第十三話 あなたのそばに
ジュリアン様はお嬢様の正面に座り、私にも席を外すようには求めなかった。
エリーズ様も奥様もいない小客間は、不自然なほど静かだった。
「ご家族には、お話ししました。けれど、あなたには私から申し上げなければと思いまして」
お嬢様は膝の上で手を重ねられた。
「エリーズと、結婚なさるの?」
「……はい」
先に、身体の力が抜けた。
お嬢様のお返事も、お顔も、まだ確かめていないのに。
もう、あの方と踊る夜を待たなくてよい。お渡しするために髪を整えなくてよい。私はこの人の許しをいただいて、お嬢様についていく侍女にならずに済む。
よかった。
そう思ってから、慌ててお嬢様を見た。
ジュリアン様は謝るために伏せていた目を上げ、今度は逸らさなかった。
「彼女と会うことを、楽しみにするようになりました。あなたに申し訳ないと分かっていて、訪問する理由を探しました。ご家族の意向だけで決めたことではありません」
お嬢様は長く息を吐かれた。
重ねていた指がゆっくり緩む。
その手が震えていないことに安心して、私はようやく、あの方の言葉を聞き直した。
会いたいから、理由を探した。
私も、返す必要のない布を抱えて、お嬢様のお部屋の前を通ったことがある。
その気持ちまで、分かってしまうのが嫌だった。
ただ、分かるからといって、この方がそれを聞かされるところを、黙って見ていたいわけではない。
「お父様は、もうお許しになったのですね」
「はい」
「そうですか」
縁談が決まった日にも、お嬢様のお返事は最後だった。
終わるときまで、同じなのね。
「私に、異存はございません」
静かなお声だった。
私はその言葉をもう一度、胸の内で繰り返した。
お嬢様がよいと仰った。
私が何か申し上げたわけではない。お引き止めにならないのは、この方がお決めになったことだ。
それなら、喜んでもよいのだろうか。
「あなたに不自由のない暮らしを、という気持ちは、初めから本当でした」
「はい。よくしていただいたことは、覚えております」
お嬢様の目が、私へ向いた。
すぐに正面へ戻られたけれど、その一瞬に何を求められたのか分からず、私は椅子のそばへ半歩寄った。
「ですから、それ以上は……」
お嬢様は少し言葉に迷われた。
「ご無理をなさらないでください」
ジュリアン様が頭を下げられた。
お嬢様は引き留めず、お詫びの言葉を静かに聞いていらした。
もうよいと仰っているのだから、お帰りになればいい。
これ以上、優しくしてくださらなくてもよい。お嬢様に許されたと確かめるために、何度もお返事を求めないでいただきたかった。
廊下にはエリーズ様が待っていた。
ジュリアン様の顔を見て、彼女は一瞬だけ不安そうな目をした。
彼が頷くと、胸元に寄せていた指がほどける。私たちに見られていると気づいても、もう彼のそばを離れなかった。
「お姉様、私……」
「どうぞ、お幸せに」
お嬢様はそれだけを言い、私へ手を伸ばされた。
差し出した腕へ手を添えて歩き出される。
その指は思ったよりいつも通りで、私はかえって、お顔を確かめたくなった。
無理をしていらっしゃるのだろうか。
それとも、本当に、あの方を引き止めたくはなかったのだろうか。
尋ねれば、聞きたいほうのお返事を待ってしまう。
私は何も申し上げず、お嬢様の歩幅に合わせた。その手が私の腕にあることだけは、確かだった。
階段の手前で、奥様に呼び止められた。
「これで先方とも丸く収まったわ。あなたも、その様子なら分かっているのでしょう」
お嬢様は返事をしなかった。
「いつまでも同じように暮らせるとは思わないことね。エリーズの支度には場所も人手も要るのだから」
腕に添えられていた手が、急に強くなった。
お嬢様は奥様のお顔を見たあと、私を振り返られた。
「リュジィも……」
「お嬢様のお世話は、私の務めでございます」
続きを仰る前に答え、奥様へ頭を下げる。
「お部屋やお支度についてのご用でしたら、後日、私が伺います」
お嬢様の指が、私の袖を掴んでいた。
それを外すよう言われる前に、私はお嬢様を階段へお連れした。
縁談も、部屋も、そばにいる者も。
この人は、どこまで取り上げれば満足するのだろう。
そうして最後に、もう何も持っていない娘を片づけるつもりではないのか。
夢の中で聞いた足音には、顔がなかった。
私はそれを承知で、奥様の姿をその先へ重ねていた。
部屋に戻ると、お嬢様は扉が閉まるのを待って、私へ抱きつかれた。
肩掛けを外そうとしていた手を背へ回す。
衿に頬を埋められ、冷えた鼻先が首に触れた。
「お嬢様」
「少し、こうしていて」
背を撫でると、肩に掛かる重みが深くなった。
お嬢様が話し始めるまで、私は何も申し上げずに待った。
「……あの方には、よくしていただいたわ」
「はい」
「でも、結婚しないと聞いて、悲しいとは思わなかったの」
お嬢様は私の衿から顔を離された。
「それを、申し訳ないと思ったわ」
お返しする言葉を探しているうちに、お嬢様の指が私の袖を撫でた。
縫い目を辿り、手首のところで止まる。
「私のお部屋が変わったら、あなたも、ほかの方のお世話に行くの?」
私が答えるより先に、お嬢様は首を横に振られた。
「嫌」
小さなお声だった。
言ってしまってから困ったように目を伏せ、それでも、私を掴む手は緩まなかった。
甘いものが喉の奥へ満ちた。
もう一度、仰っていただきたかった。
ほかの誰のところへも行くなと。お嬢様のそばにいろと。そう命じてくださるなら、私はどれほど嬉しいだろう。
「私も、お嬢様のお側がよろしゅうございます」
指先が袖を離れ、私の手を探した。
包むように握ると、お嬢様はそれをお顔のそばへ引き寄せられた。
こんなに心細くさせられて。
この家には、私のほかに安心して頼れる者がいない。
そのことを憎みながら、お嬢様の頬が掌へ預けられると、私は嬉しかった。
守らなければ。
腕の中の温かさを抱き締めながら、廊下へ続く扉を見た。
ここにいれば、またあの人たちが入ってくる。
お嬢様が眠られてから、自室の机で母への手紙を書いた。
近くに二人で暮らせる貸家はないか。
実家の帳場で、給金をいただいて手伝える仕事はないか。
書き出したあとで、引き出しの奥から貯えの袋を出した。
金を数え、家賃と二人分の食費を見積もる。
安く見積もっても、二か月ほどしかもたなかった。冬には薪も要る。
まだ、お嬢様には申し上げられない。
部屋も仕事も、どこにも決まっていなかった。
連れ出すと言っておきながら、やはり帰りましょうと、あの玄関へお連れすることだけはしたくなかった。
封をした手紙を翌朝出す便りの盆へ置き、自室へ戻った。




