7.密影
翌日。
アニマとハルカは、街中を歩いていた。
「……どこに向かっている」
「高級街エリアだ」
アルクはそれだけ言うと、振り返って笑った。
案内された先を見て、アニマは足を止める。
建物の前には、身なりの整った使用人らしき者が立っていた。
石造りの三階建て。磨かれた窓。入口には、金属製の装飾まで施されている。
「ここ、宿?」
ハルカが見上げる。
「ポルト一の宿ですよ」
「……高そう」
「高いですよ」
ハルカが一歩後ずさる。
「私たち、間違ってない?」
「合ってます。こっちです」
アルクに促され、中へ入る。
床には厚い絨毯が敷かれ、壁には見たこともないような絵画が飾られていた。
「エルフのお姫様か何か?」
「さあ。俺も知らない」
アニマは落ち着かなかった。
こういう場所は、どうにも苦手だ。
ヴェイド王国で豪華な建物を見ることもあった。
だが、それらはほとんど王や貴族のためのものだった。
自分には縁がない。
「こちらです」
アルクが一つの扉の前で立ち止まる。
軽くノックした。
「リーフ様。お連れしました」
「入って」
扉の向こうから、少女の声がした。
アルクが扉を開ける。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、アニマはわずかに目を細めた。
昨日の軽装パーティーの少女。
リーフがいた。
部屋の中央に置かれた長椅子に座っている。
そして、その両隣。
二人のエルフが、まるで護衛でもするように立っていた。
片方は細身の青年。もう片方は、長い髪を後ろでまとめた女性。
二人とも、リーフと同じように整いすぎた顔立ちをしている。
そして、窓際。
一人の女が椅子に座っていた。
背には弓。
こちらもエルフだ。
頬杖をつき窓の外を眺めていた彼女は、アニマたちが入ってきてもほとんど表情を変えない。
五人。
そのうちアルク以外の四人がエルフ。
全員が、不思議なくらい美しい。
だが。
誰も笑わない。
アニマとハルカが部屋へ入ってからも、世話役らしい二人は無表情のままアニマを見ていた。
警戒している。
そのことだけは分かった。
「座って」
リーフが言う。
アニマとハルカは向かい側に腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。
「……昨日はありがとう」
最初に口を開いたのはリーフだった。
「隊長級。あれは、私たちだけで遭遇していたら危なかったわ」
「そうか」
「あなたがいなければ、誰か死んでいたかもしれない」
リーフは真っ直ぐアニマを見た。
「だから、改めて礼を言わせて。ありがとう」
そして、わずかに頭を下げる。
その瞬間。
両隣の二人のエルフが、ほんの少しだけ反応した。
だが、何も言わない。
アニマも深く考えずに頷いた。
「気にするな」
「私は気にするのよ」
リーフは言った。
「助けられたんだから」
なぜかハルカが、少し嬉しそうに笑う。
その様子を、窓際の女弓兵が横目で見た。
しかし、やはり表情は動かない。
「それで」
アニマは尋ねた。
「護衛の話とは何だ」
アルクが机の上に置かれていた依頼書を取る。
「西の都、ウエスタンまで同行してほしい」
「それだけか」
「ああ」
アルクが答えた。
「十日間ほどかかる旅になる。道中の護衛を頼みたい」
アニマは依頼書を見る。
昨日ギルドで見たものと同じ内容だった。
正式な依頼。
依頼主も明記されている。
特に問題はない。
だが。
「……俺の力を必要とする理由が分からない」
アニマが言う。
リーフが僅かに首を傾げた。
「理由?」
「お前たちにも戦える者がいる」
窓際の女。
背中の弓。
そしてアルクも、昨日の戦いでは相当な腕だった。
他の二人も、少なくともただの世話役には見えない。
それでも。
大金を払ってまで、自分を雇う。
それが引っかかった。
「昨日、見ただろう」
リーフが言った。
「隊長級を」
「ああ」
