第十六話 あなたの声
お嬢様は、寝台のそばにいらした。
顔を上げた青い目と、私の目が合った。
唇が私の名前の形に動き、その手の中に白い百合が見えた。
刃が動くより先に、私はその手を包んだ。
驚いた体が腕の中へ傾く。
指を離してくださいと声をかけながら抱き寄せると、お嬢様の肩から急に力が抜けた。
お嬢様の指が緩んだところで、柄を抜き取った。
受け止めた重さに膝をつき、短剣だけを手の届かない床の先へ滑らせた。
「リュジィ……」
頬が冷たくない。肩が息をするたびに動き、胸元に押し当てられた指が私の服を掴んでいる。
「はい。ここにおります」
「どうして……」
「ここにおります、お嬢様」
同じことしか言えなかった。
抱き締める腕を緩めなければ苦しいだろうと思うのに、少しでも隙間ができたら、またあの朝へ落ちてしまいそうだった。
お嬢様の額へ頬を押し当て、呼吸を聞いた。
生きていらっしゃる。
私の声を聞いて、私の服を握っていらっしゃる。
そのことに安堵した瞬間、目の前が滲んだ。
背後で足音がした。
かち、かち、と硬いものが触れ合った。
私はお嬢様を抱いたまま振り向いた。
開いた扉に、灰色の上着の男が立っていた。
片手にはまだ修繕の道具を持ち、私たちと床の品を見て、顔を強張らせている。
「お声がしたので……何かありましたか」
夢の中で、振り返ることのできなかった相手は、間違いなくこの人だった。
彼は廊下の窓へ向かう途中で、私の声を聞いた。それで、ここへ来た。
「人を呼んでください。お医者様も」
男はすぐに頷いた。
立ち去りかけた背中を呼び止め、床の短剣を示した。
手袋越しにも震える指を見られながら、私は声を整えた。
「それを、扉の外へ。誰かに預かっていていただけますか」
「分かりました」
お嬢様の手が強く私を掴んだ。
「捨てないで……」
その声は、今にも切れそうだった。
「捨てません。今は、少し離しておくだけです」
繰り返して申し上げると、お嬢様は私の胸へ顔を伏せた。
男が部屋を出るまで、私はその頭を抱いていた。
鐘はまだ鳴っていた。
今は窓の外から聞こえる。
遠い街の火を知らせる音が、部屋の中にいる私たちの時間まで止めてしまうことはなかった。
お嬢様を椅子へ移し、肩掛けを着せた。
椅子へお移しするとき、お嬢様が握っていた白い紙を、その膝へ置いた。
私の手が離れるたびに指が追ってくるので、その片方を握ったまま、もう片方でできることだけをした。
「どこか、痛むところは」
お嬢様は首を振った。
袖を確かめても、服にも手にも傷は見えなかった。
けれど、私はその返事だけで安心してよいとは思えず、呼ばれてきた女中へ、医師が来るまで扉のそばにいてほしいと頼んだ。
膝に載せたお嬢様の手は、まだ細かく震えていた。
その手の下から、白い紙が一枚、床へ滑り落ちた。
角に皺が寄って、片側にリボンが絡んでいる。今朝、私が箱へ置いた包みだった。
「……ご覧になったのですか」
お嬢様は紙へ目を落とし、しばらくして頷いた。
「あなたが休んだか、気になって。廊下へ出たの。階段の窓から、見えたわ」
私の指に、冷たい指が絡まる。
「捨てるものを入れる箱でしょう。札があったから……落としたわけではないって……」
取りに行ったの、とお嬢様は続けた。
私は、その先を聞くのが怖かった。それでも、途中で止めることはできなかった。
「本当に嬉しいと、言ってくれたから。私、信じてしまって」
「お嬢様」
「困らせたのね……あんなものを渡して、喜んでほしいと思って。あなたが結婚したいと言ったときも、私……」
言葉が詰まり、肩掛けの端が握り潰された。
「行ってほしくなかった。誰かがあなたに触るのが嫌で、でもそんなこと、言えなくて」
あの夜会の手が、ようやく違う意味を持った。
