第十五話 あなたのもとへ
かち、かち、と硬いものが触れ合った。
辻馬車の溜まり場へ曲がろうとした私の前を、灰色の上着の男が横切った。
片手に古い窓金具を抱え、腰には革の道具入れを下げている。
歩くたびに蓋の金具が揺れ、中の道具に当たっていた。
男の顔より先に、腰へ目が行った。
夢の中で、背後から近づいてきた音だった。
「お待ちください」
男が振り向く。
頬に髭の剃り残しがあり、鼻の頭が寒さで赤くなっていた。
私の服を見て、抱えていた金具を少し持ち上げる。
「伯爵家の方ですね。窓の修繕で伺っています」
「……今朝、いらしたのですか」
「ええ。風でとうとう留めが利かなくなったそうで」
男が見せた金具は、根元から曲がっていた。
持ってきたものでは合わず、店へ戻って作り直すのだという。
厨房脇の窓は済んだが、上の廊下の窓が残っていると、屋敷のほうを指さした。
お嬢様のお部屋へ続く廊下だった。
「その道具入れは、いつもお使いですか」
「商売道具ですからね。うるさかったですか」
笑って蓋を押さえると、音が止まった。
この人が、お嬢様の倒れているところへ来る。
そう思ってから、顔を見ていないことを思い出した。
似た音のする道具入れなど、ほかにもあるかもしれない。
夢の中で、あの足音がどこから来たのかも知らない。
それでも、男が手を離して金具が鳴ると、腕の中へ冷たい頬が戻ってきた。
大通りに、辻馬車が一台見えた。
あれに乗れば、奥様の向かった家へ行ける。
けれど、奥様が短剣を持って出たと、誰かに聞いたわけではなかった。
「屋敷の不要な金物も、お店で引き取られるのですか」
「そう聞いています。回収は別の者が回りますから、詳しくは店で」
「午後より前に、一部だけ持っていくことは?」
「小さなものなら、修繕に来た者が預かることもありますよ」
白い紙に包んだ品がなくなっていると伝えると、男は抱えていた窓金具を下ろした。
「私が持ち出したのは、これだけです」
道具入れの蓋も開けてくれた。
布の上に工具を並べる手元を、私は屈んで見た。
革の底にも、並べられた工具の間にも、白い包みはなかった。
「お手間を取らせました」
道具を戻すのを手伝いながら、顔を上げられなかった。
この人が盗んだ証拠はない。
仕事のために屋敷へ来て、合わない金具を作り直しに戻る。
それだけの人を、私は道端で引き留めている。
「お店は、どちらに」
教えられた道は、馬車の溜まり場とは反対へ続いていた。
歩いて四十分ほどだという。
お嬢様のお顔を見たい。
眠っていてもよいから、息をする肩に触れたかった。
けれど、朝もそうしてから、私はあの品を手放した。
温かいことを確かめても、目を閉じれば夢は変わらなかった。
今は、あの短剣を取り戻さなければ。
「金具ができたら、また屋敷へ?」
「ええ。上の窓を済ませないことには」
男は店のあるほうへ顔を向けた。
この人はまだ、屋敷の外にいる。
そのことに、私は縋った。
夢で近づいてきた音がこの人のものなら、戻るまでにあの品を見つければ、まだ何かを変えられるのではないか。
「私も、お店へ伺ってよろしいでしょうか」
男が頷いた。
私は辻馬車に背を向け、隣へ並んだ。
道々、男は古い窓枠の癖や、留め具が合わない理由を話した。
私は相槌を打ちながら、伯爵家へ来たのは何時ごろか、どの戸から入ったかを尋ねた。
朝、屋敷から使いが来た。
それから道具を持って行き、厨房の窓を直した。
奥様に呼ばれたことはなく、用件も窓のほかにはない。
返ってくる答えの中に、短剣はなかった。
角を曲がるたびに引き返す道を覚え、工房へ着くころには、手袋の中まで指が冷えていた。
通りに面した店の奥では、炉の火が赤く燃えていた。
男が窓金具を作業台へ置くと、私は先に帳場へ回り、回収のことを尋ねた。
帳場の女は、今日の予定を書いた紙を開いた。
「伯爵様のお屋敷は、午後ですね」
「予定より前に、一部だけ受け取っていることはありませんか。包んだものを一つ、誤って入れてしまったのです」
「修繕のついでに預かった分でしたら、こちらも確かめないと」
女は帳面の脇に重なった伝票へ手を伸ばした。
まだ写し終えていないものがあるらしく、一枚ずつ広げて、帳面の行と照らし始める。
その手元を見て待っていた。
