第57章 監査官は二度迷子になります
レテの忘却が、漏れ始めた、その翌日。
昼前の、間延びした校内放送が流れた。
「えー……迷子の、お知らせ、です」
コトハには、その気の抜けた声に、聞き覚えがありすぎた。
宇宙から、また、あの面倒な人が、戻ってきたのだ。
「二年三組の、明石コトハさん。理科準備室前まで、来てください。──繰り返します。迷子の、監査官が、おります」
放送を聞いて、明石コトハ(あかし・ことは)は、長いため息をついた。空気が半分、抜けるような。
「……アルシヴです」
「あいつ、また、迷ったのか」
凡田一も、心底うんざりした顔をした。前回さんざん振り回されたのを、体が覚えているらしい。
理科準備室の前まで行くと、案の定、いた。
銀灰色の髪の青年が、まるで道端の標識みたいに、無表情で突っ立っている。監査官アルシヴ。宇宙情報管理局の、記録部門の、監査官だ。
「明石コトハ。記録上、九十二日ぶりです」
「九十二日」
コトハは、指を、すこし折ってみた。
メロンパンの審査があって、それから料理、即興、合唱。あの、ばかみたいな借り物競走。未明とのつきあいが、ずるずると続いて。凡田との、買い出し。──数えてみれば、たしかに。窓の外の木が、いつのまにか色を変えていて、季節がひとつ、こっそり進んでいた。
「……たしかに。ずいぶん、いろいろ、ありました」
「相変わらず、正確ですね」
「正確が、わたしの仕事です」
そう言って端末を開いたアルシヴの横顔は、いつもの、ぬぼーっとしたそれとは、すこしちがった。硬い。緊張、というほどではないにしても、彼なりの、何か。
「今日は、監査では、ありません。──調査です」
「調査?」
「地球の、この座標から。異常な反応が、検知されました」
差し出された画面の端で、見たことのない警告が、赤く点滅している。
『忘却部門・逸脱反応』
コトハの呼吸が、一瞬、止まった。
「忘却、部門」
「宇宙情報管理局には、二つの機能があります」
アルシヴは、淡々と、教科書を読むみたいに続けた。
「ひとつは、すべてを記録する部門。──アカシックレコード。つまり、あなたです」
「はい」
「もうひとつは、不要になった記録を、消す部門。忘却部門。コードネーム、レーテ」
レーテ。レテ。──頭の中で、二つの音が、かちりと重なった。
「その忘却部門の、逸脱個体が。この学校に、いる可能性が、あります」
アルシヴは、端末を、ぱたんと閉じる。事務的に。
「わたしの任務は、それを見つけて、回収、または、処分することです」
「処分」
声が、自分のものじゃないみたいに、かすれた。
「はい。逸脱した忘却は、危険です。放置すれば、周囲の記録を、無差別に、消し始めます」
知っている。
それが、誰なのか。──コトハは、もう、知っている。
知っていて、言えなかった。言えば、レテは、処分される。たったそれだけの理屈が、舌に錘をつけていた。
「……」
黙ったままのコトハを、アルシヴは、すこし首をかしげて観測した。生き物を見るというより、データを読む目で。
「明石コトハ。あなたの心拍が、上昇しています。記録上、何かを隠している可能性が」
「観測誤差です」
「あなたは最近、その言葉を、よく使いますね」
そのとき。
廊下の向こうから、悲鳴とも笑い声ともつかない声が、転がってきた。
不死川勇気が、ものすごい勢いで走ってくる。
「たいへんだ! 俺が! 俺の名前を! 思い出せねえ!」
「不死川だよ」
凡田が、反射で、つっこんだ。
「そう! 不死川! ……って、誰だっけ、それ!」
「お前だよ!」
名前は、すっぽり抜け落ちているくせに、元気だけは、いつもの百二十パーセントで残っている。そういう、間の抜けた抜け方だった。
そのうしろから、星宮ミーナ(ほしみや・みーな)も来た。
「ねえ、あたしの持ち歌の歌詞、全部、忘れたんだけど! でも、ステージ、楽しい気持ちだけ、残ってる!」
さらに、白金歌音が、ふわふわと歩いてくる。あの、定規で引いたみたいにきっちりした委員長が、なぜか、頬をゆるめて。
「わたし……何か、すごく責任のある仕事を、していた気が、するんですけど……何だったか、忘れちゃって……でも、なんだか、すっきり、しています」
「委員長の仕事だよ! 思い出せ!」
凡田が叫ぶ。が、当の本人が、いちばん幸せそうなのだから、始末に負えない。
廊下は、いつのまにか、おかしなことになっていた。みんな、何かを忘れている。名前を、歌詞を、役割を。
なのに、誰ひとり、悲しそうじゃない。むしろ、肩の荷を下ろしたみたいな、妙にすっきりした顔で、にこにこしている。
事実は、ぼろぼろこぼれていくのに。「気持ち」だけは、しぶとく、残っていた。
アルシヴが、その光景を、観測する。
「……忘却が、漏れ始めています。予想より、早い」
そして、コトハを見た。逃がさない、という目で。
「明石コトハ。やはり、あなたは知っていますね。──逸脱個体は、どこですか」
コトハは、唇を噛んだ。血の味がするくらい、強く。
そのとき、いちばん間の悪いタイミングで。
教室のほうから、のんびりした声が、聞こえた。
「コトハー。私の名前、なんだっけー」
忘川レテ(わすれがわ・れて)だった。廊下にふらっと出てきて、寝起きみたいな顔で、きょとんとしている。
アルシヴの端末が、けたたましく鳴り出した。
『忘却部門・逸脱個体・特定』
アルシヴの目が、まっすぐ、レテを捉える。
「……見つけました」
考えるより先に、体が動いていた。
コトハは、レテの前に、立った。両手を広げて。我ながら、不格好な構えで。
全宇宙の知識を持っていたはずの少女が、いま、たった一人の友達のために、監査官の前に、立ちはだかっている。
「待ってください」
声は、震えていた。それでも、引かなかった。
「彼女は、わたしの、友達です」
監査官アルシヴが、戻ってきました。
今回は、監査ではなく、調査。
そして、レテの正体が、ついに、表に出ます。
忘却部門・レーテ。記録するコトハの、ちょうど、裏返し。
学園では、みんなが、いろいろ、忘れ始めました。
でも、ここが、大事なところです。
名前を忘れた不死川も、歌詞を忘れたミーナも、役割を忘れた白金も。
なぜか、みんな、ちょっと、すっきりして、にこにこ、しています。
事実は消えても、気持ちは、残る。
だから、この大混乱は、ぜんぜん、暗くなりません。
次回、学園は、完全な、記憶喪失状態に、突入します。




