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獣の英雄  作者: 四茶
第一章『掌に残るもの』
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3.船出

 夜明け前の浜辺に、波の音だけが響いていた。

 アニマは流木を縄で縛りながら、何度目かの結び目を締め直す。


「……これでいいか」


 即席の筏だった。

 大剣はない。荷物も少ない。


 水平線の向こうに大陸があることは分かっていた。

 なら、進めばいつか辿り着く。

 単純な話だ。


「全然よくない」


 背後から呆れた声が飛んだ。

 振り返ると、ハルカが腰に手を当てて立っていた。


「……起きてたのか」

「そりゃ起きてるよ。まだ海で何してるのかなと思ったら、まさか本当に筏で出るつもり?」


 アニマは縄を引っ張りながら答える。


「浮かべば進める」

「沈むよ」

「沈んだら泳ぐ」

「大陸まで?」


 ハルカは額を押さえた。


「君、英雄っていうより野生動物だよね」


 アニマは少し考えてから頷く。


「獣だからな」

「そういうことじゃない!」


 波打ち際まで歩いてきたハルカは、筏を一瞥して深いため息をついた。


「毎週、大陸行きの補給船が来るんだよ」

「船?」

「うん。塩と干物を運んで、代わりに布とか薬草とか鉄製品を持ってくるの。今日がちょうどその日」


 アニマは黙った。

 確かに船があるなら、その方が安全だ。

 だが、そんなことを自分は考えもしなかった。


「……早く言え」

「聞かれなかったから」


 ハルカは勝ち誇ったように笑う。


「それに、君が筏を作り始めるとは思わなかった」


 アニマは縄を解き始めた。

 その様子を見て、ハルカが吹き出す。


「素直に解体するんだ」

「無駄なことは嫌いだ。これは薪にする」

「無駄のない無駄な行動だね」


 潮風が二人の髪を揺らした。

 空は少しずつ白み始めている。


 アニマは解いた縄をまとめながら、静かに海を見つめた。


 ここを出る。


 そう決めたはずなのに、胸の奥が少しだけ重かった。


 *****


 補給船に乗っていくという話は、すぐに村中へ広まった。


「本当に行っちまうのか」


 港で網を干していた漁師が声をかけてくる。


「ああ」

「せっかく男手が増えて助かってたんだがなぁ」


 別の漁師が肩をすくめた。


「お前が来てから薪割りが楽でよ」

「荷運びもな」


 次々に声が飛んでくる。


 アニマは困ったように頭を掻いた。

 こんな風に惜しまれることなど、一度もなかった。

 王国では、強さを求められることはあっても、いてほしいと言われたことはない。


「兄ちゃん!」


 子供たちが駆け寄ってくる。


「もう行っちゃうの?」

「大陸って遠い?」

「お土産!」


 口々に話しかけられ、アニマは少しだけ顔をしかめた。


「一人ずつ話せ」


 子供たちは笑う。


 その笑い声を聞いていると、戦場の記憶が遠ざかっていく気がした。

 同時に、ここに長くいてはいけないという思いも強くなる。


 自分は追われる身だ。

 いつか必ず、この静かな村を巻き込む。


 *****


「ちょっと来な」


 昼前、老治癒魔法士に呼び止められた。時折村で出会い、ハルカが師匠と呼んでいた人だ。

 ハルカの家の裏にある小さな作業小屋だった。


 老人は棚の奥を探り、一本の剣を取り出す。


 使い込まれていたが、手入れが行き届いている。


「これは?」

「昔、護衛をやってた頃のショートソードさ」


 アニマは差し出された剣を受け取り、ゆっくりと抜いた。


 短い。

 だが、確かに業物だ。


「……貰えない」

「餞別だよ」


 老人は細い目をアニマに向ける。


「ハルカから話は聞いた。あんた、ずいぶん危ない場所へ行くんだろう」


 アニマは答えなかった。


「人を殺したことのある目をしてる」


 肩がわずかに強張る。


「だが、それだけじゃない。人を助けたいと思ってる奴の目でもある」


 老人は小さく笑った。


「だから貸してやる」

「貸す?」

「生きて帰って返しに来な」


 その言葉に、アニマは一瞬返答を失う。


 帰ってくる。


 そんな未来を、当然のように口にする。


「くたばってたら、墓にでも供えておくれ」


 老人は剣を鞘ごと押し付けるように渡した。


「ハルカを泣かせるんじゃないよ」


 その一言だけは、冗談ではなかった。

 アニマは静かに頷く。

 しばらく剣を見つめ、それから静かに腰へ差した。


「……善処する」

「善処じゃ困るんだけどねぇ」


 老人は苦笑した。


 *****


 午後になると、水平線の向こうに帆船の影が現れた。

 村人たちが港へ集まってくる。


 木造の中型船だった。

 甲板には樽や木箱が積まれ、船員たちが忙しく動き回っている。


「おーい、島の連中! 荷揚げ手伝え!」


 船長らしき男が声を張り上げた。


 アニマも自然と荷運びを手伝う。

 樽を肩に担ぎ、倉庫まで運ぶ。船員たちはその腕力に目を丸くした。


