第十七話 あなたの隣で
あの日から五日、母の返事が届いた。
婚約が解けた夜に書いた手紙への返事だった。
二人で住める貸家が一軒あり、保証も引き受けてくれるという。
ただし、家賃は二か月分を先に納めること。
帳場の仕事も、給金を出せるのは週に二日までだった。
その数字を帳面へ写すと、持っていけると思っていた金が、まだ使わないうちに減っていった。
「難しいの?」
隣から覗いていたお嬢様が、手紙の端を押さえた。
「お屋敷のようには、まいりません。暖炉も一つでございます」
「では、本を読む椅子も並べられるわね」
間取りの書かれたところに、指が重なった。
私が家賃ばかり見ているあいだに、お嬢様はもう、二人の椅子をどこに置くか考えていらした。
翌日、私はお嬢様とともに伯爵の書斎へ入った。
母の手紙と退職願を差し出すと、伯爵は私の書いた日付に目を留めた。
「急に辞められては困る。冬支度の帳面を引き継いでからにしなさい」
机の端には、エリーズ様の婚礼に使う印刷見本が重なっていた。
きれいな紙に二つの家の紋章が並び、お嬢様の名前があったはずのところは、もう妹君のものになっている。
「コレットも、本当にその家でよいのか。ここにいれば暮らしに困ることはないぞ」
お嬢様の指が、膝の上で重なった。私が口を開くより先に、小さなお声がした。
「私、ここを出たいの」
伯爵の顔を見たあと、隣に立つ私の袖へ手を伸ばされた。
「リュジィと、その家に行きたいわ」
袖をつかむ指が震えていた。私はその手へ触れ、伯爵のお返事を待った。
「外では、静養と伝えておこう。そのほうがよい」
婚約を解かれた娘が家にいて、姉妹を比べる客が来るよりは、離れたところで静かに暮らしてくれたほうが都合がよいのだろう。
今は、その都合を使わせていただく。
けれど、当面の費用をお願いすると、伯爵は出納係に相談しておくと仰るだけだった。
退職願の日付を書き直し、私はその返事も帳面の端へ書いた。
次の週、家令に帳面を見せた帰りに、もう一度、書斎の扉を叩いた。
伯爵の承知した額では、家賃を払えばほとんど残らない。
私の給金を足しても、冬のあいだは貯えを崩すことになる。
けれど、これなら荷物を運べる。私は援助をいただけるのが春までだと確かめ、用意した紙へ額と期間を書いていただいた。
その日のうちに家賃を納める手配をし、母へ返事を出した。
翌日も、その翌日も、お嬢様の髪を結ってから引き継ぎへ通った。呼ばれて出ていくたび、お嬢様は私の戻る時刻を尋ねられた。
三週間目の終わりに家の鍵が届いたとき、まず浮かんだのは、これで向こうの暖炉の薪を頼める、ということだった。
掌の小さな鍵を握り、私は少し笑った。
部屋へ戻ると、お嬢様は開いた旅行鞄の前に座っていた。
何を入れればよいか迷っているのだろうと思ったら、膝の上には、私の予備のエプロンがあった。
「それは、私の荷物です」
「分かっているわ。一緒に入れたら、少し場所が空くでしょう」
畳んだ布を鞄へ載せ、その上にご自分の肩掛けを重ねる。
私のものとお嬢様のものが、同じ小さな箱の中に収まっていく。そ
の様子を見ていると、人前で保っていた顔が崩れそうになった。
「座って。どんな家か、もう一度聞きたいの」
隣へ腰を下ろし、何度も開いた母の手紙を広げた。
寝室と居間、小さな台所。玄関に続く石段が二段あり、庭と呼ぶには狭い場所に、葉を落とした木が一本立っているという。
扉の外に人が来ると、お嬢様はまず私の顔を確かめられた。
私も、袖をつかんでいた手がふと離れると、その行き先を目で追ってしまう。
お嬢様の指のそばへ鍵を置き、鞄の留め具を確かめた。
医師には、転居する場所と、これからも診ていただきたいことを伝えた。
お嬢様は次に来る日を自分で手帳へ書き、私が荷物をまとめているあいだ、その頁を開いていた。
私の母も最初の数日は通ってくれることになった。
二人だけの家を欲しいと思ったのは本当だったが、戸口を叩いてくれる人まで追い払いたくはなかった。
短剣は、お嬢様と相談して、屋敷の施錠できる保管庫で引き続き預かっていただくことにした。
預かりの紙は私の書類に挟み、白い包装紙とリボンだけを持っていくことにした。
あの品をすぐ手元へ戻せるほど、私の手の震えは収まっていなかった。
◇◇◇
出発の日、奥様は玄関にいらっしゃらなかった。
エリーズ様は階段の上から別れの挨拶をなさり、お嬢様は静かに返された。
