3.船出
夜明け前の浜辺に、波の音だけが響いていた。
アニマは流木を縄で縛りながら、何度目かの結び目を締め直す。
「……これでいいか」
即席の筏だった。
大剣はない。荷物も少ない。
水平線の向こうに大陸があることは分かっていた。
なら、進めばいつか辿り着く。
単純な話だ。
「全然よくない」
背後から呆れた声が飛んだ。
振り返ると、ハルカが腰に手を当てて立っていた。
「……起きてたのか」
「そりゃ起きてるよ。まだ海で何してるのかなと思ったら、まさか本当に筏で出るつもり?」
アニマは縄を引っ張りながら答える。
「浮かべば進める」
「沈むよ」
「沈んだら泳ぐ」
「大陸まで?」
ハルカは額を押さえた。
「君、英雄っていうより野生動物だよね」
アニマは少し考えてから頷く。
「獣だからな」
「そういうことじゃない!」
波打ち際まで歩いてきたハルカは、筏を一瞥して深いため息をついた。
「毎週、大陸行きの補給船が来るんだよ」
「船?」
「うん。塩と干物を運んで、代わりに布とか薬草とか鉄製品を持ってくるの。今日がちょうどその日」
アニマは黙った。
確かに船があるなら、その方が安全だ。
だが、そんなことを自分は考えもしなかった。
「……早く言え」
「聞かれなかったから」
ハルカは勝ち誇ったように笑う。
「それに、君が筏を作り始めるとは思わなかった」
アニマは縄を解き始めた。
その様子を見て、ハルカが吹き出す。
「素直に解体するんだ」
「無駄なことは嫌いだ。これは薪にする」
「無駄のない無駄な行動だね」
潮風が二人の髪を揺らした。
空は少しずつ白み始めている。
アニマは解いた縄をまとめながら、静かに海を見つめた。
ここを出る。
そう決めたはずなのに、胸の奥が少しだけ重かった。
*****
補給船に乗っていくという話は、すぐに村中へ広まった。
「本当に行っちまうのか」
港で網を干していた漁師が声をかけてくる。
「ああ」
「せっかく男手が増えて助かってたんだがなぁ」
別の漁師が肩をすくめた。
「お前が来てから薪割りが楽でよ」
「荷運びもな」
次々に声が飛んでくる。
アニマは困ったように頭を掻いた。
こんな風に惜しまれることなど、一度もなかった。
王国では、強さを求められることはあっても、いてほしいと言われたことはない。
「兄ちゃん!」
子供たちが駆け寄ってくる。
「もう行っちゃうの?」
「大陸って遠い?」
「お土産!」
口々に話しかけられ、アニマは少しだけ顔をしかめた。
「一人ずつ話せ」
子供たちは笑う。
その笑い声を聞いていると、戦場の記憶が遠ざかっていく気がした。
同時に、ここに長くいてはいけないという思いも強くなる。
自分は追われる身だ。
いつか必ず、この静かな村を巻き込む。
*****
「ちょっと来な」
昼前、老治癒魔法士に呼び止められた。時折村で出会い、ハルカが師匠と呼んでいた人だ。
ハルカの家の裏にある小さな作業小屋だった。
老人は棚の奥を探り、一本の剣を取り出す。
使い込まれていたが、手入れが行き届いている。
「これは?」
「昔、護衛をやってた頃のショートソードさ」
アニマは差し出された剣を受け取り、ゆっくりと抜いた。
短い。
だが、確かに業物だ。
「……貰えない」
「餞別だよ」
老人は細い目をアニマに向ける。
「ハルカから話は聞いた。あんた、ずいぶん危ない場所へ行くんだろう」
アニマは答えなかった。
「人を殺したことのある目をしてる」
肩がわずかに強張る。
「だが、それだけじゃない。人を助けたいと思ってる奴の目でもある」
