エピローグ
「シェヘラザード」
私は我に返った。
アーノルドが私を後ろから抱きすくめていた。
眼下には、初夏の光に輝く美しいソロンの湖畔があった。
「あら、領主様。調子はいかが?」
「あ、ああ。問題ないよ。君こそどんな感じだ?」
先日ついにこの地の領主になったアーノルドは、まだその呼ばれ方に慣れないようだ。
宰相付秘書官を兼任して忙しく王都と往復しているが、その仕事ではソロン公と呼ばれているのに、おかしなものだ。
「そうね。前より五感が鋭くなったような気がするわ。見えるもの、触れるもの全て濃密な存在感を感じる」
オーバーロードSXは、約束の一つを果たし始めた。
代謝の制限を段階的に解除し、私の体の時間が少しずつ動き出したのだ。
「それから…お腹がすくようになったわ」
「ははははは! いいぞ、生きてる証拠だ。たくさん食べて味わえばいい」
彼はひとしきり笑うと、私の肩に顎を乗せた。そして背を包みながら、手すりに置かれた私の両手それぞれに手を重ねた。
湖面は白く眩しく日差しを返し、岸辺の緑は瑞々しく輝いていた。
遠景の峰々はうす青くけぶり、空はどこまでも果てしがなかった。
「…ここは綺麗なところね」
「俺もそう思う」
私は、先月フィニークからガレンドールへやって来たばかりだった。
どこでもない場所から戻ってきた私たちは、その後すぐにガレンドール王太子妃がフィニークから輿入れする理由をでっち上げなければならなかった。
曰く、『病弱で長年療養していたフィニーク連邦総督ユーシェッドの長女シェヘラザードは昨年ようやく快復し、遊学後フィニークに滞在していた当時のガレンドールの王子アーノルドと、彼の親友で彼女の弟でもあるサイードの紹介で知り合い、見初められた』という話になった。
そうして連邦の人々に見送られながら海を渡り、初めは王宮で、彼が領主になった今はソロンで王太子妃教育を受けながら来年の婚儀の日を待っている――ということになっている。
「あなたは、引きこもり設定の私のどこを見初めたことになるのかしら?」
「君の一花の踊りに参ったのさ。あれを見たら、誰も君が病弱だったと思うまい」
「王子様がダンスで恋に落ちるなんて、少女たちが憧れそうなお話ね」
「どうかな。あの踊りは少女には刺激が強そうだな」
取り留めのない話をしながら、私たちは湖畔を見下ろす丘の小道をそぞろ歩いた。
繋いだ彼の手は、時々私の指にはめられた石を愛しげにいじった。
「ところで父上からは婚姻の承諾を得たが、君に成功報酬をまだ支払ってないな」
「よしてよ! あなたの相手を探す依頼だったのに、自分がその相手に収まってしまうなんて。それで成功報酬をもらうなんて厚顔すぎるわ」
「気にするな。結果よりも、依頼を引き受けてくれたこと、俺に関わろうとしてくれたことに感謝したいんだ」
「…そもそも私には金銭なんて必要ないものなのよ。ただ人らしくするための建前よ」
「世の中何があるかわからない。王太子妃と言えど、へそくりはあった方がいいぞ」
「そういうものかしら…?」
「そういうものだ」
小道の終わりには、小さなベンチがあった。
私たちはそこに腰掛け、肩を寄せ合って景色を眺めた。
湖畔のほとりに白い建物がいくつか並び、ベンチのすぐ下の斜面には青い花々が揺れていた。
「残りの約束は、いつ頃できそうだ?」
「まだしばらくはかかりそうよ」
オーバーロードSXが引き受けたもう一つの約束は、私が箱庭管理者の権能を持ったままこの体で生きるのを可能にすることだった。
今の私は、今いる箱庭に関する権能しか使えない。他の箱庭を管理するためには、この体を抜け出て管理者の執務塔へ戻らなければならない。その間、体はスリープモードになる。侍女が付いてしまったので姿を消すわけにいかず、魂があるように見せかけるための苦肉の策だ。この世界の者が見れば、相変わらず病弱だと思われるかもしれない。
管理者が扱うデータ量はこの体の脳では処理しきれないため、外付けの操作盤で支援することをSXは考えているようだ。とある箱庭の冒険者が使う、マルチメニューの仕組みの流用を検討していると聞かされた。
アーノルドが知ったら羨ましがりそうなので、詳しい話は黙っておこう。
「シェヘラザード」
気づくと、彼が私の瞳を覗き込んでいた。
「今、何を考えていた?」
「大したことじゃないわ」
「本当か?」
目ざとい彼は、私の新しい秘密を探ろうとしている。
緑の匂いを含む風が、丘を渡っていった。
私は風が乱した彼の髪をよけ、手のひらでその頬を包んだ。
彼の額が私の額と出会い、彼の瞳に私が映る。
私の瞳にも、きっと彼が映っている。
彼は決して心が折れなかった。
不遇を跳ね返し、欲しいものを手に入れて幸福な結末にたどり着いた。
あなたをここへ導くことは、使命を越えた私の挑戦だった。
でも、あなたがいなければ果たせなかった。
あなただからこそ叶った。
あなたの存在を誇らしく思う。やり遂げた私も。
自然に浮かんでくる私の笑みを、彼も笑みのこぼれる口で受け取った。
「アーノルド」
私は囁く。
「私、あなたに出会えてよかったわ」
エピローグは迎えましたがまだ完結してません。
次回が最終回です。
ところで、初期の短編とか読んでみましたか?
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2024/8/3 修正