「あれを見て、少し怖くなった」
少女の声は静かだった。
「私たちだけだったら、全滅していたかもしれない」
アニマは黙って聞く。
「だから、強い護衛が欲しいと思った」
「それだけで、あの報酬か」
「もう一つある」
リーフは少し考えた。
「私は、武芸者の話を聞くのが好き」
「……何?」
「強い人の話を聞くのが好き」
なるほど、金持ちの考えそうなことだ。
「昨日のあなたは強かった。だから興味がある」
「それだけか?」
「それだけ」
即答。
アニマは依頼書とリーフを見比べる。
怪しい。
だが、依頼自体は正式なものだ。
しかも、相手は金を持っている。
金持ちの考えることはどこの国でも分からないものだ。
そういうことにしておこう。
「アニマ」
ハルカが小声で尋ねる。
「どうする?」
少し考える。
ヴェイド王国へ向かう途中でもある。
金も手に入る。
悪い依頼ではない。
「変わらない。受ける」
「よかった」
ハルカが笑った。
リーフは表情を変えなかった。
だが、どこか安心したように見えた。
「出発は三日後でいいか」
「分かった」
アニマたちは立ち上がる。
「では、当日」
「ああ」
部屋を出る。
扉が閉まった。
*****
しばらく。
部屋の中には沈黙が流れていた。
「……本当に、これでいいのですか」
リーフの右側にいた青年が尋ねる。
「何が?」
「目的を伏せたまま依頼することです」
「今は、まだ言えないわ」
リーフは窓の外を見る。
ポルトの街。
行き交う人々。
平和そうな景色だった。
「私たちが何をしようとしているのか。知れば、彼らは受けないかもしれない」
「だからといって」
「分かってる」
リーフの声が少しだけ低くなる。
「ずるいことをしている」
窓際の女弓兵が、初めて口を開いた。
「なら、なぜ彼を選んだ」
「強いからよ」
「それだけか?」
リーフは答えなかった。
昨日。
大蜘蛛を見た。
あれほどの怪物を、アニマはまるで相手にならないものでも見るように観察していた。
そして。
危険に晒された者がいれば、迷わず助けた。
強い。
そして、優しい。
だからこそ。
「……きっと、断れないと思った」
リーフが呟く。
部屋の中に、再び沈黙が落ちた。
*****
「今日はどこに行くんだ」
「まずは市場!」
宿を出た瞬間、ハルカが言った。
「市場」
「次に観光名所!」
「観光名所」
「それから美味しいお店!」
「……武器屋は」
「最後!」
アニマは眉をひそめた。
ポルトを出るまで、あと二日。
旅の準備をするなら、武器や防具を見るべきだ。
新しい道具も必要になる。
「せっかくなんだから、少しくらい街を見ようよ」
ハルカが言う。
「俺たちは遊びに来たわけじゃない」
「分かってるけど」
「それに、やることがある」
「そっか」
ハルカの声が少しだけ小さくなった。
それだけだった。
それだけなのに。
アニマの胸に、妙な痛みが走る。
ハルカはすぐに笑った。
「じゃあ武器屋行こう!」
「いや」
「え?」
アニマは少し迷った。
そして。
「市場からでいい」
「本当?」
「ああ」
一瞬。
ハルカの顔が明るくなる。
「やった!」
それだけで、先ほどまでの空気が消えた。
アニマは少し呆れる。
だが。
悪くないと思った。
*****
市場には多くの人がいた。
魚。
果物。
見たことのない香辛料。
大陸各地から集められた品々が並んでいる。
「これ美味しそう!」
「何だ、それは」
「分からない!」
「分からないものを食うのか」
「食べてから決める!」
ハルカが屋台へ向かう。
アニマはその後ろを歩いた。
*****
香辛料の効いた焼き魚の串は、初めて食べる味だった。脂がのっていて美味かった。
ハルカは「カレーみたいな味がする」と大興奮だった。かれー、というのはハルカの故郷の料理らしい。
「アニマ!」
息つく間もなく、ハルカが店の前から手を振った。
「ここどうかな?」
「服か」
「そう!」
