悩んで迷って就活して
説明会でお兄さんに資料を手渡され、彼と話し合ってほしいと言われた私は、彼がそれをスルーしたという点に意識を持っていかれ、どうやって会場を出たのか思い出せない。
一人で頭を抱えながらも黙っているという選択肢は存在せず、足取り重く大学へ向かい、研究室の隅で彼に報告した。
「なんだ、そんなこと」
小さくなってポソポソと報告する私に、彼はあっさりとそう言った。
「この世の終わりみたいな顔するから、どんな重大報告かと思った。そんなこと気にしなくて大丈夫だよ」
柔らかく笑って頭を撫でてくれる手はとても温かくて。私は詰めていた息を深く深く吐き出した。
「でも、タカトさん、お兄さんの提案をスルーしたって聞いて、それなのに私が勝手に資料持ってきてしまって、迷惑だったんじゃないかって……」
俯いた顔を上げることができないまま、尚も言葉を続ける私に、一つ溜息が落ちてきた。やっぱり、呆れられたんだろうか。
「場所を移そう。ここじゃ周りに聞いてくださいと言ってるようなものだ」
温かくて大きな掌が、ぽんぽんと私の頭を優しく叩く。その言葉に私もここがどこであるかを思い出し、慌てて頷いた。
二人で自習室へ移動し、いつものように座ろうとしたら、彼に手を引かれた。
そのまま彼の膝の上に腰をおろし、長い腕に囲われてしまう。えっ?
「僕が兄さんの話を適当に聞き流したのは、相手をするのが面倒だったのもあるけど、何よりもユイちゃんが躊躇うんじゃないかと思ったからなんだ」
目を瞬く私の背中を撫でながら、彼が続ける。
「ほら、前に書店を喫茶店にしたときもすごく気にしてただろ? 良かれと思って用意したけど、ユイちゃんは本当は嫌だったんじゃないかって思って。今回もまた僕の親族が関わってる会社だし、就職なんて一生に関わることなのに、これは前回の比じゃないレベルで気にするんじゃないかと……」
最後の方は沈んだ声で彼が言う。
私はただただ驚いてしまって、その言葉が染み込んで理解した後にはじわじわと温かなものが込み上げてきて、目の前にある彼の胸に思いきり抱きついた。
「ありがとう。私のこと、たくさん考えてくれて」
ぎゅうぎゅうと強く抱きつくと、彼も優しく抱きしめてくれる。大きくて温かい体に抱きしめられながら、胸いっぱいに大好きな彼の匂いを吸い込むと、すごく安心する。
「バイト先を作ってくれたの、たしかに驚いたんだけど、嬉しかったよ。嫌なんかじゃないよ。お兄さんの会社も、驚いたけど、タカトさんと一緒に研究できるって思うと、嬉しいよ。むしろ、タカトさんこそ嫌じゃない? これからもずっと、私と一緒になっちゃうよ?」
すり、と彼の胸に頭をすりつけると、清潔感のあるシャツから、大好きな彼の匂いがする。こっそりとすんすん彼の匂いを嗅いでいると、突然ぎゅっと強く抱きしめられた。バ、バレた?!
