいらしたのに。
私がいただいたのに。
「私に、くださったでしょう」
声が大きくなった。
「どうして、ここにあるのですか」
背後から足音が近づいてきた。
かち、かち、と硬いものが触れ合う音。
私は顔を上げられなかった。腕の中のお嬢様が、もう二度と、私の袖をつまんでくださらないことのほうが怖かった。