言い争いにも、仲直りにもならなかった。私は鞄を馬車へ渡し、お嬢様の裾を持って石段を下りた。
馬車の戸が閉じたあと、お嬢様は長く窓の外を見ていた。
泣いていらっしゃるのかと思い、ハンカチを出しかけると、膝に私の鞄が載せられた。
「忘れないように、こっちに置くわ」
「私も乗っておりますのに」
鞄の持ち手の上から、私の手を握る。
屋敷が見えなくなるまで、その手はほどかれなかった。
借りた家は、手紙にあったよりも少し狭かった。
椅子を二つ並べると、どちらかが立つたびに相手も膝を寄せなければならない。
暖炉の前には先に母が火を入れておいてくれていて、台所には鍋が一つ、乾いたパンと卵が置かれていた。
母の置いていった書付で、来週働く日を確かめた。
帳面の余白に写し、今月の食費と薪代を書き足す。まずは、この冬の分からだった。
「リュジィの働く日は、私も行っていい?」
後ろから覗いていたお嬢様が尋ねた。
「母は喜ぶと思います。おしゃべりに捕まっても、お助けできませんが」
「では、私があなたの小さいころのお話を聞いておくわ」
「それは困ります」
笑って帳面を閉じると、お嬢様は満足そうに私の肩へ顎を載せた。
誰かと楽しそうに話すお嬢様を見たら、きっと私はまた面白くないと思う。
私の母であっても、知らない話で笑われたら、間へ入りたくなるだろう。
肩にかかる重さを感じながら、私はその考えを否定しなかった。
この人を好きな私は、やはり少し、扱いに困る。
その夜、お嬢様は髪をほどいたまま、居間の椅子で私を待っていた。
湯を沸かして戻ると、椅子の間に置いた小机が、少しだけ向こうへ動かされている。
二人の肘掛けが、触れるほど近くなっていた。
「お嬢様。通れません」
「こちらからなら、通れるわ」
指された隙間は、ご自分の膝の前だった。
わざと近くを通ると、案の定、袖をつままれた。
私は茶をこぼさないよう先に置き、それからお嬢様のほうへ体を向けた。
「ひとつ、まだお話ししていないことがございます」
指の力が強くなる。私はその指を掌へ収めた。
「結婚したいかと、お尋ねになったでしょう」
「……ええ」
「あのとき、はいと申し上げた続きです」
お嬢様の睫毛が上がった。
この方の世話をするためなら、伯爵の書斎でも工房でも、私は必要な言葉を探せた。
けれど今、ほんの短い言葉のために、喉がひどく狭くなった。
「出来ることなら、あなたと。そう、思っておりました」
お嬢様は、私の指を見下ろした。
返事を急かしたくなくて待っていると、握った手がゆっくり持ち上がり、頬へ当てられた。
「先に、言ってほしかったわ」
「はい」
「私、ずっと、誰がいいのか聞くのが怖かったの」
親指で頬を撫でると、お嬢様はその手へ少し顔を寄せられた。
「私だったらいいのにって、思ったから」
指が止まった。
お嬢様は目を伏せかけ、けれど今度は、そのまま私をご覧になった。
「あなたが誰かと暮らすなら、私がよかった。朝も、夜も……お世話をしてくれなくても、一緒にいてほしかったの」
あの日、ようやく分かったはずだった。
それでも、こうしてご自分の口で仰っていただくと、握られた手を見下ろすことしかできなかった。
私でなくてはならない理由を、今、この方がご自分の口で仰っている。
「私で、よろしいのですか」
「リュジィがいいの」
握っていた手を、両手で包み直された。
「好き」
声は小さかった。それでも聞き逃すはずがなかった。
何度も望んで、望むたびに、そんなはずはないと思ってきた言葉だった。
「……だから、そばにいてほしかったの」
お嬢様の頬が赤くなっていく。
私が黙っているあいだに、その目が少し不安そうに揺れたので、慌てて身を寄せた。
「……嬉しいです」
それだけでは、少しも足りなかった。
包まれた手を握り返し、お嬢様の目を見た。
「あなたが好きです。コレット様」
お嬢様の唇が緩んだ。
「もう一度、言って」
「好きです」
笑ってくださった。その顔を、こんなに近くで見てよい。
頬へ手を添えると、お嬢様の目が私の唇へ下りた。
「……口づけても、よろしいですか」
「ええ」
返事を聞いてから口づけた。
ほんの短いあいだだった。離れると、お嬢様の指が私の襟を掴んだ。
「今度は、私から」
私は動かずに待った。
お嬢様は少しためらってから顔を寄せ、私の唇へ、ご自分の唇を重ねられた。
〜完〜




