8.旅路
ポルトを出てから三日。
空は、どこまでも青かった。
高い場所を流れる白い雲。
街道の両側には、まばらに木が生えた平原が広がっている。
初夏のような風が草原を駆け抜けるたび、青々とした草が一斉に揺れた。
荷馬車の車輪が乾いた土を踏む。
荷馬車の軋む音。馬の蹄。風の音。
遠くでは、名前も知らない鳥が鳴いていた。
「いい天気だねぇ」
ハルカが荷台から空を見上げる。
「ああ」
アニマは短く答えた。
戦場とは違う。
叫び声は聞こえない。血の臭いもしない。焼けた肉の臭いもしない。
ただ、暖かな風が頬を撫でる。
アニマは荷台に座りながら、遠くの景色を眺めていた。
「こういう旅、憧れてたんだ」
「そうか」
ハルカが言う。
アニマも憧れが無い訳ではなく、少し心躍っていた。
荷馬車の御者台には、エルフの青年が座っている。
リーフの世話役の一人だ。
手綱を握り、前を向いたまま馬を進ませている。
もう一人の世話役はリーフの近くに座り、時折、何か必要なものがないか確認していた。
女弓兵は荷台の端に座り、周囲を警戒している。その背には弓。
相変わらず、ほとんど喋らない。
アルクは荷馬車の横を歩いていた。
「疲れないのか」
アニマが尋ねる。
「歩くのも鍛錬ですから」
アルクは笑った。
アニマはアルクを見る。
「一つ聞いていいか」
「何でしょう」
「なぜ、お前だけ人間なんだ」
アルクが少しだけ笑った。
「何となく察していると思いますが」
前を見る。
「リーフ様は、身分の高い御方です」
「……そうだろうな」
あの宿。あの報酬金。
そして、気高きエルフが当然のように使用人として付き従っている。
普通の旅人ではないことくらい分かる。
「俺は昔、色々ありましてね。リーフ様に拾われたんです」
アルクは肩をすくめた。
「拾われた?」
「ええ。そこから色々ありまして、力を示して。今は護衛をやらせていただいてます」
「曖昧だな」
「言い難い話なんですよ」
アルクが笑う。
「アルクには随分と助けられているわ」
荷台からリーフが言った。
アニマがそちらを見る。
「アルクがいなければ、今頃どうなっていたか分からないもの」
「勿体ないお言葉で」
アルクが恭しく頭を下げる。
「そんなに大層なことをした覚えはありませんがね」
「私が覚えているからいいの」
リーフは言った。
アルクは困ったように笑う。
その様子を見て、アニマは少しだけ目を細めた。
単なる主従。ではないらしい。
「そういえば」
リーフがアニマを見る。
「昨日、言ったでしょう」
「何をだ」
「強い人の話を聞くのが好きだって」
嫌な予感がした。
「何か話して」
「……ない」
「一つくらいあるでしょう」
「ない」
「絶対にあるわ」
アニマは黙る。誤魔化すのは得意ではない。
戦場の話ならいくらでもある。
だが、今の自分は。
ふと、間者の顔が浮かんだ。
――裏切り者が。
このパーティを信用していない訳じゃない。
しかし、僅かにでもハルカの身の危険に繋がるのであれば、気をつけなければならない。
ヴェイド王国の兵士だった。獣の英雄として、前線に出ていた。
そのことを、簡単に話すわけにはいかない。
身分を隠さなければならない。
「……昔」
アニマが口を開いた。
「ヴェイド王国付近で、巨大な竜が現れた」
リーフの目が変わった。
「ヴェイド王国に…竜?」
「ああ」
興味ない素振りをしている者もいるが、一行が聞き耳を立てている。
アニマはそれを察知し、言葉を選びながら話す。
「竜って、四足歩行で翼が生えていて、火を吹いたりする全身鱗に覆われた……」
「それ以外に何がいる」
「いや、そうですが」
リーフが顎に手を当てて少し考え込む。
「それで?」
「倒した」
「それだけじゃないでしょう!」
リーフの声が少し荒らぐ。
アニマは考える。
「そいつが人を食った」
「うん」
「家を壊した」
「うん」
「呼ばれて俺が行った」
「それで?」
「倒した」
「どうやって!?」
リーフの身を乗り出す勢いが凄い。
ハルカが横で笑っている。
「身体強化魔法と大剣を使った」
アニマは答えた。
「竜相手に?」
「ああ」
「大きかった?」
「…あの木よりは背が高かったな」
前方の木を指差す。この荷馬車五台分はある。
リーフが絶句する。
「……大剣で切れるの?」
「ああ。一度じゃ無理だがな」
「飛んだ?」
「飛んだ」
「どうしたの?」
「落とした」
「どうやって?」
「跳んで斬った」
しばらく沈黙。
アルクが小さく笑った。