「兄ちゃん、見かけによらずすげぇな」

「鍛えてるだけだ」


 短く答える。


 ハルカはその横で、薬草の箱を受け取っていた。


「二人乗りたいんだけど」

「金は?」


 ハルカは小さな袋を差し出した。

 船長は中を確認し、鼻を鳴らす。


「足りねぇな」

「…貯金できない派なんだよね、私」

「おい」


 ふざけるな、と喉から出かかる。

 ふと、背後から漁師の声が飛んだ。


「足りない分はこっちで出す」

「世話になったからな」

「山賊追っ払ってくれた礼だ」


 次々に硬貨が差し出される。


 アニマは目を見開いた。


「……やめろ。そんな必要はない」

「必要だろうが」

「遠慮すんなよ」


 船長は集まった金を見て肩をすくめる。


「ま、そこまで言うなら乗せてやる」


 こうして、二人の船旅が決まった。


 *****


 出航の前、アニマは布を顔に巻いた。

 黄色い目は隠しきれないが、少なくとも目立ちは減る。


「怪しい」


 ハルカが即座に言う。


「素顔よりマシだ」

「まあ、そうかもしれないけど」


 二人が甲板へ上がると、数人の船員がハルカを見てひそひそ話し始めた。


「珍しい髪だな」

「黒髪なんて初めて見たぞ」


 一人の若い船員が興味深そうに近づいてくる。


「嬢ちゃん、どこの出身だ?」

「遠くだよ。あなたたちが知らないくらい遠いところ」

「へぇ、本当に珍しいな。触って――」

「彼女に触れるな」


 船員は振り返る。

 布で顔を隠したアニマが立っていた。

 その黄色い瞳だけが、冷たく光っている。


 船員は笑いかけたまま、次の瞬間には表情を引きつらせた。


「……悪い、冗談だ」


 それ以上近づこうとはしなかった。


 ハルカは小声で囁く。


「ちょっとピリピリしすぎじゃない?」

「十分優しくした」

「基準が獣なんだよなぁ」


 アニマは聞こえないふりをした。


 *****


 船が岸を離れる。

 村人たちが港から手を振っていた。


「元気でなー!」

「ハルカ、無茶するんじゃないよ!」

「兄ちゃん、また来いよー!」


 子供たちの声が潮風に乗って届く。


 アニマは無意識に手を上げていた。

 それを見て、ハルカが少し驚いた顔をする。


「ちゃんと手を振るんだ」

「……うるさい」


 船はゆっくりと島を遠ざけていく。

 白い砂浜が小さくなり、やがて緑の輪郭だけになる。

 アニマは甲板の縁に立ったまま、その姿を見つめていた。


「帰りたくなった?」


 ハルカが隣に並ぶ。


「そんなことはない」


 即答した。


 だが、その答えが少しだけ早すぎたことに、自分でも気づいていた。


 *****


 船旅は思ったより穏やかだった。


 昼下がり、船員たちが甲板で歌を歌い始めた。

 内容は漁の失敗や酒の話ばかりで、アニマには半分も分からない。


 悪くない気分だった。


 昼は青い海がどこまでも広がり、夜は空いっぱいに星が瞬く。

 ハルカは甲板で星空を見上げながら、子供のようにはしゃいでいた。


「見て、あの星すごい!」

「星くらいどこでも見れる」

「こんな大パノラマ中々ないでしょ」

「ぱのらま?」


 アニマは適当に相槌を打ちながら、周囲を警戒していた。


 夜更け、船員たちが寝静まった頃。

 甲板で毛布をまとったハルカが尋ねる。


「これから、どうするの?」


 アニマは海を見つめたまま答える。


「情報を集める」

「王国の?」

「ああ。戦争がどうなっているのか、フロストが何を考えているのか」

「止めるために?」


 沈黙。


 波が船腹を叩く音だけが聞こえた。


「……分からない」


 正直な答えだった。


 止めたいのか。

 逃げたいだけなのか。

 復讐したいのか。

 自分でもまだ分からない。


 ハルカはそれ以上追及しなかった。


「分からないなら、旅しながら考えればいいよ」


 簡単に言う。


 だが、その言葉は不思議としっくりきた。


 *****


 三日後。


 朝靄の向こうに、大きな港町が姿を現した。


 高い石造りの防波堤。

 何十隻もの帆船。

 倉庫群から立ち上る煙。


 島では見たこともない規模の街だった。


「うわぁ……」


 ハルカが目を輝かせる。


 多様な服装の人々が絶え間なく行き交っている。


 世界は広い。

 島にいた頃より、ずっと広い。


 船が港へ横付けされる。


「着いたぞ、旅人さんたち」


 アニマは荷物を背負い直す。


 腰には、ショートソード。


 ハルカが隣に立つ。


「ここからだね」

「ああ」


 町を見上げる。

 港町ポルト。


 ここには、王国の噂も、戦争の影も、そして自分の知らない世界もある。

 獣の英雄は、もう王国の兵器ではない。

 追われる反逆者でもない。


 少なくとも今だけは。

 自分の足で進む、一人の旅人だった。


 アニマは静かに歩き出す。


 ハルカもその隣に並んだ。


 世界の果ての島を離れた二人の旅は、ここから本当に始まるのだった。

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