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「となりの席のアカシックレコード〜全知全能だけど、空気だけは読めません〜」  作者: 源三郎


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第55章 好きの定義は更新されました

買い出しから、数日。


コトハは、自分の中の、「好き」という言葉を。


もう一度、定義し直していた。


ただし、しあわせな時間は。


そう、長くは、続かなかった。


明石コトハ(あかし・ことは)は、不明事項記録帳を、開いていた。


そこには、昔、自分が、記録した、定義が、書いてあった。


「好き、とは。対象に対する、好意的な、感情反応。脳内物質の、分泌を、ともなう」


それが、全知だった頃の、コトハの、「好き」の、定義だった。


正確で。


完璧で。


でも、なんにも、わかっていない、定義だった。


コトハは、その下に、新しく、書いた。


「好き、とは。」


ペンを、止める。


そして、すこし、考えてから、続けた。


「その人が、ふつうのことを、しているだけで。なぜか、目で、追ってしまうこと。」


書いて、すこし、笑った。


これは、データには、なかった。


自分で、体験して、初めて、わかった、定義だった。


教室では、凡田一ぼんだ・はじめが、不死川勇気ふじかわ・ゆうきと、くだらない話で、笑っていた。


なんでもない、横顔だった。


コトハは、その横顔を、目で、追った。


追ってしまう、自分に、気づいて。


また、すこし、笑った。


「……更新、完了です」


そのとき。


忘川レテ(わすれがわ・れて)が、ふらっと、教室に、入ってきた。


いつもの、眠そうな顔で。


コトハは、顔を、上げた。


「忘川さん。おはようございます」


レテは、立ち止まった。


そして、コトハを、見た。


じっと。


なにか、思い出そうとするみたいに。


「……」


「忘川さん?」


レテは、首を、かしげた。


ゆっくりと。


「……ええと」


「はい」


「きみ、だれ、だっけ」


教室の、空気が。


すっと、冷えた。


コトハの、笑顔が、固まった。


「……わたしです」


「ごめん。思い出せない」


レテは、申し訳なさそうに、笑った。


でも、コトハには、その笑顔が。


いつもの、にこにこには、見えなかった。


「忘川さん」


コトハは、つとめて、冷静に、言った。


「わたしの、名前は」


「えーと……」


レテは、自分の、手のひらを、見た。


そこには、何も、書いていなかった。


「……わかんない」


レテは、ずっと、忘れる子だった。


昨日のことも。


人の名前も。


自分のことも。


でも。


コトハの名前だけは。


ずっと、ずっと、忘れなかった。


いろんなものが、こぼれ落ちても。


コトハの名前だけは、底に、残っていた。


それが。


いま、消えた。


「コトハ、です」


コトハは、もう一度、言った。


声が、すこし、震えていた。


「わたしの、名前は、明石コトハ、です」


レテは、その名前を、口の中で、転がした。


「……コトハ」


「はい」


「あ。なんか、あったかい、感じ、する」


レテは、ぽつりと、言った。


「名前は、忘れたけど。コトハって、言うと、あったかい、感じが、残ってる」


それは。


ほんの、すこしの、救いだった。


名前は、消えても。


手触りは、まだ、残っていた。


でも。


コトハには、わかった。


これは、いつもの、忘れ方じゃ、ない。


レテの忘却が。


何か、おかしな方向に。


進み始めている。


その日の、放課後。


コトハは、桜庭レイコ(さくらば・れいこ)先生のところへ、行った。


「先生」


「どうしました、明石さん」


「忘川さんが、わたしの名前を、忘れました」


桜庭先生の、ペンを持つ手が。


ぴたり、と、止まった。


「……名前を?」


「はい。今まで、一度も、忘れなかったのに」


桜庭先生は、しばらく、黙っていた。


その表情が、いつもより、硬かった。


「先生。何か、知っているのですか」


桜庭先生は、すぐには、答えなかった。


窓の外を、見て。


それから、静かに、言った。


「明石さん。忘川さんは、たぶん、ふつうの、忘れっぽい子では、ありません」


「知っています。彼女は──」


「いいえ」


桜庭先生は、コトハの言葉を、さえぎった。


「あなたが、思っているより、ずっと、複雑です。──そして、たぶん、ずっと、危ういです」


コトハは、息を、のんだ。


「危うい、とは」


桜庭先生は、答えなかった。


代わりに、ぽつりと、言った。


「……あの子のことは、わたしも、すこし、知っています。昔、戦っていた頃に」


その声は。


いつもの、担任の声では、なかった。


かつて、魔法戦士として、宇宙を、見てきた者の、声だった。


教室の窓から、夕日が、差し込んでいた。


さっきまで、あんなに、あたたかかった、放課後が。


なぜか、急に、心細く、見えた。


コトハは、隣の席を、見た。


レテは、もう、帰ったあとだった。


空っぽの、椅子だけが、そこに、あった。


嫉妬編の、いったんの、着地です。


コトハは、「好き」を、データの定義から、体験の定義へ、更新しました。


「その人が、ふつうのことをしているだけで、目で追ってしまうこと」。


これが、全知を失ったコトハが、自分で、見つけた、答えです。


でも、しあわせは、長く、続きませんでした。


ずっとコトハの名前だけは忘れなかったレテが、初めて、それを、忘れました。


手触りは、まだ、残っている。


でも、レテの忘却は、おかしな方向へ、進み始めています。


そして、桜庭先生は、何か、知っているようです。


次回から、レテの正体に、すこしずつ、近づいていきます。

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