第十四話 あなたのために
婚約が解消されても、ここ数日、私はよく眠れなかった。
目を閉じると、短剣を差し出された夜の声が聞こえた。
気に入らなかったかと尋ねるあの声に、何度でも首を振りたくなる。
けれど、そのあとには決まって夢の床があり、私は温かな贈り物と冷たい頬を、同じ胸の内に抱えて朝を迎えた。
夜明けに鏡を見ると、目の下に薄い影ができていた。
顔を洗い、髪をきっちりまとめる。お嬢様に気づかれないよう、鏡の前でいつもの顔を一度作ってから、部屋へ伺った。
お嬢様は早くに目を覚ましていた。
窓の外がまだ青いうちから暖炉の火を眺め、私が盆を置くと、椅子の隣を空けてくださった。
夜着の上に羽織った肩掛けがずれている。直そうと手を伸ばすと、私の指が襟元に引き留められた。
「今日は、髪を結ばなくてもいい?」
「お出かけのご予定はありませんから、お好きなように」
「では、少しだけ梳いて」
「少しだけ、は難しゅうございますよ。途中でやめたら、片側だけ大変立派になります」
お嬢様は笑って背を向けた。
櫛を通すと、髪が肩掛けの上を滑り、火の光を受けたところだけ金の色が濃くなった。
こうしていれば、何も変わらずに済む気がした。
この髪に触れるのは私で、お嬢様が朝最初に呼ぶのも私。
けれど、隣の小客間ではもうエリーズ様の新しい婚約の話が進み、使用人たちの仕事も、祝い事に合わせて組み替えられている。
お嬢様の居場所など、伯爵は紙の一枚で動かしてしまう。
「リュジィ、痛くない?」
鏡越しに尋ねられて、手を止めた。
「何がでございますか」
「櫛を強く持っているから」
柄に添えた指を緩めると、ようやく爪の跡が掌にあることに気づいた。
お嬢様は振り向き、私の手を取って、へこんだところを親指で撫でた。
「無理をしないでね」
その優しさに、頷くしかなかった。
もう、ジュリアン様へお渡しするために、この髪を整えることはない。
それが嬉しかった。
お嬢様が破談を悲しんでいらっしゃらないと知ってからは、なおさらだった。
私の手を取って、ほかの方のところへ行くのは嫌だと仰ってくださった。
思い出すだけで頬が緩む。
今も、掌の爪の跡を気にしてくださる指を、離したくなかった。
このまま、二人で暮らせたら。
母から返事が来て、部屋と仕事が見つかれば、この家を出られるかもしれない。
お嬢様に我慢していただくことは増えるだろうけれど、少なくとも、誰かの足音を聞いて手を離す必要はなくなる。
それなのに、夢の中では、この頬が冷たい。
お嬢様はここにいて、私の手を撫でてくださっている。
あの方との結婚もなくなった。
少しずつ良いほうへ進んでいるはずなのに、目を閉じると、どうしてもあの床へ戻ってしまう。
私は梳き終えた髪を肩掛けの上へ広げた。
指の間から最後の一筋が抜けるまで、ゆっくりと手を下ろした。
朝食のあと、お嬢様は寝台へ戻りたいと仰った。
「昨夜、あまり眠れなくて。今なら眠れそうなの」
寝台の掛け布を直し、暖炉に薪を足した。
お昼前のお茶までゆっくりなさってくださいと申し上げると、お嬢様は私にも座って休むよう勧めてくださった。
「私も、片づけが済みましたら」
「約束よ」
指を一本、差し出される。
大人になってもこんな約束をしてくださることが愛おしくて、私はその指に自分の指を絡めた。
引き寄せれば、簡単に口づけられる距離だった。
それをしないうちに手を解き、まだ温かい盆を持って部屋を出た。
自室の引き出しを開け、短剣の包みを机へ乗せた。
白い百合に絡む銀の蔓は、明るい場所で見れば見るほど精巧だった。
花びらの間へ伸びた細い線を目で辿ると、蔓は裏側まで回って、離れないよう花を抱いている。
私が好きそうだと、お嬢様は思ってくださったのだろう。
正しかった。
飽きるまで眺めていたいし、誰にいただいたのかと尋ねられれば、隠すどころか聞かれなかったことまで話してしまいそうだ。
その品を、私は薄紙の上から動かせなかった。
夢の短剣は、この引き出しにあったのかもしれない。
奥様がここへ入ったところを見たわけではない。
刃物を欲しがったことも、お嬢様の部屋へ忍び込んだことも知らない。
それでも私は、あの方が使うのだと考えた。
そう考えるほうが、ずっと楽だった。
これの持ち主は、私だ。
私なら、お嬢様のそばへ誰にも怪しまれずに行ける。
私なら、差し出した手を疑われない。
あの夢で私は、床に落ちていた短剣と、お嬢様を抱き起こせる場所に初めからいた。
助けに来たのだと思っていた。
そうでなければならなかった。あんなに必死に呼びかけて、目を開けてほしいと願っていたのだから。
けれど、あの床へ来る前に、私が何をしていたのかは見ていない。
短剣へ伸ばしかけた手が止まった。
夜会で、お嬢様を見ていたときのことを思い出した。
ジュリアン様の肩に置かれた手が嫌で、こちらを向いてくださらないことが耐えられなくて。
私のものにならないなら。
