第35章 怒った理由は思い出せません
忘川レテは、いつも、眠そうで、ふわふわしている。
傘を半分こするような、放っておけない子だ。
でも、その日。
教室の空気が、すっと、抜けた。
笑っているのに、目だけが、笑っていなかった。
きっかけは、ほんの、軽い一言だった。
放課後。
不死川勇気が、忘川レテ(わすれがわ・れて)に言った。
悪気は、まったく、なかった。
「なあ、忘川。明日、購買のメロンパン、一緒に並ぼうぜ!」
レテは、ぼんやり、うなずいた。
「いいよ」
「約束な!」
「うん。約束」
不死川は、にかっと笑った。
それから、何気なく、続けた。
「あ、でもお前、明日には忘れてるか」
「うん。たぶん、忘れる」
「だよなあ」
不死川は、けらけら、と笑った。
そして、軽い調子で、言った。
「じゃあ、約束しても、意味ねえな」
その瞬間だった。
レテの、眠そうな目が。
すっと、開いた。
「……いま、なんて?」
声が、低かった。
いつもの、間延びした声じゃなかった。
不死川は、まだ、気づいていない。
「だってさ、忘れるんだろ? 約束しても、覚えてないなら、最初から、ないのと一緒──」
「やめろ」
凡田一が、鋭く言った。
何かが、おかしい。
肌で、わかった。
でも、遅かった。
レテが、立ち上がった。
ゆっくりと。
口元は、笑っていた。
でも、目が、笑っていなかった。
「ないのと、一緒」
レテは、もう一度、その言葉を、なぞった。
「忘れるなら、ないのと、一緒」
「お、おい、忘川……?」
不死川の声が、だんだん、小さくなる。
なぜか、足が、動かない。
レテが、不死川を、じっと見た。
その瞬間。
教室の、音が、消えた。
エアコンの音も。
廊下の声も。
窓の外の、鳥の声も。
ぜんぶ、すっと、抜けた。
無音だった。
空気が、薄くなったみたいだった。
不死川の体の、輪郭が、ほんの少し、ぼやけた。
凡田は、ぞっとした。
(消える)
直感で、わかった。
レテは、いま、本気で、不死川を、消そうとしている。
存在ごと。
なかったことに。
「忘川さん!」
明石コトハ(あかし・ことは)が、叫んだ。
初めて聞く、コトハの、大きな声だった。
「やめてください!」
レテは、止まらない。
低い声で、ぽつぽつと、言う。
「私はね」
「忘川さん」
「忘れる。たしかに、忘れる。昨日のことも、約束も、名前も」
不死川の輪郭が、また、薄くなる。
「でも」
レテの声が、震えた。
「忘れても、楽しかった感じは、残るの。約束した感じも、残るの。だから、忘れても、ちゃんと、来るの。同じ場所に。覚えてないのに、足が、来るの」
「忘川さん、わかっています」
コトハが、レテの前に、立った。
消えかけている不死川を、かばうように。
「わかっていますから」
「それを」
レテの目から、何かが、こぼれそうだった。
「それを、ないことにするの? 忘れるなら、最初から、なかったって、言うの?」
凡田は、わかった。
これだ。
これが、この子の、いちばん、痛いところだ。
忘れることを、笑われるのは、いい。
でも。
「忘れるから、何も大事にしてない」と決めつけられるのが。
いちばん、許せない。
「不死川」
凡田は、低く言った。
「謝れ。早く」
不死川は、薄くなりかけた自分の手を見て、ようやく、本気で青ざめた。
「わ、忘川! ごめん! 意味ない、とか、そういうつもりじゃ──」
レテは、止まらない。
涙が、目のふちで、震えている。
教室の無音が、どんどん、濃くなる。
そのとき。
コトハが、自分の鞄から、何かを取り出した。
メロンパンだった。
購買の、ちょっとつぶれたやつ。
「忘川さん」
コトハは、それを、レテの前に、差し出した。
「これ、半分こ、しませんか」
レテの目が、メロンパンを、とらえた。
「……め、ろん、ぱん」
「はい。わたしが、初めて、泣いた食べ物です」
コトハは、静かに言った。
「忘れても、いいんです。いま、おいしかったら、それで」
レテの手が、震えながら、メロンパンに、伸びた。
受け取る。
ひとくち、食べた。
もぐ、と。
その瞬間。
教室の音が、戻ってきた。
エアコンの音。
廊下の声。
窓の外の、鳥。