「嫌になんてなるものか。僕はいつだってユイちゃんと一緒に居たい」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、その腕の強さが思いの強さのようで、嬉しくなる。
「嬉しい。タカトさん、大好き」
彼に負けじと、私も彼の胸にしがみつく。
チャンスとばかりに彼の腕の中で、存分に彼の匂いを嗅いだことは私だけの秘密である。
「資料では受付ロボットを導入したいとあるけど、今の段階で受付対応をできるレベルのロボットは難しいと思う」
お兄さんから預かった資料を渡すと、ざっと目を通した彼が言った。
「やっぱりそうだよね? 卒業まで約一年半あるけど、その間に人工知能に劇的な進化が起こると思えないし……」
「そうだね。人の識別機能についてもまだ実験段階でしかないし、企業の受付ができるレベルに到達するのはあと五年は欲しいところだよ」
私はあと十年くらいかかると思ってた。彼の試算はどうなってるんだろうか……言わないけど。
ここで重要なのは実現までの年数ではなく、確実に実現できるシステムの提案だから。
「じゃあ、受付じゃなくて、もっと人数を絞った認識を目指すのはどうかな? たとえば……入室制限がある部門の顔識別システムとか」
「いいね。不特定多数ではなく人数を絞れば、データ入力も少し複雑な構築ができると思うよ」
「学生課の実験では、入力した写真と同じ角度でしか認識できなかったけど、これを改良して、写真から立体像を想定できるようにすれば、認識間違いも減らせるよね」
「登録人数が少なければ、そういった複雑なデータ構築もできる。厳しい管理が可能になるはずだ」
「受付ロボットじゃないけど、大丈夫かな?」
「そもそも一朝一夕でできるものじゃないからね。兄さんもそのへんはわかってるはずだよ。そのための新部門だと思うし」
真剣な顔で思案する彼を間近で見つめる。かっこいい……。
彼の膝に座ってるから、いつもより断然近い距離に彼の顔があって、ドキドキする。
色素の薄い瞳が、それを縁取る睫毛が、すっと通った鼻筋が、私のものより薄い唇が、彼の顔を構築する全てが愛しくて、何度見ても、いつ見ても、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に陥る。
「あの……」
ぽーっと彼に見惚れていると、目尻がほんのり赤くなった彼が口を開いた。
「そんなに見つめられると、照れるな」
「私の彼氏、かっこいいなぁ……って」
やっぱりぽーっとしながら彼の頬を触ると、大きな溜息が一つ。びくりと頬に触れた手を引っ込める前に、彼の大きな手に捕まってしまった。
私が目を白黒させてる間に、そのまま私の手に彼の唇が落ちてくる。小さなリップ音を立てながら、ちゅ、ちゅ、とキスされる。
「僕の彼女は、どうしてこんなに可愛いんだろう」
手の甲に優しくキスされながら、まるで自分がお姫様になったような気分を味わい、嬉しいやら恥ずかしいやら、でも決して嫌じゃなくて、真っ赤になりながらおとなしくされるがままを受け入れる。
「ユイちゃんは僕を自慢の彼氏だと言ってくれるけど、僕はそんなすごい男じゃないんだよ。研究は嫌いじゃないから院生にはなったけど、これといった長所もなく、顔が良いわけでもなく、話も上手くない。あまり物事に興味を抱けない淡白な人間で、けれど執着はすごくて一度欲しいと思ったら手放せない。いつでも一緒に居たいし離れるのがつらい。いっそ閉じ込めてしまいたいと思ってる。そのくらい、重い男なんだ……」
ぽつりぽつりと彼が零す言葉は、あまりに大きすぎる愛の告白だった。
私を見下ろす瞳は、いつもより不安に揺れて、私が離れてしまうことを恐れているようだ。
……そんな彼の様子に私は、むっと唇を尖らせる。
「タカトさんは、自慢の彼氏だもん。優しくて、頭が良くて、頼りになる、大好きな人。私の大切な人を、悪く言わないで。重い男で何が悪いの? 私だって、いつでも一緒に居たいと思ってるよ。離れてるの寂しいよ。重い女だよ?」
じわりと滲んだ涙を誤魔化すように、彼の胸に飛び込む。ぐりぐりと頭を擦り付けながら、バレないようにすんすんと彼の匂いを嗅いだ。大好きな匂いに心が落ち着いて、涙が引いていく。
「私、いつも言ってるでしょ。タカトさんが好きなの。タカトさんだから好きなの。私の言うこと、信用できない?」
引き続きすんすんと彼の匂いを嗅ぎながらの言葉は正直、自分でも説得力に乏しいと思う。でも言葉に嘘は無い。
ぐりぐりと頭を擦り付けて、不満を表す勢いだけで押し切るつもりだ。
「……ユイちゃん」
そのまま彼の胸にぐりぐりと頭を擦り付けていると、彼が口を開いた。
「僕を嗅ぐのは、ちょっと止めてもらえないかな」
しまった。バレた!
