おばあちゃんとの面会
階段から落ちたあの日から、人の顔がわかるようになった。
それは天変地異が起こったように、私の世界をガラリと変えた。
今の状況は全く人の顔がわからなかった以前と比べれば、きっと喜ばしいことなんだと思うけど、私は目下、かつてない問題を抱えていた。
人の顔はわかっても、今まで見えていた名前がわからなくなったのだ。
つまり、人を見分けることができなくなっていた。
それは大学に通い集団生活をする身としては、非常に厄介な問題だった。
みんなどうやって人を見分けてるの?
目と鼻と口が付いてて凹凸があるのはわかるけど、それ以外についてはわからなすぎて、どう見分ければ良いのかもわからない。
パーツの大きさなんてよくわらないし、凹凸の差なんて誤差みたいなものだし。
ハッとするくらい整った顔とかならわかるけど、それ以外の人の顔なんて、わからない……!!
以前、人の顔がわからなくなったら見分けることができなくなりそうだと自分を評価していたけど、まさしくそのとおりになってしまった現状に、頭を抱えた。
私は本当に、人のことを見ていなかったんだなと痛感する。
なまじ名前が見えていただけに、それ以外の部分(例えば髪型や髪色であったり服装や体型であったり)を全く認識していなかったのだ。
幸いと言うべきか、私は彼以外に親しくする人物は大学でもほぼ皆無だった。鈴木さんくらい。
あとは有象無象であるから、彼とお姉ちゃんのアドバイス通り、顔を合わせても小さく会釈すれば乗り切れた。
これは今までと変わらない対応のようだけど、以前と違い、人の目の位置がわかるようになった私は、徹底して人と目を合わせることを避けた。
それはわかりやすく関わりの拒絶と認識してもらえたようで、声をかけられることがほぼ無くなった。やはり会話の糸口として、目が合うというのは非常に有効らしい。そもそも目線が合わなければ、会話を始めることすら難しいのだなと再確認した。
「え、おばあちゃんに?」
それはお姉ちゃんと夕飯を食べてるときのこと。
「そう。今のうちにおばあちゃんにも会っておいで。ユイがおばあちゃん似だって、すぐにわかるから」
「そういえば、昔からずっと、私はおばあちゃん似だよって言ってたね」
すっかり忘れてた。
思い返せばずっと言われてたけど、そもそも次元が違う顔に似てると言われても、さっぱりわからないのだから、大目に見てほしい。
「ホームには連絡しておくから、行っておいで。たぶん連絡しなくてもユイが行けば、すぐに通してもらえるくらい、よく似てるから」
お姉ちゃんが自信満々に言うけれど、お願いだから連絡はしておいてください……個人情報とかいろいろ、最近厳しいし。
「もし良かったら、タカトさんにも会ってほしいな」
「僕が?」
講義の合間、自習室でおばあちゃんに会いにいく話をするついでに、彼にも同行してほしい旨を伝える。
「この前の顔合わせ、おばあちゃんは来られなかったから。自慢の彼氏ですって紹介したいの」
おばあちゃんに会いに行くことは決まったけど、それなら彼を紹介したい。そして、本当にそっくりなのか判断してほしい。
「その日は朝から少し予定があるから、一緒に向かうのは難しいんだけど……迎えに行くようにしようか」
「え! 予定があるなら無理しないで! またの機会で大丈夫だよ」
「僕が挨拶したいんだ。遅れて行くことになるのは申し訳ないけど、ぜひ挨拶させてほしい」
彼氏にこんなこと言われて断れる人とか居る? 私は無理。彼の気持ちが嬉しくて、こくこくと頷く以外できなかった。
休日、私は一人電車に揺られ、おばあちゃんの入ってるホームへ向かう。
郊外にあるホームは、閑静な山手の、海を見下ろす場所に建っている。静かな環境で、入居者はあまり多くない。
そこは人付き合いが苦手な人たちが入るホームだった。
おばあちゃんは、おじいちゃんが死んでからずっと、このホームに居る。おじいちゃんが死ぬ前から、ここに入ると決めていたらしい。
お父さんやお母さんが一緒に暮らそうと言っても、私やお姉ちゃんが寂しいと言っても、絶対に首を縦に振らなかった。
一人で静かに迎えを待つ。そう笑うおばあちゃんを、誰も引き止められなかった。
インターホンを押すと、名乗らなくても誰の面会者かを言い当てられてしまった。
「三島さんのお孫さんでしょ? 本当にそっくりで、驚いちゃった」
人の良さそうな笑みを浮かべた女の人が、おばあちゃんの居る中庭へ案内してくれる。そんなに似てるの……?
