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第十二話 あなたの望むもの

 目が覚めてからも、耳の奥で鐘が鳴っていた。


 引き出しを開けると、昨夜いただいた短剣は、薄紙の上に静かに収まっていた。

 白百合の花びらには傷一つなく、暗い赤の石に朝の光が小さく留まっている。


 あの床に落ちていたものと同じだというのに、手を伸ばした私は、まず花びらを欠かさない持ち方を選んだ。


 お嬢様が私のために選んで、私に知られないよう注文してくださった。

 包みを開ける手を見守っていた、あの不安そうな顔を思い出すと、今も胸の奥が甘く痛む。


 嬉しい。嬉しくて、どうしてよいか分からない。

 夢から戻ったばかりの手で、私は贈り物をそっと包み直した。


 その日の朝、お嬢様は私の顔を見るなり、枕から頭を上げた。


「どこに置いたの?」

「私の部屋に。傷をつけては困りますから」

「使ってくれてもいいのよ。飾るだけでは、つまらないでしょう」

「では、いずれ何か、大変立派な封書でも届きましたら」


 お嬢様は笑いかけて、途中で唇を閉じた。


「……誰からお手紙が来るの?」

「たとえばのお話です」


 掛け布から出た手に袖を掴まれた。

 私は寝台へ身を寄せ、額に落ちていた髪を耳の後ろへ運んだ。


「私のお手紙にも、使ってくれる?」

「もちろんでございます」


 毎日お会いしているのに、何を書いてくださるのだろう。

 尋ねるより先に、お嬢様の頬が私の指へ寄ったので、そちらのほうが気になってしまった。


 少なくとも今、この人は私の手の届くところにいる。

 それを一つずつ確かめるように、いつもよりゆっくり髪を梳いた。


 ジュリアン様がいらしたのは、三日後の午後だった。


 小客間には初めから椅子が三脚用意されていた。

 奥様がエリーズ様にも同席するよう仰ったのだと知り、私は茶碗をもう一つ用意した。


 二人きりでお話しされるよりは、そのほうがよかった。


「姉様は、遠い国のお話はあまりお好きではないの。でも私、いただいた本をもう二度も読んでしまいました」


 エリーズ様は新しい本の背を指で撫でながら、ジュリアン様へ笑いかけた。


 以前の一冊を返すためにいらしたはずが、いつの間にか、もう一冊を膝に載せている。


「最後の章は、あなたが仰っていた場所ですね」

「ええ。私が行ったころには新しい橋がかかっていました」


 二人のあいだには、お嬢様も私も知らない話があった。


 いつ、お貸しになったのだろう。


 お嬢様へ届けられる品なら、私が受け取る。


 包みを開けるときにはそばにいて、お返事に困られれば一緒に考える。けれど、この本については何も知らなかった。


 私の知らないところで、この二人がお会いになっている。

 そう考えると、胸の奥が少し軽くなった。


 もっとそのお話をなさればいい。

 橋でも、旅先でも、お嬢様が口を挟めないお話を、いつまでも。


 お嬢様はしばらく二人のお話を聞いていらしたが、私が茶を置くと、小さく礼を仰った。


 そのまま顔を上げ、私の立つ場所を確かめられる。


 せめて私には、こちらを見ていていただきたかったのかもしれない。

 大丈夫です。あちらのお話など、聞いていなくても構いません。


 お嬢様がお顔を上げたときには、いつでも私が気づきますから。


「コレット様のお好きな詩集も探しているのです。以前、お話しされていた……」


 ジュリアン様が話を向けられた。


「ありがとうございます。あの本は、リュジィが見つけてくれました」


 お嬢様が私を振り返られる。


「表紙が違っていたから、私だけでは分からなかったわ」

「背の文字が、ほとんど消えておりましたものね」


 あの店では、お嬢様が手に取られる本ばかり見ていた。


 私が見つけました。


 お嬢様が探していらしたものも、それをお渡ししたときのお顔も、あなたがまだ店を探しているあいだに、私はいただいております。


 こんなことで勝ったような気持ちになる。