その先を、考えなかったことにはできない。
もう、あの方と結婚なさることはない。
今朝も、お嬢様は私を隣へ呼んでくださった。あの夜のように、二人の間へ割って入らなければならないわけではない。
この人と生きて暮らすために、母への手紙まで書いた。
だから、大丈夫だと。
そう思いたいのに。
お嬢様が笑っていらしただけで、その先を奪いたくなった自分を覚えていた。
あのときも、大切だった。
今より好きではなかったから、あんなことを考えたわけではない。
私は、お嬢様のことが誰より大切なまま、あの思いを抱いたのだ。
今朝、掌を撫でてくださった指を思い出した。
私が手を差し出せば、お嬢様は取ってくださる。
抱き寄せても、きっと逃げない。私がお側へ寄ることを、止める者もいない。
それを嬉しいとばかり思っていた。
でも――
これを持って近づいても、お嬢様は、いつものように私へ手を伸ばされるのだろう。
その手を取る自分を、私は信じてよいのだろうか。
夢の中で私が何をしたのかは、分からない。
けれど、この短剣を私の引き出しに戻してよい理由は見つからない。
お嬢様には、生きていていただかなければ。
私が今、どんなにお側にいたくても。どんなに、この贈り物を失いたくなくても。
鞘に収まった短剣を包み直した。
お嬢様の結んでくださったリボンは、ほどいた跡のまま少し歪んでいる。
結び目を整える指が途中で止まり、私はその手を膝に押しつけた。
しまっておくだけでは、また開けてしまう。
あの方が私のために選んでくださったものを、私は、手の届くところに置いておきたくなる。
だから、ここから出さなければ。
勝手口の外は、朝の冷気に白く霞んでいた。
薪小屋の壁際に、不要な金物をまとめる木箱がある。
壊れた火箸や古い取っ手が入っていて、蓋には「不要金属・本日午後回収」と書かれた札が結ばれていた。前の日に厨房で、まとめて引き取ってもらうと聞いた箱だった。
開けると、錆びた金物が鈍く触れ合った。
包みを載せる場所を探し、私は一度、箱から手を引いた。尖った角に薄紙が引っかかるのが嫌だった。手放すためにここへ来たのに、まだ贈り物に傷がつかない場所を探している。
「……申し訳ありません」
誰もいない勝手口で、声が白くなった。
いちばん平らなところへ包みを置いた。
白いリボンが端へ滑り落ちかけたので、中へ収め、蓋を閉める。
もう一度開けたい気持ちを押さえて、私は戸口へ戻った。
回収されれば、私の手からは遠くなる。
少なくとも、気が変わったからというだけで引き出しから取り出すことはできなくなる。
その遠さを、今は頼るしかなかった。
部屋に帰ると、使った布を洗濯籠へ入れ、空になった引き出しを拭いた。
そこに四角く残っていた薄紙の跡が消えるまで何度も布を往復させ、気づくと同じところばかり擦っていた。
お嬢様との約束を思い出して椅子へ座ったのは、窓がすっかり明るくなってからだった。
次の支度にはまだ間がある。背もたれに肩を預け、少しだけ目を閉じた。
眠ろうと決めたつもりはなかった。
鐘が聞こえた。
腕の中のお嬢様は答えず、私が呼びかける声だけが、ひどく近くで聞こえていた。
床には白い百合が落ちている。手放したはずの銀の蔓が、知っている形のまま光を返した。
背後で、かち、かち、と音がした。
椅子から滑り落ちそうになって、机の縁を掴んだ。
顎を打ったらしく、歯が鈍く痛んだ。窓の光はさっきより少し高い。
廊下の時計を聞くと、休んでいたのは一時間にも満たなかった。
変わっていない。
空の引き出しを見た。私が捨てただけでは、あの品は消えない。
誰かが箱を開ければ持ち出せるし、回収の行き先を知っていれば、あとから取り寄せることもできる。
初めから、別の人の手へ渡してしまっただけなのではないか。
立ち上がった拍子に椅子が軋んだ。
私は勝手口へ急ぎ、もう一度、箱の蓋を開けた。
古い火箸と取っ手はそのままだったが、包みを置いた場所だけが空いていた。
金物の下を確かめても、白い紙もリボンも出てこない。
誰が持ち出したのかは分からない。
それでも、最初に浮かんだのは奥様のお顔だった。
戸口へ戻り、廊下を通りかかった女中を呼び止めた。
「奥様は、今どちらに?」
「お出かけになりましたよ。さっき馬車が出たところです」
行き先を聞くと、街の反対側に住む知人の家だという。
今から表通りへ出れば、辻馬車を拾える距離だった。
奥様が包みをご存じだという証拠はない。
それでも、置いたものが消え、あの人の馬車が屋敷を離れたと聞くと、短剣まで一緒に遠ざかった気がした。
お嬢様は休んでいらっしゃる。次のお茶までには帰ればよい。
私は外套を取りに戻り、急いで紐を結んだ。
廊下の奥を一度振り返ったが、部屋の扉は閉じたままだった。
先に、あの刃物の行き先を確かめなければ。
勝手口を抜け、裏門から通りへ出た。
奥様の向かった家の名を繰り返しながら、辻馬車の溜まり場へ急いだ。