「御伽噺みたいな話ですが、アニマ殿から聞くと信じてしまいそうです」
「……凄い」
リーフの目が、きらきらと輝いていた。
まるで子供のようだ。
「他には?」
「ない」
「絶対にあるでしょう」
「ない」
アニマは視線を逸らす。
獣の力のことは話さない。
生まれつき持つ者は少ない。
それを知る者なら、アニマという名と結びつけるかもしれない。
まだ、誰にでも話していいものではない。
「身体強化魔法、それも強力な使い手だな」
御者台から世話役の青年が呟いた。
「エルフの中にも使える者はいるわ」
リーフが言う。
「ただ、私たちは基本的に接近戦が得意じゃないの」 「そうなのか」
「弓兵や魔法使いが補助的に使うことが多いわね」
アニマは女弓兵を見る。
女弓兵は何も言わない。
ただ、遠くを見ている。
「魔法についてなら知識のある者も多いわ」
リーフが続ける。
「もし、何か相談したいことがあれば言って」
「……分かった」
強くなるための手がかり。
獣化の完全な制御。昔からの目標だった。
いつか、相談することになるかもしれない。
*****
旅は続いた。
快晴の日。
少し雲の多い日。
風が強く、草原が大きな波のように揺れる日。
道中、何度か魔物も現れた。
「右から来ます」
御者台の青年が言う。
女弓兵が立ち上がり、弓を構えた。
弦が鳴る。
次の瞬間、遠くにいた黒狼の頭へ矢が突き刺さった。
そのまま倒れる。
「……終わりだ」
女弓兵は弓を下ろした。
アニマは荷馬車から降りることすらなかった。
二度目も。
三度目も。
魔物が近づく前に、女弓兵の矢が命を奪った。
「凄いね」
ハルカが言う。
「弓だけであんな遠くから」
「当然です」
女弓兵は短く答えた。
それだけだった。
褒められたことが嬉しいのか。そうでないのか。
表情からは分からない。
*****
日が落ちる。
平原の真ん中で、荷馬車を止めた。
火を起こし、馬を休ませる。
野営の時間だった。
「今日は私が作るよ」
ハルカが言った。
「何をだ」
「カレー」
「カレーとは何だ」
「食べれば分かる!」
使用人の道具を借り、手際よく具材を切る。
鍋の中へ切った肉と野菜を入れる。
そして、様々な香辛料も。
使用人の水魔法で水を入れ、鍋を火にかける。
しばらくすると、これまで嗅いだことのない香りが広がり始めた。
食欲を刺激するような、強い香り。
「……何だ、この匂いは」
「郷土料理かしら。香りはポルトの屋台で嗅いだことがあるような気がするわ」
アルクとリーフが不思議そうに鍋を見る。
漁村で振る舞ってもらったハルカの料理はどれも美味かった。カレーというのは知らないが、きっと美味いだろう。
使用人二人はかなり興味深そうにハルカの調理過程を観察していた。
やがて、料理が完成する。
「できた!」
黄色がかった濃いスープ。
肉。野菜。そして、強い香辛料の香り。
「もっととろみを付けたかったけど、こんなものかな」
パンと一緒にどうぞ、と皿を渡される。
アニマは一口食べた。
「……美味い」
「でしょ!」
ハルカが笑う。
「これはハルカ殿の故郷の料理か」
「そう!」
「これは中々……」
世話役の二人とハルカがレシピについて何やら話し合っている。
最初は会話も少なかった。
だが、料理の話になると違った。
気づけばハルカは、二人の世話役と話を弾ませていた。あれほど警戒していたはずの二人も、時折ハルカへ言葉を返している。
フレッサは、少し離れた場所でカレーを食べている。
「どうだ」
ずっと警戒されており居心地が良くなかったため、アニマは女弓兵へ話しかける。
「……悪くない」
「それはよかった。ハルカは料理が――」
「無駄話は好かん」
それだけ言って、また食べ始めた。
名前を聞く隙すらない。
元の位置に戻り、また食べ始める。
ハルカが笑う。
「皆気に入ってくれたみたい」
アニマは不思議と誇らしかった。
*****
夜。
見張りの時間。
焚き火は小さくなっていた。
空には無数の星。
昼間とは違い、平原は静かだった。
風が草を揺らす。
遠くで、魔物らしき鳴き声が聞こえた。
アニマは剣を横に置き、周囲を見ていた。
「眠らないのか」
声がした。
女弓兵だった。
「見張りだ」
「私もだ」
フレッサは少し離れた場所に立つ。
しばらく。
二人の間に沈黙が流れた。
「お前からは血の匂いがする」
唐突に、女弓兵が言った。
アニマは彼女を見る。
「何者だ」
フレッサの手は弓へ伸びていない。
だが、警戒している。
隠し続ければ、余計に怪しまれる。
アニマはそう判断した。
