元通りと、見つかった目標
おばあちゃんに会いに行ってから三日、朝起きると元通りになっていた。
お姉ちゃんの顔に整った文字が浮かぶのを見て、心底ほっとした。文字を見て落ち着く日が来るなんて、考えたこともなかったけど、実際落ち着いてしまうのだから不思議だ。
おばあちゃんに会って、人の顔がわかるのは一時的なものだと教えてもらったから、落ち着いてこの文字を見つめることができているんだと思う。
「ずっと目が合ってると思ってたけど、そうじゃなかったんだなって今になると思うよ。顔がわかるときにはしっかり目が合ってたから、こうして顔を合わせると、違うなってわかる。ユイは本当に、人の顔を見るのに苦労してたんだね」
お姉ちゃんはそう言って私の頭を撫でた。きっと、私としっかり目を合わせてた人には気づかれてしまうんだろうな。
まぁ徹底的に目を合わせなかった私に死角は無い。家族以外で気づく人なんて、居ないだろう。
「そんなに違う? 目があるっぽい辺りを見てるはずなんだけど」
「うーん。まぁ、そんなに違和感があるわけじゃないんだけどね。しっかり目が合ってたのを経験したから、ややズレてるように感じるのかも」
「そんなものかな?」
「そんなものだよ」
綺麗な文字が並ぶ顔をじっと見つめても、やはり目も鼻も口もわからない。いつもの、整った文字が並ぶ顔。
それは例えるなら、つるりとしたピンポン球みたいなものに文字が書いてあって、そこに髪の毛が乗ってるみたいな……いや、ピンポン球に髪の毛が乗るわけないんだけど。そう、あくまで例えなので。
こんな球体に文字を書くのもたいへんだろうに、整った文字が書いてあると、心底感心してしまう。神様が真剣に気合い入れて書いたんだろうなって。たまに雑な文字の人は、神様が文字を書くのに疲れたのかなって思うようになった。
「あ。今日の運勢、ユイは六位だよ。足元に気をつけましょうだって。この間のこともあるし、本当に気をつけてね」
「えっ大丈夫だよ」
「ユイが怪我したらタカトくんが責任感じるから、あんまり彼氏をいじめないようにね〜」
お姉ちゃんの顔で踊るような文字は、にんまりと悪い笑顔だ。いじめるとは心外だが、実際に彼が責任を感じてしまうのはそのとおりなので、おとなしく頷いておいた。
講義の合間に自習室で一人、ゼミについて考える。
人の顔が見えていた期間としては、一ヶ月足らずの短期間であったものの、それまでの人生において見たことが無かったもの、経験したことの無かったものを得たことにより、強烈な刺激を受けた。
それによって、ぼんやりとしていたゼミへの意識がはっきりしてきた。
彼に同じ研究室で共同研究をしないか? と誘われたときは、なんとなく素敵かも、くらいの認識だった。
人の顔を認識して名前がわからなくなったことで、これが自動で認識できたら便利では? と思うようになったのだ。
人口知能の学習能力に、私の人の顔に関する認識機能を追加すれば、相貌失認症の人でも、人を見分けることができるんじゃないだろうか。いや、相貌失認症じゃなくても、人を見分けるのが苦手な人だって居るはず。そんな人たちにも役立つだろう。
これがどんなふうに人口知能と関われることなのかは、さっぱりわからないけれど。
とにもかくにも、彼に相談してみよう。
「それは、面白そうだね」
ゼミについてと、やりたいことについて伝えると、彼は目を輝かせた。
「どうやったら組み合わせられるか、よくわからないんだけど。やってみたいな、と思って」
「うん、いいと思うよ。研究のきっかけは、やってみたいって気持ちから始まることが多いし」
「それでね、タカトさんの研究室って……募集出るかな?」
「そうだなぁ……」
彼は腕を組んで肘を指で叩いて、思案した。トン、トン、と何度か叩いた後、口を開く。
「うちの研究室、人気らしくて、いつも激戦なんだよね。成績上位者からピックアップするんだけど、ユイちゃんの成績ってどんな感じ?」
私は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまった。
成績上位者?
それってつまり、まぁ成績の良い人からってことだよね……え、じゃあ悪くはないけど特筆するようなこともない普通な私って、どうなるの?
「ふ、普通の場合って、どうなるのかな?」
「うーん。試験?」
疑問形で返ってくるってことは、少なくとも彼は、ストレートにピックアップされたんだろう。さすが。
「が、がんばるね」
拳を握って意気込んだものの、眉が下がってしまったのは見逃してほしい。そもそも、学部から分野が全然違うゼミに挑戦しようという意欲に注目してもらいたい。
彼に成績上位者からピックアップされると聞いて、改めてゼミについて調べてみた。そしたら、思った以上に狭き門だった。
どうやら彼の所属している研究室は、人工知能の研究がしたい人が集う、トップクラスに賢い人たちの入る研究室だった。
え、もしかして、完全に選択ミス? 私にはハードルが高すぎる? 畑違いな人間がやってみたい気持ちだけで挑戦するものじゃなかった?
