第58章 学園は記憶喪失中です
コトハは、レテをかばって、立った。
監査官アルシヴは、レテを、処分しようとする。
そこへ割って入ったのは、よりにもよって、いつもの数学教師――かつて、宇宙を救った女だった。
ついでに言うと、学園は、完全に、記憶喪失中だった。
「待ちなさい、アルシヴ」
凛とした声が、廊下を、ぴしりと裂いた。
桜庭レイコ(さくらば・れいこ)先生だった。けれど、いつもの、あの、隠し菓子を匂いで当てられて慌てる担任じゃない。背すじが、まっすぐで。目が、ずっと昔に何かと戦った者の目に、なっていた。
アルシヴが、振り向く。
「あなたは……記録によれば、元・第三守護戦士。コードネーム、ローズ・レイ」
「もう、引退しています。今は、ただの、数学教師です」
そう言いながら、桜庭先生は、コトハとレテの前に、すっと立った。盾みたいに。
「この子のことは、わたしが、すこし知っています」
そして、レテを見た。叱るでも、憐れむでもない、なんとも言えない、やさしい目で。
「忘川さん。──いえ、レーテ。あなた、自分のこと、思い出せますか」
忘川レテ(わすれがわ・れて)は、きょとんとした。
「れーて? それ、だれ?」
「あなたの、本当の名前です」
「……知らない」
桜庭先生は、ほんのすこし、泣きそうな顔で笑った。それから、コトハに向き直る。
「明石さん。この子は、あなたと、対の存在です」
「対」
「あなたが、すべてを記録する、アカシックレコードなら。この子は、すべてを消す、レーテ・ヴォイド。忘却部門の、化身です」
息が、のどの途中で、つかえた。
ほんとうは、コトハの頭のどこか――いちばん奥の、ふだんは鍵をかけている部屋で、ずっと前から気づいていた。レテを読めない理由。記録に載らない理由。記録を消せる理由。その三つが、いま、一本の糸で、するすると結ばれていく。
「記録と、忘却。保存と、廃棄。あなたたちは、同じ宇宙のしくみの、表と裏なんです」
桜庭先生は、静かに言った。
「だから、あなたには、この子が読めなかった。──いちばん近くて、いちばん遠い。それが、二人なんです」
レテは、その話を、半分だけ聞いて、半分は、もう忘れていた。
「……むずかしい、話だね」
のんびりと、そう言った。その、間の抜けた声が、かえってコトハの胸を、ぎゅうっと締めつける。
――と、そのときだった。
廊下の向こうから、なにやら、とんでもない騒ぎが、津波みたいに近づいてきた。
学園は、もう、完全に、たがが外れていた。
不死川勇気は、自分の名前も、教室の場所も忘れて、なぜか一年生の教室で、堂々と授業を受けていた。
「俺は、ここの生徒だ! たぶん!」
「ちがいます、先輩!」
星宮ミーナ(ほしみや・みーな)は、歌詞をまるごと忘れて、その場の思いつきで、めちゃくちゃな歌を歌っていた。
「♪わ〜すれた〜 でも〜 たのし〜」
「歌、下手になってる!」
白金歌音は、委員長の仕事をきれいさっぱり忘れて、廊下で、優雅に、お茶をすすっていた。
「……あら。わたし、なんで、こんなにしあわせなのかしら」
「仕事、忘れたからだよ!」
購買では、おばちゃんが値段を全部忘れて、
「もう、ぜんぶ、タダで、いいわ」
パンが、無料になっていた。
用務員の鬼塚源蔵は、自分が年寄りだということを忘れて、若返ったまま、校庭を全力で駆け回っている。
「ひゃっほう! 体が、軽いわ!」
そして極めつけが、未明学園の宵島カケル(よいじま・かける)。自分が未明の生徒だということを忘れて、どこから調達したのか、青蘭の制服を着込んでいた。
「俺は、青蘭の、エースだ! 昔から!」
ここで、白河ナギ(しらかわ・なぎ)が、頭を抱える――はずだった。いつもなら。
でも、ナギも、忘れていた。
自分が、苦労人だということを。
「……あれ。わたし、いつも、なんで、こんなにぴりぴり、してたんだっけ」
ぽけーっと空を見上げて、にこにこしている。
「なんか、今日、すごく、気が、楽です」
「ナギまで!? ナギがまともじゃないと、未明、終わるぞ!」
凡田一のツッコミは、もはや、誰の耳にも届かない。台風の中で傘を差すようなものだった。
学園じゅうの全員が、名前も、役割も、過去も忘れて。それなのに、ひとり残らず、にこにこしている。
事実が消えても、「楽しい」「すき」「あったかい」――そういう、手でつかめない手触りだけは、ちゃんと、底に残っていたから。
アルシヴが、その光景を観測して、ぽつりとつぶやいた。
「……奇妙です。記録が消えているのに。誰も、不幸そうでは、ない」
「そうですよ」
コトハが言った。
「レテの忘却は、事実を消します。でも、気持ちは消せません。だから、みんな、忘れても、笑っているんです」
「しかし」
アルシヴは、端末に目を落とす。
「このまま進行すれば。やがて、すべての記録が、消えます。学校の、すべての人の、すべての過去が。──それでも、いいと?」
そこを突かれると、コトハは、言葉に詰まった。
たしかに。このままでは。みんなの、大切な思い出も、メロンパンの味も、笑った日のことも、全部、白い粉になって、落ちていく。
レテが、コトハの袖を、くいっと引いた。
「コトハ」
「はい」
「なんか、私の、せい?」
不安そうな声だった。
「みんな、変になってるの。私の、せい?」
コトハは、答えられなかった。
その沈黙が――答えに、なってしまった。
レテの目に、涙が、ふくれあがる。
「……ごめんね」
ぽつり、と。
「私、みんなの、大事なもの、消しちゃってる」
「忘川さん、それは──」
「私が、いなくなれば、いいんだ」
その一言で、コトハの頭の中が、すうっと、まっしろになった。
レテの正体が、明かされました。
記録するコトハと、消すレテ。
宇宙の、表と裏。
そして、学園は、絶賛、記憶喪失中です。
不死川は名前を、ミーナは歌詞を、白金は仕事を、ナギは苦労性を、忘れました。
でも、全員、なぜか、しあわせそう。
事実は消えても、気持ちは残る。
だから、この大混乱は、不思議と、明るいんです。
ただ、このまま進むと、みんなの大切な思い出も、消えてしまう。
そして、レテが、いちばん、やってはいけない結論に、たどりつきました。
「私が、いなくなれば、いい」。
次回、レテの、本当の事情が、明かされます。