「三島さんが若返ったのかと思っちゃった」
「ま、まさか〜」
なんとか笑って返事したものの、ここまで言われると、逆にハードル上がるんですけど。本当にそんなに似てるの……?
あちらです、と促された先に、椅子に座りながら庭を眺める私が居た。
正しくは、私が年老いたらこうなるだろうと思われる、今じゃないいつかの私。
……本当に、そっくり。
私はあまりの衝撃に言葉も出なかった。ただ目を見開いてその人を見つめてしまう。
そんな私を見たおばあちゃんは、おかしそうに笑って、手招きした。
「こんにちは、ユイちゃん。しばらく見ないうちに大きくなったわね。その様子だと、わかるようになったのかしらね」
私はその言葉に息を呑んだ。
わかるようになった?
つまり、それは、私がおばあちゃんにそっくりだということを?
今まではわかっていなかったのに?
地面に張り付いていた足裏を引き剥がし、おばあちゃんへ駆け寄る。
「おばあちゃん、」
「あらあら。これは本当に困ってるみたいね。お茶でもしながらのんびりお話をしましょうね」
おばあちゃんに促されるまま、おばあちゃんの向かいに座る。
さっきは気づかなかったが、テーブルにはお茶セットが用意してあった。まるで話があるのがわかってたみたい。
「ユイちゃん、まずはお茶を飲んで落ち着きましょう」
にこにことしたおばあちゃんが、私にお茶を勧めてくれる。自分と同じ顔にお世話されるという人生初の経験に、戸惑いつつもお茶を飲む。美味しい。
「時間は有限だけど、ここに流れる時間は緩やかだから。急がなくて大丈夫。一つずつ、話しましょうね」
ざぁ……と風が吹いて庭の植物を揺らす。けれどその動きは、普通より鈍いような気がした。
それはまるで、時間の流れが緩やかになったような。
「ユイちゃん」
弾かれたように目線を戻すと、そこにはにっこり笑うおばあちゃん。私は今、何を見てた? 植物が揺れて、でもおかしくて。なぜかゆっくりとさざめいているように見えた。
「そうね。まずは昔話から、聞いてもらえる? 退屈かもしれないけど、ユイちゃんの疑問は、解決するはずよ」
私が一つ頷くと、おばあちゃんが口を開いた。
その一族には昔から、人と少し違った子どもが生まれることがあった。
それは先見の力であったり、言霊の力であったり、形は違えど、人には無い力だった。その中には、私みたいな力もあった。
顔がわからないはずなのに、なぜか人を見分けることができて、その名前を言い当てる。親ですら見間違うような双子をも見分けることができる。
「巫の一種なんだと思うの。ほら、所謂巫女さんみたいな。形は様々だけど、普通の人には無い力だから、周囲には有り難がられてね。まぁ時代によっては忌み子って言われたりもしたんだけど。人の役に立つならと、人を助けることに尽力してたの。でも……」
先見が当たりすぎると、言霊が実現しすぎると、人の見分けを完璧にしすぎると、人々はその力を畏怖するようになった。同時に崇拝する人も出てきた。
畏怖する人々は巫女を排除しようとして、崇拝する人々は奉ろうとした。その衝突が激化して、人々の争いに心を痛めた巫女は姿を晦まし、その力を隠すようになった。
「この力は全員に出るわけじゃなくて、女系ではあるけど、出ないことの方が多いの。だけど二代か三代の間には必ず一人は出る。その子を見極めて、力について教えるのが、私みたいな印持ちの役割。あ、印持ちって、力が出た人のことね。昔は神様からの目印だろうって言われてたから、印持ち」
おばあちゃんの話は、お伽噺のようで荒唐無稽なのに、ストンと胸に落ち着いて、ひどく納得できてしまった。
「ユイちゃんは顔がわからないタイプでしょう? 私は弱いけど言霊の力なの。さっきの疑問は、解決したかしら」