……文学部が理工学部の研究室を目指すのって、やっぱり無謀?
門の狭さに怖気づき、不安になってしまう。この選択は間違っていないだろうかと。
へたりと眉が下がり、目線も同じく説明の最下部へ下がったところで、私は目を瞬いた。下がっていた眉が元通りになり、目が輝く自覚もあった。
そこには、こう記してあったのだ。
【学部、学科共に不問。必要なのは、研究したい意欲と、やり遂げる強い意思。最後まで足掻くことのできる者のみ、我が研究室のドアを叩くように】
私は目の前が開けた気がした。とにかく今は、できることを。少しでも成績上位者に近づけるように勉強して、あとは試験? に備えて、なるべくいろんなことを調べておこう。
よし! と意気込んで学生課を出たところで、段差で躓いた。信じてなかったけど、あの占い、もしかして当たるのか……?
それからは、できる範囲で、成績上位者に入れるよう、思いつく限りのことをした。レポートをこれまでより丁寧に書くよう気をつけたし、試験対策にも力を入れた。
彼は今まで以上に懇切丁寧にいろんなことを教えてくれたし、レポートの書き方についても的確にアドバイスしてくれた。
おかげでレポートの結果がAからSになったし、有り難いことにいくつかのゼミへの推薦も受けた。けれど私が受けたいゼミではなかったので、それらは丁重にお断りした。
推薦をくれた教授は畑違いのゼミを目指す私に驚いていたが、きっとこれが普通の反応だろう。学部不問とは言えど、恐らく学部を超えて受ける人は少数だろうから。
秋には一括説明会があり、その後、個別説明会があった。もちろんどちらにも参加し、個別説明会では先輩として壇上に立つ彼を見た。かっこよかった。
その後、ゼミ見学会にも参加した。
驚いたのが、何人か説明してくれる先輩たちと並ぶと、彼の服装は清潔感が桁違いだった。ダボっとしてるのに……。
いや、私はそんな彼の服装も好きだと思っているが。まさかあんなに違いが出るとは思わなかった。
つまり、その……非常に言葉に迷うが、彼以外はダルダルのユルユルで、やや清潔感に欠ける格好をしていたのだ。
研究に打ち込んでいる反動なのか、それ以外はどうでも良いと考えてる人が多数だった。研究職とはこのくらい振り切れて居ないと、務まらないのかもしれないと思い至った。
最初は学部から違う私を、冷やかしに来たのかと遠巻きにしていた先輩方だったが、彼が共同研究を考えていると話したことにより、興味を持ってくれたらしく、いろんな質問をされた。
ふわっとした答えしか返せない私の隣で、彼がフォローするように補足してくれる。頼りになりすぎる……!
他のゼミ希望者の人たちも、私の研究には興味を持ってくれた様子だった。チラチラとした視線を感じながら、その顔に浮かぶ文字をなぞらないよう、つるりとした輪郭の辺りを見ながら会釈しておく。
確実に同じゼミの先輩方ならまだしも、まだこのゼミに入ると決まってない人間の名前まで認識するのは疲れる。まぁ、私もここに入れるとは限らないんだけども。
見学会の後は、入室試験。
私の希望したゼミは、研究したいと思ってることについての簡易レポートと、教授との面接だった。要はゼミに入ってからやっぱり辞めたとならないよう、適性を見るもののようだ。
簡易レポートについては、彼と話していた研究についてをざっくりとまとめたものを提出した。共同研究だから、自分の意見だけでなく彼の意見についても触れて、やりたいことについての意欲を述べた。これは我ながら自信作だと思う。
緊張の面接。
私は口から心臓が飛び出しそうなのを堪え、教授室のドアを叩いた。どうぞ、と短い返事があるのを聞いてから、ドアノブに手をかける。
ドアの向こうは、異次元だった。
いや、例えの話である。だが、そうとしか表現できない空間が広がっていた。
乱雑に積み上げられた本のタワー、そこかしこに散らばったレポート用紙、足の踏み場もないほど敷き詰められた何に使うかもわからない道具? パーツ? たち。壁には私が見たこともないような数式がびっしり。天井にはあらゆる角度から見た脳の写真? が貼り付けてある。何やら書き込みもしてあるけど、どうやって書いたんだろう?
「やぁ。散らかってるけど気にしないで。こちらへ」
「はい!」
緊張のあまり声が裏返ってしまった。あちこち不躾に観察してしまって、失礼だったかも。なるべくキョロキョロしないよう、気をつけないと……。
この空間にある、あらゆるものが私の興味を惹いて仕方ないが、今は面接であることを意識して、興味を頭の外へ追い出しておく。
少し触れるだけでも雪崩れそうなアレコレを避けて、教授の近くへ。いろんなものが散乱した部屋の中、教授の居る椅子と、その向かいにある小さな椅子のところだけ、ぽっかりと空間が開けていた。新手の魔術みたいだ。
失礼します、と声をかけてから着席すると、教授は柔和な文字を浮かべて、口を開いた。
「早速だけど聞きたいことがあって」
「はい」
「三島さん、須藤の彼女って本当?」
「は、…………………はい?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。だからおかしな返答になってしまった。
「わぁ。本当なんだ。まぁ須藤がそんな冗談言うとも思わないけど改めて本人から聞くと驚いてしまうな。ふーん、なるほどね。あの須藤が」
教授は一人で納得して、うんうん頷いている。私は混乱を極めていた。何? 今って何の時間?