「軍にいた」
女弓兵の目が細くなる。
「どこの」
「ヴェイド王国」
風が吹く。
焚き火が揺れた。
「戦争に反対した」
アニマは続ける。
「それで、追放された」
「それだけか」
「それだけだ」
女弓兵は剣呑な雰囲気を纏う。
「嘘だな」
「全部は話せない」
フレッサの手がゆっくりと弓へ伸びる。
アニマもショートソードの位置を意識する。
その時。
「フレッサ」
別の声がした。
リーフだった。
眠っていたはずだ。
「私が雇った護衛に、何か不満が?」
「ありますね」
女弓兵――フレッサは鼻を鳴らした。
「この男は危険だ」
「そうかしら」
「血の匂いがする」
「それなら、軍に所属していたと言っていたでしょう」
リーフにも聞かれていた。
気配隠しの魔法でも使っていたのだろう。
「それだけではありません。まだ何か隠している」
フレッサはアニマから目を離さない。
「私は危険だと思います」
まるでリーフを守るように、一歩前へ出る。
アニマは動かない。
「アニマ、貴方が何者なのか詳しくは知りません」
リーフがアニマを見る。
「でも、あの討伐依頼で見ました」
静かな声。
「貴方の強さと、優しさを」
アニマは黙った。
「私は、それを買っているんです」
フレッサが僅かに顔をしかめる。
「リーフ様」
「いいの」
リーフは言った。
「それに」
少し俯く。
「私も、隠し事をしていました」
アニマが眉を動かす。
「私は、ただの旅人じゃない」
「リーフ様」
嗜めようとするフレッサを手で制し、リーフは静かに話し始めた。
「エルフの中でも、少し身分の高い家の生まれです」
それは予想していた。
だが、彼女は続ける。
「今回、西の都ウエスタンへ向かっている本当の目的は」
リーフの声が、少し低くなる。
「奴隷として攫われた同族を助けること」
アニマの目が変わる。
「……奴隷か」
「ええ」
「奴隷にされたエルフがいるのか」
「ウエスタンに」
奴隷はヴェイド王国にもいた。
その扱いはとても人に対するものではなく、死んで当然の扱いをされているものが殆どだった。
「助けたいんです」
リーフが言う。
「そのために、貴方の力を借りたい」
焚き火の音だけが響いた。
助けたい。
その気持ちは分かる。
アニマだって、目の前で誰かが死ぬなら助ける。
だが。
奴隷商人を襲撃する。
それは目立つ。
ヴェイド王国の間者を殺したばかりだ。
これ以上派手に動けば、自分が追われる。
そして。
ハルカまで巻き込むかもしれない。
「……すぐには答えられない」
アニマは言った。
リーフは沈痛な面持ちで頷いた。
「分かっています」
「俺には、事情がある」
「聞きません」
リーフは静かに答えた。
「話したくなった時に、話してください」
その言葉に、アニマは少し意外そうな顔をした。
「すぐに答えてくれなくてもいいです」
リーフは続ける。
「西の都まで、まだ一週間と少しあります」
そして、アニマを見る。
「それまでに結論を出してください」
それだけ言って、リーフは背を向けた。
フレッサは最後までアニマを警戒していた。
やがて、二人の姿が闇へ消える。
アニマは一人、焚き火の前に残された。
*****
答えは出なかった。
次の日も。
その次の日も。
荷馬車は西へ進んだ。
青空。
平原。
暖かな風。
穏やかな旅は続く。
ハルカは世話役の二人と料理の話をするようになった。
アルクは相変わらず、馬車の横を歩いている。
リーフは時折、アニマへ話しかける。
フレッサだけは、変わらずアニマを警戒していた。
それでも。
答えは出せない。
アニマは、荷馬車の中で眠るハルカを見る。
何も知らない顔。
もし、自分が目立つ行動をすれば。
彼女を巻き込むかもしれない。泣かせることになるかもしれない。
だが。
助けを求めている者がいる。
「……」
アニマは目を閉じる。
答えは出ない。
そして。
ポルトを出てから、さらに日が過ぎた。
「見えてきましたよ」
アルクの声。
アニマが顔を上げる。
平原の先。
青い空の下に、巨大な城壁が見えていた。
いくつもの塔。
城壁の向こうに広がる建物。
城塞都市。
「……あれが」
「西の都ウエスタンよ」
リーフが言った。
あの城壁の向こうに、助けを求めている者がいる。
そして、自分を追う者も、どこかにいるかもしれない。
守りたいものがある。
助けたい者もいる。
そのどちらを選ぶのか。まだ決められなかった。
それでも、荷馬車は止まらない。
ウエスタンへ。
アニマたちは、ゆっくりと進んでいった。
アルクが歩く