 お嬢様があの方へ返事をなさりながら私をご覧になるのが嬉しくて、つい、いつもより長く目を合わせてしまう。


「そうでしたか。では、違うものを」


 ジュリアン様の声に、お嬢様は正面へ向き直られた。


「どうぞお気遣いなく。まだ、読み終えておりませんから」


 お嬢様の返事に、エリーズ様の口元がわずかに緩んだ。


 すぐに本を開き、先ほどの橋はこの挿絵のものかと尋ねられる。

 ジュリアン様は頁へ目を落とし、架け替えられる前の橋だと説明なさった。


 今度は、お嬢様のお茶が冷めないうちに菓子を勧めた。


 好きなものを選び、少しずつ召し上がっていらっしゃる。

 あちらへ向けて何か言いかけることもなかった。


 このままで済むなら、どれほど楽だろう。


 あの方はエリーズ様のお話を聞き、私はお嬢様のお茶を淹れる。

 お嬢様も、私のいるほうへ顔を向けてくださる。


 誰も、席を替わろうと言わなければいい。


 帰り際、ジュリアン様はお嬢様が寒くないかと気にかけてくださった。

 外套を着せる私の手を待ち、玄関の石段が凍っていないか、靴底で確かめてから場所を空ける。


 まだ、そういうことはなさるのね。


 私には、お嬢様のために新しい家を用意することはできない。


 伯爵や奥様が何を仰ろうと、ご自分の屋敷へ迎え入れられるこの方とは違う。

 いっそ酷い男なら、お任せできませんと申し上げるだけでよかった。

 この人の親切を当てにしながら、お嬢様には触れないでほしいなどと、私は何を望んでいるのだろう。


 それから、ジュリアン様が訪ねていらしても、お嬢様にお知らせが来ない午後が二度あった。


 一度は食堂へ行く廊下で、ご本人と出会った。

 彼はひどく驚いた顔をしてから、伯爵との用事で伺ったのだと説明した。

 扉の開いた小客間にはエリーズ様がいて、彼の帽子と手袋が、隣の椅子に置かれていた。


 私たちに会わずに、お帰りになるつもりだったのですね。


 望んでいたはずなのに、その驚いたお顔を見ると腹が立った。

 お嬢様は何も咎めていらっしゃらない。会釈をなさる前から言い訳を聞かされるようなことを、この方がしたわけでもない。


「そうでしたか」


 お嬢様はそれだけ仰って、私の腕を取られた。

 角を曲がってからも足を止めず、こちらへ少し顔を寄せる。


「今日は部屋で食べたいわ。あなたも、一緒に」

「私もでございますか」

「お昼はまだでしょう?」


 頷きながら、お顔を確かめた。

 何かお尋ねになるのなら、お答えするつもりだった。

 いつからご存じだったのかと聞かれても、私も知らなかったとしか申し上げられないけれど。


 けれど、お嬢様が気になさったのは、私のお昼だった。

 料理を運ぶあいだも、ジュリアン様については何も尋ねられなかった。

 二人分の皿を並べると、お嬢様は焼き立てのパンを割り、大きいほうを私の皿へ載せてくださった。


「お嬢様、そちらを」

「あなたの分も頼んだのだから、食べて」


 差し戻そうとした手を押さえられる。

 仕方なく受け取ると、お嬢様は満足そうにご自分のパンへ手を伸ばした。

 向かいの椅子を引こうとして、袖を引かれた。


「そちらでは、遠いわ」


 卓を挟んでも、お話は聞こえる。


 それでも遠いと仰るので、私は隣へ椅子を移した。

 近づけすぎたかと思うほど寄せても、お嬢様は何も仰らず、ようやく袖を離してくださった。


 ここでよいのですね。


 食事をするには、少し近かった。

 私が手を動かすたびに、お嬢様の袖へ触れる。

 それが気になって、何を召し上がりたいかお聞きするより、自分の腕を引かずにいてよい理由ばかり考えていた。


 あちらの部屋で何が話されていようと、今は知りたくなかった。

 お嬢様も、尋ねないでいてくださればいい。

 私のお昼を気にして、隣へ呼んで、こうしてご自分のパンを分けてくだされば。


 婚約を解消したいと告げられたのは、その四日後だった。

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