びしりと固まった私に苦笑が落ちてくる。
そっと私の肩を掴んで胸から引き剥がしながら、彼が首を傾げた。
「僕ってそんな臭う?」
「違うよ! すごく好きな匂いなの!」
いや、違うな、ここははぐらかすところだった。この答えじゃ、すんすんしてましたって自白するようなもの……完全にしくじった。
「……好きな匂い?」
「そう、好きな匂いなの。ドキドキするんだけど、なんかすごく、ほっとする」
はぐらかすことに失敗した以上、嘘を吐くこともできないから、正直に感想を述べる。うぅ……へんたいだと思われるかも。でも本当のことだし……。
「ユイちゃんは、本当に僕のことを好きで居てくれるんだね」
真っ直ぐな彼の目が私を射貫く。その目に浮かぶのは、隠しきれない喜色。
私が彼を好きなの、嬉しいと思ってくれてる?
「タカトさん、大好き」
彼の目を真っ直ぐ見返して、嘘偽りない正直な気持ちを伝える。今までも何度も伝えた言葉。これからも何度でも伝える言葉。
彼は一瞬、唇を開きかけた後、きゅっと噛み締めて、言葉にならない気持ちを表すように顔が近づいてくる。私はそっと瞼を下ろし、同意を示すように顔を上げた。
始めは優しく触れるだけだった唇が、何度も重なっては離れ、離れては重なり、まるで一寸の隙間さえもどかしいと言わんばかりのキスになった。
それから、彼と二人で入室制限のための顔識別システムを準備した。
学生課で実験したような、とにかく顔を認識するだけでなく、認識して識別するためのデータ入力と構築に打ち込み、写真データから立体像を構成し、より精密に識別できるようにした。
人口知能は本当に賢い。平面の写真から、立体像で顔を想定してしまうのだ。私には絶対にできない。
のっぺりとした文字でしか顔を認識できない私には、想像もできない世界である。まぁ文字が立体になっても、よくわからないけど。
もちろん、すぐにはできない。途方も無い時間をかけてデータ入力をして、システムを構築し、立体像の構成を何度もアシストした。
お兄さんには、正直に話した。
受付ロボットはすぐに用意することが難しいこと、その代わりに入室制限のための識別システムを用意していること。
お兄さんも、すぐに受付ロボットが完成するとは思っていなかったようで、入室制限のための識別システムが実現可能であることに殊の外喜んでくれた。
ゆくゆくは受付ロボットも組み立ててみたいが、今はとにかく、目標と定めた入室制限のための識別システムに全力を尽くしたい。
研究部門については正式に立ち上げが決まったらしく、彼と二人で面接もどきのようなものを受けた。
お兄さん、なんと本当に偉い人だった。
会議室のようなところで面接のようなものを受けながら、担当者の自己紹介を聞いたとき、お兄さんが専務だと言ったことに目を丸くしてしまった。
専務ってかなり偉い人だよね? そんな人が企業説明会で案内してたの? そりゃ周りの人がそわそわする……。
会社としても識別システムについて研究部門を持つことに異論はないらしく、想像してたよりスムーズに就職先が決まった。
彼は理工学部だし何の疑問も無いが、私も採用してもらえたのは、間違いなく研究室の影響力だと思う。人口知能研究ではかなり知名度が高いらしく、教授も私が思ってた百倍くらい有名人だった。
本当に、入室試験受かって良かった……。
ゼミが就活に影響するのは、こういう場面なのかと痛切に実感した。
思わぬ形で就活が片付き、あとは研究に専念できることになった。
教授に二人揃って就職が決まったことを伝えると、とても残念がられた。私はともかく、彼は優秀な研究員として、もしかしたら大学に残ってほしいと考えていたのかもしれない。
けれど教授は私たちの就職が決まったことについて、心から祝福してくれた。
こんな良い人の後継者(になったかも知れない)彼を研究室から連れ出してしまうことに、申し訳なさも抱きつつ、何かお返しできることはないかと考えた。
「タカトさん、本当に良かったの? 研究室に残らなくて」