人混みで気分を悪くされたのだと思っていた。
馬車で私の肩に寄りかかり、袖を離さなかったのも、疲れて心細かったからだと。
私が欲しかった顔は、あのときもう、私へ向いていた。
「今朝、箱を見たら、もう聞けなくなったの。あなたは優しいから、私の前では笑ってくれるでしょう。でも、ほんとうは……」
お嬢様が息を詰めた。私は手を握り直し、その息が戻るのを待った。
「リュジィまで、私を嫌いになったら、どうしたらいいか分からなくて」
小さな声だった。
その声の先にあったものを、私は床の短剣でしか考えてこなかった。
奥様の手、知らない人の足音、私自身の醜い欲。
どれにも怯えながら、この人が私のたった一つの行いを、どれほど大きく受け取るかを見ていなかった。
「嬉しかったのは、本当です」
床へ落ちた紙を拾った。
今度はお嬢様に見えるよう、皺を一つずつ伸ばした。
「気に入らなかったのではありません。私が、怖かったのです」
何から話せばよいか分からず、しばらく指を動かした。
紙の折り目を覚えていた。
この角を重ね、このリボンを外し、あの夜、自分がどれほど嬉しかったかも。
「お嬢様が亡くなる夢を見ました。時々、あとで同じことが起きる夢を、私は見るのです。その中に、この短剣がありました」
お嬢様は私を見ていた。
「最初は、奥様が何かなさるのだと思っていました。誰かを疑って、品を探して……お嬢様にも、何も申し上げずに」
言い訳に聞こえてもよかった。
今度こそ、私が何をしたのかを伝えたかった。
「いただいてからは、自分が怖くなりました。私は、よい侍女でいるだけでは足りなかったのです」
お嬢様の指が少し動いた。
「ジュリアン様が優しくしてくださっても、嬉しいばかりではありませんでした。お嬢様がほかの方に触れるのも、私の知らない顔で笑うのも、嫌でした。そんな自分が、あの品を持っていることが怖くて……手放しました」
自分の声で言うと、隠していたものの形がひどくはっきりした。
この人に必要とされることを喜んだ。
同じ口で守ると約束して、私だけがすべてであればいいと願った。
私はその願いを、簡単に捨てられはしなかった。
「聞けば、よかったのね」
お嬢様がぽつりと仰った。
「私も、リュジィに、どうしてと聞けば……」
その唇が震えたので、私は身を寄せた。
「今、聞いてくださってよいのです。何度でも」
「嫌いになっていない?」
「なっておりません」
「私が、こんなふうだから……」
「お嬢様」
青い目に涙が溜まった。
頬へ落ちる前に拭うと、次の一粒が私の指を濡らした。
「怖かったのなら、今は泣いてください。私も、うまく話せません」
返事を待つあいだに、私のほうから涙が落ちた。
医師が来るまで、お嬢様は私の手を離さなかった。
診てもらうあいだもそばにいてほしいと仰ったので、私は椅子を寄せた。
傷がないことを確かめてもらい、しばらく静かに休むこと、また様子を見に来てもらうことを相談した。
尋ねられたことには、お嬢様が答えられるところは待ち、難しいところを私が話した。
夕方近く、短剣は包み直され、鍵の掛かる場所へ預けられた。
私はその場所を知っていたが、鍵を自分の引き出しには入れなかった。
寝台の端へ座ると、お嬢様が肩へ額を寄せた。
「まだ、いてくれる?」
「はい」
それだけでは足りない気がして、髪に頬を埋めた。
いつもの石鹸の匂いがした。
あの夢の中で何度探しても見つからなかった匂いが、息を吸うたびにちゃんと胸へ入ってくる。
「いてほしいです、私も」
お嬢様の手が、私の背へ回った。
私は抱き返した。二人ともまだ震えていて、どちらの震えなのか分からなくなるほど近くにいた。
窓の外では、いつの間にか鐘がやんでいた。




