第56章 忘れすぎる日
レテが、コトハの名前を忘れた。
ずっと、ずっと、忘れなかったのに。
桜庭先生は、危うい、と言った。たった一言。それだけ言って、あとは黙ってしまった。
その日から、レテの忘れ方は、坂道を転がる石みたいに、止まらなくなる。
朝、教室の戸を開けるのが、最近のコトハは、すこしだけ、こわい。
明石コトハ(あかし・ことは)は、それでも、開ける。
「忘川さん。おはようございます」
忘川レテ(わすれがわ・れて)は、自分の席で、ぼんやりしていた。窓の光を、半分だけ顔に乗せて。
「……おはよ」
「わたしの、名前は」
毎朝の、確認だった。挨拶よりも先に、これを聞くのが、いつのまにか習慣になっていた。
レテは、すこし考えて、それから言う。
「……コトハ」
「はい。よかった」
よかった、と口にして、コトハは自分でも、すこし情けなくなる。たかが名前だ。たかが名前を覚えていてくれた、それだけのことで、こんなに、ほっとしている。
「でも」
レテが、手のひらを、ひっくり返した。何も書いていない、まっさらな手のひらを。
「コトハ以外、ほとんど、忘れた」
「ほとんど」
「うん。昨日、誰としゃべったかも。今日が、何の授業かも。あと──」
レテは、自分の上履きを、じっと見た。爪先を、ちょん、と床に打ちつけて。
「これ、私の上履きか、わかんない」
「サイズが合っていれば、そうです」
「合ってる。でも、覚えてない」
コトハは、笑おうとした。冗談として、流してしまおうとした。けれど、うまく口角が上がらなかった。
これまでのレテは、「昨日」を忘れる子だった。
今のレテは、「自分」を忘れ始めている。──そこが、決定的に、ちがった。
一時間目。数学。
桜庭レイコ(さくらば・れいこ)先生が、レテを当てた。
「忘川さん、この問題」
レテは、立ち上がる。立ち上がって、黒板を見て、それから、ぴたりと止まった。
「……私、なんで、立ってるんだっけ」
教室が、ざわっとなる。笑い、ではなかった。もっと薄い、戸惑いみたいなざわめき。
「当てられたんだよ」
凡田一が、口の端だけ動かして、小声で教える。
「あ。そうか。ありがと、ぼんだ」
「……俺の名前は、覚えてんだな」
「ぼんだは、なんか、あったかい感じ、するから」
レテは、にこっと笑った。
名前も、理由も、ぜんぶこぼれ落ちていくのに、「あったかい感じ」だけは、ざるの底に残る砂みたいに、残る。それが、いまのレテの、たった一本の、命綱だった。
昼休み。
コトハは、レテを購買に連れていった。理屈ではなく、なんとなく、そうしたほうがいい気がしたからだ。
メロンパンを買って、半分こする。いつもの儀式みたいに。
「忘川さん。これ、覚えていますか」
レテは、メロンパンを、まじまじと見た。
「……まるい。あまそう」
「メロンパンです。君が、いちばん好きな」
「そうなの?」
「はい。前に、これで、泣きました」
レテは、ひとくち、かじった。もぐ、もぐ、と、ゆっくり。
そして──ぽろっと、涙をこぼした。本人が、いちばん驚いた顔で。
「……あまい」
「はい」
「なんで、涙、出るんだろ。覚えてないのに」
「体が、覚えています」
コトハは、できるだけ静かに言った。声を荒げたら、何かが壊れる気がして。
「君が忘れても。体と、心が、ちゃんと、覚えています」
レテは、メロンパンを両手で握りしめて、ぐすぐす泣いた。子どもみたいに、なりふりかまわず。
「コトハ」
「はい」
「私、こわい」
レテが、初めてそう言った。にこにこの裏に、ずっと隠していたものを、ぽろりと落とすみたいに。
「どんどん、消えてくの。自分が。なんか、私、もうすぐ、私じゃ、なくなる気がする」
その一言の重さに、コトハは、とっさに言葉が出なかった。
出なかったから、代わりに、手を握った。ぎゅっと。痛いくらいに。
「だいじょうぶです」
「なんで?」
「君が忘れても。わたしが、覚えています」
何度も、何度も、言ってきた言葉だった。お守りみたいに、二人で使い古してきた言葉。
なのに、今日のそれは、これまでのどれより、ずっしりと重かった。約束、というより、誓いに近い重さで。
「君の名前。君の好きなもの。君が笑った日のこと。──ぜんぶ、わたしが覚えています。だから、君が、君を忘れても」
コトハは、レテの目を、まっすぐ見た。逃げずに。
「わたしが、君を、忘れません」
レテは、しばらく、コトハを見つめていた。それから、ふにゃ、と顔を崩した。泣きながら、笑った。
「……コトハ、ほんと、ずるい」
その日の放課後だった。
コトハが、日直の仕事で、黒板を消そうとして──手を、止めた。
消すまでもなかった。
黒板の数式が、ひとりでに、薄くなっていた。誰も触れていないのに。文字が、自分の形を忘れたみたいに、ぼろぼろと崩れて、ただの白い粉になって、受け皿に落ちていく。
背すじが、ぞくっとした。
教室のすみで、レテは、机に頬杖をついて、半分眠っていた。その寝顔は、いつもと変わらない。変わらないのに、その体のまわりの空気だけが、なんというか──にじんでいた。インクを水に落としたときの、あの、ふわっと広がる感じで。
レテの忘却が。
レテ自身からあふれて、まわりのものまで、忘れさせ始めていた。
コトハは、不明事項記録帳を開いた。手が、すこし震えていた。震えを抑えようとして、よけいに字が歪んだ。
「忘川レテの、忘却。──自分を、超えて、漏れ始めた。」
その下に、もう一行。書きたくなかったけれど、書いた。
「止め方、不明。」
レテの忘却が、自分自身をこえて、漏れ始めました。
ずっと忘れなかった、コトハの名前まで、こぼれていく。
そして、まわりのものまで、忘れさせ始める。
コトハには、止め方が、わかりません。
ひとつだけ、覚えていてほしいことが、あります。
レテの忘却は、「事実」を消します。でも、「あったかい感じ」は、消せません。
それが、このあとの展開で、どう効いてくるか。
見届けてもらえたら、うれしいです。
次回、宇宙から、あの人が、戻ってきます。
そして、学園じゅうの記憶が、ぐちゃぐちゃに、なり始めます。