「良いんだ。ユイちゃんが居ないなら、残っても仕方ない」
「でも、教授、残念がってたよ」
「僕らの研究が面白かったからじゃない? そもそもユイちゃんが居なければ着手することのなかったものだし、やっぱりユイちゃんが居ないと意味ないんだよ」
「そ……そうかな……。お世話になったし、教授に何か、お返しできたら良いんだけど」
「じゃあ、学生課で実験した結果の認識システム、使えるようにしておこうか」
さらりと彼が告げた一言に、私はフリーズしてしまう。
「えっ! だってあれ、特許取ったよね?!」
そう、彼は認識システムについて、せっかくだからと特許を出願し、無事通ったのだ。
彼は二人の研究だからと、私たち二人の共同名義で申請したため、なんと私も特許を持っていることになる。
「うん。一応特許取ったけど、お世話になったし、使用料免除契約すれば使ってもらえるんじゃないかな」
「そんなことできるの? もし使えたら、教授は助かる?」
「そりゃ、大助かりだと思うよ。研究室に居た人間の研究だから、これからの後輩にも良い見本になるだろうし。教授個人に使用許可を限定すれば、今後教授が別の大学に行っても使える」
「えっと。じゃあ、それでお願いします」
私がぺこりと頭を下げると、彼は緩く口端を持ち上げた。
教授にシステム使用について提案すると、とても喜ばれた。
とくに、教授個人への使用許可であることについてたいへん感激したらしく、何度も感謝され、今後もし研究で何かあれば相談に乗ることと、研究発表会の際には後援と力添えを約束してくれた。
思いもよらない教授からの返礼に、私はただ呆気にとられるばかりである。
「何かお返ししたくて提案したのに……お返しへのお礼が返ってくるなんて考えもしなかったよ」
「そのくらい、あのシステムの使用許可には価値があるってことだよ。まぁ、そのための特許出願だったんだけどね」
「タカトさんすごいね。私ならそんなこと、思いつかなかった。そもそも一人なら人工知能の研究なんて、しなかっただろうし……」
これは本当。彼が居たからこそ人口知能の研究に結びついたし、続けることができたのだ。そもそも彼が居なければゼミだって入ったか怪しい。
「極論、研究はどこでもできるんだけどね。そのための環境を整えるのに骨が折れるんだ。それを少しでも良くするために、資金調達は死活問題なんだよ。特許は手段の一つに過ぎない。最初の出願は手間だけど、それさえ済ませてしまえば勝手に使用料が入ってくるんだ。便利だろう?」
「そ、そうなんだ……」
いつも私の二手先どころか五手先くらい読んでる彼の考えは、私にはやっぱり、難しい。けれどこれも、私との研究のために考えてくれたのだと思うと、嬉しいものだ。
「同じ研究室で共同研究できるだけでも幸運だと思ってたら、まさか就職先まで同じところで働けるなんて、想像もしなかったな。僕はずっと研究室に居るんだろうなって漠然と考えてたから……ユイちゃんのおかげ」
ふ、と彼が顔を緩めて笑う。これは、すごく嬉しいときの顔だ。
付き合い始めに比べると、彼もいろんな顔を見せてくれるようになったし、私も随分と彼の表情が読めるようになった。
けれどその違いに気づくのは私くらいだと、彼を知るいろんな人に言われた。少し気恥ずかしくて、とても嬉しくて、胸がむずむずする。
「私こそ、タカトさんのおかげで、いろんなことを見て勉強できたし、ゼミだって決められたし、自分のできることを使った研究までできたし、それで特許まで取れたし、就職まで決まったし……私一人なら絶対、こんな結果は出せなかったよ」
力いっぱい、彼のおかげだと胸を張ると、そんな私を見て彼が小さく吹き出した。
「それは買いかぶり過ぎ。ユイちゃんは頑張り屋さんだから、僕が居なくてもきちんと結果を出したと思うよ。そんなふうに言ってくれるのは、嬉しいけどね」
そう優しく私の頭を撫でる彼は、とても柔らかい瞳で私を見ていた。
やっぱり彼は、私への評価が激甘すぎると思う。彼こそ私のことを買いかぶり過ぎでは?