にっこりと笑うおばあちゃんに、さっきのやり取りから、すでに説明は始まっていたのだと理解する。だから、さざめきがゆっくりだったんだ。
おばあちゃんが緩やかだと言ったから、その通りになった。
「先見も言霊も見分けも、多くの人に作用した。けれど例外もあってね。その力を使う人間の、特別な人には使えないの。ユイちゃんにはもうわかるかしらね。好きになった人には効かないの」
寂しく笑うおばあちゃんに、その残酷さを理解してしまう。先見も、言霊も、好きな人だからこそ使いたい場面があるだろうに、それは叶わない。
おばあちゃんも、使おうとしたんだろうか。
おじいちゃんが死ぬ前に、その死を退けようとしたんだろうか。わからない。
だけど、おばあちゃんが今ここに一人で居ることが、答えのような気がした。
「それと、力が一時的に消えることもあってね。この力が無ければと強く思った後に強い外的ショックを受けると、一時的に普通の人と同じになるの。でも一時的なものだから、しばらくすると戻るんだけどね。ユイちゃん今、私の顔、わかるでしょう?」
まるで見てきたようにおばあちゃんが言う。これが年の功というやつなのだろうか。
「私も、こんな力あっても意味無いのにって強く思ってから自転車とぶつかったことがあってね。それからしばらく、印持ちじゃない生活をしたの。不思議な経験だったわ。ユイちゃんはどうかしら」
びゅう、と強く風が吹き、私の髪を攫う。けれどその動きはどこか緩慢で、この空間だけはおばあちゃんの言葉通り、流れが緩やかなのだ。
一時的。そうか。やっぱり、一時的なものなんだ。
もっと残念に思うかと思ったが、そうでもなかったらしい。それは私が今の状況に戸惑っていることも大きいかもしれない。
おばあちゃんも言霊が無い生活をして、不思議な経験だと言ってるし、やっぱり生まれつき力があって、それが普通の生活をしていると、戸惑いの方が大きいのかも。
「私、急に人の顔がわかるようになって、すごく怖かった。全然人が見分けられなくて。知ってる人だとわかってるけど、私にとっては知らない人だから。怖くて、不安で、普通の人はどうやって人を見分けてるんだろうって思った。でも、顔がわかるようになったから、お姉ちゃんやお母さんやお父さん、おばあちゃんの顔もわかるようになった。ずっと私はおばあちゃん似なんだよって言われても、わからなかったけど。やっと、わかったよ。私は、おばあちゃん似なんだね。一時的だとしても、顔が見られて、嬉しいよ」
私の言葉に、おばあちゃんは優しく笑う。私もいつか、こんなふうに、私みたいな力を持った誰かを、導くことができるだろうか。不安な心を解かしてあげられるだろうか。わからない。だけど。
「私もいつか、おばあちゃんみたいになりたい」
「まぁ。ユイちゃんはきっと私より素敵なおばあちゃんになれるわよ」
そのためにも力についてしっかり覚えておいてね、と人差し指を立てるおばあちゃんは、とてもチャーミングだった。
「そろそろかしら。時間は有限だから、元通りね」
私がせっせとおばあちゃんの話をメモして、お茶を飲んで一息ついたところで、おばあちゃんがそう言った。途端、緩やかだった流れは元通りに。緩慢だったのが嘘のように、風が吹き抜けていく。
「ユイちゃん、彼氏さんが迎えに来るんでしょう。あのままだとびっくりさせちゃうからね」
「あ、そうかも」
たしかに、風に吹かれる植物の動きが緩慢だったりしたら、驚かせてしまうだろう。……彼の場合、原理がどうなってるとか気にしそうではあるけども。
「見分けの印持ちはね、たった一人の顔がわかる人を一途に恋い慕うの。でも相手が振り向いてくれるとは限らないから、悲恋が多いんだけど。ユイちゃんは幸せそうで良かった」