店先には、様々な服が並んでいた。
「旅用の服も欲しかったんだよね」
「まだ着られるだろう」
「そういう問題じゃないの!」
アニマには分からない。
ハルカは呆れたように笑いながら、アニマへ串を渡し、店の中へ入っていった。
「ちょっと待ってて!」
「ああ」
アニマは店の外に残る。
しばらく壁にもたれていたが、不意に顔を上げた。
「……少し、見てくる」
「え? どこに?」
「さっきの店だ。すぐ戻る」
それだけ言い残し、アニマは近くの裏路地へ向かった。
*****
薄暗い路地。
人通りはない。
アニマは数歩進み――立ち止まった。
次の瞬間。
アニマの姿が消えた。
「――っ!?」
背後。
男が息を呑む。
気づいた時には、首筋に冷たい刃が触れていた。
「動くな」
ショートソード。
アニマの声は低い。
「質問に答えろ」
男の身体が硬直した。
「誰の命令だ」
「……」
「何をしに来た」
沈黙。
アニマは剣をわずかに押し当てる。
「答えろ」
男の口元が歪んだ。
「……裏切り者が」
その言葉に。
アニマの目が微かに見開かれる。
「お前、ヴェイドの――」
男が奥歯を噛んだ。
「待――」
遅かった。
男の身体が激しく痙攣する。
口から血が流れた。
「毒か」
アニマは剣を離し、男の身体を支える。
男は地面へ崩れ落ちた。
数度。
身体が震える。
そして、動かなくなった。
*****
アニマは死体を見下ろした。
「……」
ヴェイド王国。
間違いない。
自分が生きていることを知った者がいる。
そして、自分はまだ本名のまま行動していた。
「……愚かだった」
小さく呟く。
戦場では、名を隠す必要などなかった。
むしろ。
アニマという名を知られることは、武器ですらあった。
だが、今は違う。
自分は追われる側だ。
これから先は、目立つ行動も、本名を名乗ることも、考えなければならない。
最初から気づいていた。
街を歩き始めてからずっと。
一定の距離を保ち、自分たちを追っていた気配に。
気づかないふりをしていた。
相手が誰なのか。
何を目的にしているのか。
知るために。
だが、結局は何も聞き出せなかった。
アニマは一度、深く息を吐く。
そして、死体から離れた。
*****
「遅い!」
店へ戻ると、ハルカが頬を膨らませていた。
「どこ行ってたの?」
「少し周囲を見ていた」
「もう」
ハルカはすぐに怒るのをやめた。
「見て!」
くるりと回る。
先ほどとは違う服を着ていた。
「どう?」
アニマは少し黙った。
「……ヒラヒラしていて、動きにくそうだ」
「それだけ?」
「……似合ってる、と思う」
ハルカが笑う。
「へへ。ありがとう」
何も知らない。
さっきまで。
自分のすぐ近くに、ヴェイド王国の間者がいたことも。
その男が死んだことも。
そして。
自分が今後、追われる可能性があることも。
アニマはハルカを見る。
もし、ヴェイド王国に追われることになったら。
このまま一緒にいるわけにはいかない。
ハルカを巻き込むわけにはいかない。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「……」
それでも。
今はまだ言わない。
アニマは笑うハルカの横を歩いた。
*****
三日後。
護衛依頼の当日。
相変わらず、早朝から騒がしいポルトの街。
西の都ウエスタンへ向かう荷馬車。
その前には、リーフたちの姿があった。
リーフ。
アルク。
そして護衛のエルフ。
アニマとハルカが近づく。
「待たせた」
「さっき来た所よ」
リーフが答える。
全員。
準備はできている。
「じゃあ」
ハルカが言った。
「行こうか」
アニマは、遠くを見る。
西。
そして、そのはるか先。
ヴェイド王国。
戦争を止める。
そのために強くなる。
だが。
自分を追う者が、すでに現れ始めている。
この旅は、思っていたよりも、長くなるかもしれなかった。
アニマは何も言わず。
西へ続く道へ、一歩を踏み出した。