「レポート読んだよ、面白そうなテーマだ。須藤と共同研究するんだってね? あの須藤が誰かと共同研究するなんてと驚いたけど、面白そうなテーマだし、しかもその相手は付き合ってる彼女だって言うし、二重に驚いたよ」
私が目を白黒してる間にも、立て板に水をかけるように、教授は矢継ぎ早に質問とも独り言とも判断しかねる言葉を投げ続ける。これは、どこかで返事をするべきなの? それとも黙って聞いてるのが正解? どっち?
「三島さんは文学部だけど、うちのゼミに興味を持ったのはどうして? 須藤の影響?」
「ち、違います!」
これは質問だと思った瞬間、反射で否定してしまった。しかもわりと強めに。しまった。とにかく、答えなくちゃ。
「その。私は昔から人の顔が認識できなくて。だから顔以外で判断しているのですが、顔が認識できる人でも、判別が苦手な人も居ると知って。人工知能でそれを解決できたら、困ってる人の助けになるかもしれないのと、あとは機密情報を取り扱う機関などで、関係者とそれ以外の識別に役立つのではないかと思いました」
不安から目線が下がりそうになるのを必死に堪え、教授の名前が浮かぶ文字を見つめる。やや角のある達筆な文字。きっと研究一本気で第一線を走ってきた顔をしているのだろう。
「具体的にどんなことから取り組むの?」
「まずは大学に在籍している学生のデータを収集し、顔と名前を紐づけます。講義の際に教壇から学生へカメラを向け、顔を写すことで点呼代わりになるシステムから構築します」
「えっなにそれすごく助かる。専門講義では必要ないけど、必修の講義にそれがあると便利だね」
顎に手を当てた教授が、ふむ、と思案した。はっきりしっかりした文字の浮かぶ顔は真顔で、きっと真剣にいろんなことを考えているのだろう。
しばし思案した後、教授が顔を上げた。その顔に浮かぶ文字は、柔和なものになっている。
「お疲れ様。面接はこれで終了します」
「は、はい! ありがとうございました!」
ぺこりと頭を下げ席を立つ。そのまま周囲のものに誤ってぶつからないよう細心の注意を払いながら、退室した。ここで何かにぶつかって雪崩れた日には、私も教授も助からない予感しかない。
パタン、と教授室のドアを閉めて、大きく息を吐き出す。できることは、全部やった、やりきった。あとは、人事を尽くして天命を待つ、だ。
来週提出のレポート、続きをやろう。自習室ではきっと、彼が待ってくれてるはずだから。やりきった旨を伝えれば、いつものように頭を撫でてくれるだろう。
私はレポートのため、彼に会うため、浮足立ちながら自習室へ向かった。
試験と面接から一ヶ月ほど経ち、合格発表日。
私はやっぱり口から心臓が飛び出そうなのを堪え、研究室前に貼り出された合格者一覧を見に来た。
一度深呼吸して……いや、いっそ勢いのまま見るべき? それとも一旦カフェで糖分補給して気持ちを落ち着ける?
「ユイちゃん、大丈夫だから、大きく息を吐いてから吸ってごらん」
隣の彼がそう言って背中を撫でてくれる。私は言われた通りに大きく息を吐ききって、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
ぐるぐるしていた思考が、さーっと晴れていく。すごい。
「落ち着いたかな? じゃあ、見てみよう」
私の様子を見た彼が、掲示板へ促してくれる。震えそうな足を叱咤し、前へ踏み出す。膝が笑いそう。我慢。
足を進めることはできたが、今度は顔を上げることができない。掲示板の前で俯いていても仕方ないので、ぎゅっと目を瞑り、思い切って顔を上げた。そろりと瞼を上げると、そこには五名分の合格通知が記載してあった。
私の名前、………………ある。
「やっ、やったー!」
「良かったね、ユイちゃん」
思わず彼に抱きついてしまったが、彼はそれを嫌がるでもなく、優しく抱き返してくれた。
「よ、良かった、本当に。これでタカトさんと、研究できる?」
「もちろんできるよ。共同研究なんて初めてだから、楽しみだな」
「私、研究なんて初めてだから、本当に何もわからないけど、たくさん勉強して、タカトさんに追いつくから!」
「それは頼もしい」
こうして私は、彼と同じ研究室で共同研究をするための権利を、堂々ともぎ取ったのである。
来年の春からは、彼と同じ研究室で、共同研究をします!