不死川の輪郭が、きゅっと、元に戻った。
レテは、メロンパンを、もぐもぐ、と噛んでいた。
涙を、ぼろぼろ、こぼしながら。
「……あまい」
「はい」
「あまい、よお」
レテは、その場に、しゃがみこんだ。
子どもみたいに。
「なんで、私、怒ってたんだっけ」
ぐすぐす、と、鼻をすする。
「思い出せない。でも、すごく、いやな感じが、残ってる」
凡田は、ふう、と、息を吐いた。
体の力が、抜けた。
「……理由は忘れて、いやな感じだけ残るのか」
「うん」
レテは、メロンパンを、もう一口、食べた。
「でも、いま、あまいから。だんだん、いやな感じ、消えてく」
「上書きされてんのか」
「うん。あまいので、上書き」
コトハは、レテの隣に、しゃがんだ。
そして、もう半分のメロンパンを、自分も、ひとくち食べた。
「忘川さん」
「ん?」
「君が、いやな感じを覚えてしまうのは」
コトハは、ゆっくり、言った。
「君が、ちゃんと、大事にしているからです」
レテの手が、止まった。
「忘れることは、大事にしていないことでは、ありません」
コトハは、まっすぐ、レテを見た。
「君は、忘れても、楽しかった感じを、残します。約束した感じを、残します。それは、君が、その時間を、ちゃんと、大事にした証拠です」
「……」
「だれよりも、大事にしているから、残るんです」
レテは、しばらく、コトハを見ていた。
それから、また、ぼろぼろ、泣いた。
今度は、いやな感じの涙じゃ、なかった。
「ずるい」
レテは、メロンパンを、ぎゅっと握って、言った。
「コトハ、ほんと、ずるい」
「すみません」
「あやまんないでよ。もう」
不死川が、おそるおそる、近づいてきた。
そして、深々と、頭を下げた。
「忘川。ほんとに、ごめん。お前が、いいかげんに、忘れてるとか。そんなこと、思ってない。今、わかった」
レテは、鼻をすすって、不死川を見上げた。
「……明日には、忘れるよ。今のも」
「いいよ。何回でも、言う」
不死川は、にっと笑った。
「お前が忘れたら、また、約束する。何回でも」
レテは、ぐす、と笑った。
「……ばか」
そこへ、星宮ミーナ(ほしみや・みーな)が、こわごわ、ロッカーの陰から顔を出した。
「ね、ねえ。もう、消す感じ、終わった?」
「終わった」
凡田が、答える。
「あー、よかった。じゃあ、これ、出していい? 緊張して、ずっと、隠してたやつ」
ミーナが、鞄から、メロンパンの袋を、どっさり、出した。
机の上に、ばらばら、と転がる。
「十個、ある」
「多いわ」
「だって、どれが正解か、わかんなかったから! とりあえず、買えるだけ、買った!」
レテが、それを見て、ぷ、と、噴き出した。
ぐすぐすの涙が、引っこんだ。
「……なにこれ。多い」
「だろ?」
凡田が、肩をすくめる。
「お前を泣きやませるのに、購買のメロンパン、全滅したぞ」
「ぜいたく」
レテは、メロンパンの山を見て、もう一回、笑った。
凡田は、その光景を、少し離れて、見ていた。
それから、ぽつりと、つぶやいた。
「こええやつだと思ったけど」
コトハが、隣で、うなずく。
「はい」
「いちばん、人を消せないやつだな、あいつ」
「はい」
コトハは、メロンパンの最後のひとかけを、口に入れた。
「消す前に、その人を、嫌いになりきれないんです」
窓の外で、夕日が、教室を、オレンジに染めていた。
レテは、まだ、ぐすぐす、泣きながら、メロンパンを食べていた。
その横顔は、こわくなかった。
ただ、すこし、さびしそうで。
それから、すこし、嬉しそうだった。
レテの「キレると怖い」を、初めて出しました。
でも、彼女は、人を消せません。
消そうとすると、その人の「いい感じ」が、最後に残ってしまうから。
怒りの理由は忘れるのに、いやな手触りだけ残る。
そして、それを鎮めるのは、壮大な力じゃなくて、つぶれたメロンパン半分でした。
レテがいちばん許せないのは、「忘れる=何も大事にしてない」と決めつけられること。
忘れても、ちゃんと、大事にしている。
そのことに気づいてくれる人が、彼女には、いなかったのだと思います。
次回、いよいよ、ライバル校・未明学園が動きます。