「自分でも、すごい幸運だなって思うの」
「顔がわからなくて辛い思いをした分、たくさん幸せになってね」
おばあちゃんも、辛い思いをしたんだろうか。幸せだったんだろうか。今日はそんなことばかり考えてしまう。
「ユイちゃん」
振り向くと、彼が居た。立ち上がって近くへ行こうとする前に、彼はその長い足で私の傍へ辿り着いてしまった。足、すごく長い……。
おばあちゃんが彼にも椅子を勧めてくれたので、そのまま紹介する。
「おばあちゃん、こちら、お付き合いしてる須藤 貴人さん」
「初めまして。須藤 貴人です」
「あらまぁご丁寧に。ユイの祖母です」
和やかな空気の顔合わせは、気持ちの良い風が吹く中、穏やかに終わった。
「また何かあったらいつでも来てね。ここで待ってるから」
私がお母さんに頼まれた、一緒に暮らそうという誘いを言わせないように、先手を打たれてしまった。
だけど、おばあちゃんがここが良いと思う気持ちも、なんとなくわかる。印持ちであることは他の家族は知らないし、バレないように気を遣って生活するのは、疲れてしまうのかも。
ここは無難に「またね」って返すところだ。頭ではわかってる。でも。
ふいに、私の右手が大きな手に包まれる。隣の彼が、私の背中を押すように、きゅっと手を繋いだ。
……やっぱり、敵わないなぁ。
「おばあちゃん、今、幸せ?」
彼に背中を押されて、無難じゃない言葉を返してしまった。答えを聞くのは、少しだけ怖いけど。彼が一緒なら、どんな答えでも受け止められそうな気がする。
おばあちゃんは不意をつかれたように目を丸くしてから、花が綻ぶように満面の笑みになった。
「もちろんよ。とても幸せ」
それは万感の思いが詰まったような、いろんな感情が込められた声。だけど間違いなく幸せの込められた声。
「私、やっぱりおばあちゃんみたいになりたい」
泣き笑いのようになってしまったけど、精一杯の気持ちを込めて、言葉にした。
おばあちゃんは綺麗に笑って、小さく頷いてくれた。
「タカトさん、ありがとう。来るのたいへんじゃなかった?」
「全然。きちんと挨拶できて良かったよ。ユイちゃん、本当におばあさんとよく似てるんだね」
「私も今日びっくりした。タイムスリップしたのかと思っちゃった」
「たしかに。何十年か先のユイちゃんを見てる気分だった」
「やっぱりそうだよね。スタッフさんにも言われた」
「本当によく似てるからね」
彼と手を繋ぎ、駅までの道のりを歩く。山手の高台から、海が見えた。陽の光を反射して、キラキラして眩しい。
「あのね。やっぱり、一時的なものなんだって」
「……そうなんだ」
彼は一瞬だけ目を丸くしたけど、すぐに頷いてくれた。頭が良い人は理解も早い。深く追求してこないのも、彼の慮りの深さだろう。
「もうすぐまた人の顔がわからなくなっても、私はタカトさんの顔さえわかれば、それでいいや」
彼を見上げて笑いかけると、ほんのりと耳が赤くなっていた。
「それは嬉しいけど。残念じゃないの? ユイちゃんのお姉さんとか、僕の兄さんとか、せっかく綺麗な顔がわかるようになったのに」
「全然。綺麗だなぁとは思うけど、なんか美術品を見てる気分になって、人の顔とは思えないんだよね」
私の言葉に、彼が堪えきれず吹き出した。
「人の顔とは思えない、かぁ。じゃあ僕の顔は人の顔に見えてるってこと?」
私はにっこりと笑ってから口元に手を立て、彼に屈むよう促した。人の良い彼は背を屈めて、私の耳打ちが届く高さに耳を寄越す。
その耳にたっぷりと気持ちを込めて、愛を囁いた。
「あのね、世界で一番大好きな、素敵な人の顔」
真っ赤になった彼に抱きしめられて、顔中にキスの雨を降らされるまで、あと五秒。