一枚めくられるたびに、次には屋敷の名があるのではないかと思った。
けれど女は何も言わず、別の紙を取り上げる。
「荷は、もうこちらへ?」
「今朝の分は裏へ入っていますよ」
「確認していただいているあいだに、見せていただけませんか」
白い紙とリボンのことを伝え、中に短剣が入っていることも申し上げた。
隠すために曖昧にして、見つけられなくなるほうが怖かった。
女は少し驚いた顔をしたが、店の手伝いを呼んでくれた。
「今朝入った分だけ、この方に見せてあげて。こちらは控えを調べておきますから」
裏庭の低い屋根の下に、回収された金物が積まれていた。
古い鍋、外れた蝶番、錆びた燭台。
白いものが見えるたびに息が止まったが、包み紙だと思ったものは剥がれた塗料で、リボンに見えたものは折り畳まれた布の縁だった。
手を切らないよう厚い布を借り、上のものを除けてもらった。
屋敷の名がない荷も見た。小さな包みなら、別の荷の上へ置かれることだってある。
一つ確かめたら、次を。
帳場から呼ばれるまでは、探していようと思った。
途中で外から金物の鳴る音がして顔を上げたが、道を通った荷車が、そのまま先へ行っただけだった。
時々、工房の奥から槌の音が聞こえた。
「お探しのもの、大事な品ですか」
籠を持ち上げてもらったときに聞かれ、返事が遅れた。
「……はい」
「では、見つかるといいですね」
厚い布の中で指を曲げた。
何かを握っていないと、手が震えそうだった。
お嬢様が一人で品を選んだときの顔を、私は見たことがない。
工房の人へ色を伝え、私に似合うかと考えてくださった、その時間まで捨てたのだと思うと、胸が痛んだ。
取り戻したら、嬉しかったともう一度申し上げたい。
けれど、白い紙はどこにもなかった。
帳場へ呼び戻されたとき、女の前には、調べ終えた伝票が揃えられていた。
「伯爵様のお屋敷からは、まだ何も受け取っていません。今朝の分も、こちらにある荷と全部合っています」
予定の紙には、午後の欄に屋敷の名が残っていた。
私はその文字を見下ろした。
少なくとも、この店へ運ばれたわけではない。
ここへ来れば分かると思っていた行き先が、またなくなった。
誰かが箱から取り出した。
分かっているのは、それだけだった。
奥様が馬車へ積ませたところも、この人たちが持ち出したところも、私は見ていない。
それなのに、屋敷の外へ出たものだと決めて、追いかけていた。
まだ、あの箱の近くで誰かを見なかったかとさえ、聞いていない。
お嬢様のお部屋にも、一度も戻っていない。
借りた布を返し、礼を言って立ち上がった。
「もう戻られますか」
戸口で、灰色の上着の男に声をかけられた。
手のひらには新しい留め金が載っていた。
「私も、上の窓を仕上げてきます」
私は頷き、先に戸を開けた。
帰り道では、行きよりも足が速くなった。
職人は少し後ろを歩いていた。
かち、かち、と音がするたび、私は彼がどこにいるか分かった。
この人はこれから、あの廊下へ入る。
仕事を頼まれているから、道具を持って。
夢の中でも、お嬢様を抱いている私の背後へ、足音が近づいてきた。
この人が来るころには、もう。
私は足を速めた。
店へ戻ると聞いて、なぜ安心したのだろう。
お嬢様が倒れる前のことなど、私は何も見ていなかったのに。
屋敷の角を曲がると、遠くの時計台が時刻を告げた。
出てから二時間ほどになる。
往復の道と、荷を確かめていたあいだに、朝の冷たい光は塀の上まで移っていた。
お昼前のお茶には、まだ間に合う。
それが何の安心にもならないことを、私はようやく分かりかけていた。
勝手口に手をかけたとき、鐘が鳴った。
少し途切れ、続けて三つ。次の一つは、待ち構えたところより早く来た。
厨房の戸口で、料理人が街のほうを見た。
「火事か。川向こうだな」
続けて二つ。途切れて、また幾つか。
私は戸を押し開けた。
外套の裾が引っかかったが、振り返らずに紐をほどく。
廊下へ出れば、誰の足音も聞こえないほど自分の靴が鳴った。
今朝、お嬢様を寝かせた部屋へ。
階段の手すりを掴んで曲がり、上へ急ぐ。
扉は閉じていた。
その向こうに声はなく、私はいつものように返事を待つことができなかった。
「お嬢様!」
名を呼ぶ声と一緒に、扉を押し開けた。




