第38章 厨房は戦場ではありません
特訓の一週間が、過ぎた。
コトハの手は、まだ、たどたどしい。
でも、生地は、もう、貼りつかなくなった。
そして、本番の日が、来た。
青蘭の調理室に、未明学園の代表が、やってくる。
本番は、青蘭高校の、家庭科調理室で行われた。
長机が、二つ。
片方に、明石コトハ(あかし・ことは)。
もう片方に、忘川レテ(わすれがわ・れて)。
審査員席には、両校の先生たち。
そして、なぜか、観客がいた。
二年三組の、全員だった。
「がんばれー、明石さーん!」
星宮ミーナ(ほしみや・みーな)が、手を振る。
「コトハ! 手に生地つけるなよ!」
凡田一が、よけいなことを叫ぶ。
「もう、つけません」
コトハが、むっとして、言い返した。
未明学園からも、応援が来ていた。
紺色のブレザーの生徒たちが、わいわいと、騒いでいる。
予定を立てない学校の生徒たちは、応援も、行きあたりばったりだった。
「レテー、なんか作れー!」
「優勝しろー、たぶん!」
「お題、忘れるなよー!」
「忘れるだろ、あいつは!」
無責任な応援だった。
でも、なんだか、楽しそうだった。
桜庭レイコ(さくらば・れいこ)先生が、前に立った。
「では、料理対決を、始めます。お題は──」
先生は、カードを掲げた。
「『忘れられない味』。制限時間は、九十分。よーい──」
ぴ、と、笛が鳴った。
「始め!」
コトハは、すぐに、動いた。
ボウルを取る。
小麦粉を量る。
砂糖を量る。
バターを量る。
一週間の特訓で、手順は、体に入っていた。
頭の中の、完璧なレシピと、手を、必死に、合わせていく。
「知っている、通りに」
コトハは、つぶやいた。
「でも、手で」
こねる。
一週間前は、五秒で貼りついた生地が、今日は、ちゃんと、まとまっていく。
ゆっくりだけど。
不格好だけど。
ちゃんと、コトハの手で、まとまっていく。
凡田は、それを見て、少しだけ、感心した。
(あいつ、ちゃんと、できるようになってんな)
知っているだけだったコトハが、できるように、なってきている。
それは、地味だけど、すごいことだった。
一方。
レテの机は、まったく、ちがう様子だった。
彼女は、レシピを、見ない。
メモも、ない。
目を、半分閉じて。
手だけが、動いていた。
卵を割る。
何かを、混ぜる。
フライパンに、油をひく。
分量は、量らない。
時間も、計らない。
ただ、手が、「おいしかった感じ」のほうへ、勝手に動いていく。
じゅう、と、いい音がした。
調理室に、ふわっと、懐かしい匂いが、広がる。
「……なんだ、この匂い」
凡田が、つぶやいた。
なんだか、知らないのに、知っている気がする匂いだった。
ところが。
ちょうど、そのとき。
事件が、起きた。
ミーナが、応援に、熱が入りすぎた。
「明石さーん! こっち向いてー!」
身を乗り出した、はずみで。
ミーナの足が、調理台の、ガスの元栓を、蹴った。
ぼん。
コンロの火が、ぼうっ、と、大きくなった。
「火力があああ!」
ミーナが、なぜか、嬉しそうに叫ぶ。
「だから、お前は、近づくな!」
凡田が、叫ぶ。
火は、レテの机のほうへ、燃え移りそうになった。
「忘川!」
凡田が、警告する。
でも、レテは、目を半分閉じたまま、動じなかった。
ひょい、と、フライパンを、傾ける。
火を、よける。
そのまま、手は、止まらない。
「だいじょうぶ」
レテは、のんびり言った。
「火、こわくないよ。私、いっぱい、忘れてるから」
「火事の記憶も忘れてんのか!」
「忘れた」
そこへ。
不死川勇気が、なぜか、消火器を持って、突っこんできた。
「消すぞおおお!」
「待て、まだ消すほどじゃ──」
ぶしゃー。
不死川は、火じゃなくて、コトハの机に、消火剤を、ぶちまけた。
コトハの、完璧にこねた生地が。
真っ白に、なった。
調理室が、しん、とした。
コトハは、消火剤まみれの生地を、見下ろした。
それから、ゆっくり、不死川を見た。
「……不死川さん」
「あ。間違えた」
「わたしの、九十分が」
「ごめん!」
凡田は、頭を抱えた。
「だから、厨房は、戦場じゃないんだって!」
審査員席の桜庭先生が、こめかみを、押さえていた。
「……採点以前の、問題ですね」
コトハは、白くなった生地を、ボウルごと、横へ、よけた。
そして、新しいボウルを、取った。
「やり直します」
「コトハ、時間」
凡田が、時計を見る。
もう、半分以上、過ぎていた。
「足りるか?」
コトハは、少し、考えた。
それから、言った。
「足りないかも、しれません」
「……」
「でも」
コトハは、小麦粉を、量り始めた。
「やります。失敗しても、手は、覚えますから」
その言葉に、凡田は、口をつぐんだ。
一週間前のコトハなら、こう言っただろう。
「成功率は、何パーセントです」と。
でも、今のコトハは、確率を、言わなかった。
ただ、やる、と言った。
わからないまま、やる、と。
それは、全知を失ったコトハが、初めて、手に入れた言葉だった。
コトハは、もう一度、生地を、こね始めた。
さっきより、急いで。
でも、ていねいに。
その隣で。
レテの手が、すっと、止まった。
フライパンの中の、薄い黄色の何かが、ちょうど、焼き上がっていた。
レテは、それを、皿に、のせた。
そして、首をかしげた。
「……できた、と思う」
「もう、できたのか」
「うん。たぶん」
レテは、自分の作ったものを、ぼんやり見た。
「でも、これ、なんだっけ」
「自分で作っといて!?」
凡田が、つっこむ。
レテは、にこっと笑った。
「忘れた。でも、いい匂い」
調理室の時計が、こちこちと、進んでいく。
コトハの生地は、まだ、こねている、途中だった。
本番です。
そして、案の定、厨房は、戦場になりました。
ミーナがガスを蹴り、不死川が消火器を間違え、コトハの生地は真っ白に。
でも、コトハは、確率を言いませんでした。
「成功率は何パーセント」じゃなくて、「失敗しても、やります」と。
これは、全知だったころの彼女には、言えなかった言葉です。
レテの料理は、もう、できあがりました。
本人は、それが何か、忘れていますが。
次回、審査です。
そして、思わぬ審査員が、やってきます。