老人は小さく笑った。
「だから貸してやる」
「貸す?」
「生きて帰って返しに来な」
その言葉に、アニマは一瞬返答を失う。
帰ってくる。
そんな未来を、当然のように口にする。
「くたばってたら、墓にでも供えておくれ」
老人は剣を鞘ごと押し付けるように渡した。
「ハルカを泣かせるんじゃないよ」
その一言だけは、冗談ではなかった。
アニマは静かに頷く。
しばらく剣を見つめ、それから静かに腰へ差した。
「……善処する」
「善処じゃ困るんだけどねぇ」
老人は苦笑した。
*****
午後になると、水平線の向こうに帆船の影が現れた。
村人たちが港へ集まってくる。
木造の中型船だった。
甲板には樽や木箱が積まれ、船員たちが忙しく動き回っている。
「おーい、島の連中! 荷揚げ手伝え!」
船長らしき男が声を張り上げた。
アニマも自然と荷運びを手伝う。
樽を肩に担ぎ、倉庫まで運ぶ。船員たちはその腕力に目を丸くした。
「兄ちゃん、見かけによらずすげぇな」
「鍛えてるだけだ」
短く答える。
ハルカはその横で、薬草の箱を受け取っていた。
「二人乗りたいんだけど」
「金は?」
ハルカは小さな袋を差し出した。
船長は中を確認し、鼻を鳴らす。
「足りねぇな」
「…貯金できない派なんだよね、私」
「おい」
ふざけるな、と喉から出かかる。
ふと、背後から漁師の声が飛んだ。
「足りない分はこっちで出す」
「世話になったからな」
「山賊追っ払ってくれた礼だ」
次々に硬貨が差し出される。
アニマは目を見開いた。
「……やめろ。そんな必要はない」
「必要だろうが」
「遠慮すんなよ」
船長は集まった金を見て肩をすくめる。
「ま、そこまで言うなら乗せてやる」
こうして、二人の船旅が決まった。
*****
出航の前、アニマは布を顔に巻いた。
黄色い目は隠しきれないが、少なくとも目立ちは減る。
「怪しい」
ハルカが即座に言う。
「素顔よりマシだ」
「まあ、そうかもしれないけど」
二人が甲板へ上がると、数人の船員がハルカを見てひそひそ話し始めた。
「珍しい髪だな」
「黒髪なんて初めて見たぞ」
一人の若い船員が興味深そうに近づいてくる。
「嬢ちゃん、どこの出身だ?」
「遠くだよ。あなたたちが知らないくらい遠いところ」
「へぇ、本当に珍しいな。触って――」
「彼女に触れるな」
船員は振り返る。
布で顔を隠したアニマが立っていた。
その黄色い瞳だけが、冷たく光っている。
船員は笑いかけたまま、次の瞬間には表情を引きつらせた。
「……悪い、冗談だ」
それ以上近づこうとはしなかった。
ハルカは小声で囁く。
「ちょっとピリピリしすぎじゃない?」
「十分優しくした」
「基準が獣なんだよなぁ」
アニマは聞こえないふりをした。
*****
船が岸を離れる。
村人たちが港から手を振っていた。
「元気でなー!」
「ハルカ、無茶するんじゃないよ!」
「兄ちゃん、また来いよー!」
子供たちの声が潮風に乗って届く。
アニマは無意識に手を上げていた。
それを見て、ハルカが少し驚いた顔をする。
「ちゃんと手を振るんだ」
「……うるさい」
船はゆっくりと島を遠ざけていく。
白い砂浜が小さくなり、やがて緑の輪郭だけになる。
アニマは甲板の縁に立ったまま、その姿を見つめていた。
「帰りたくなった?」
ハルカが隣に並ぶ。
「そんなことはない」
即答した。
だが、その答えが少しだけ早すぎたことに、自分でも気づいていた。
*****
船旅は思ったより穏やかだった。
昼下がり、船員たちが甲板で歌を歌い始めた。
内容は漁の失敗や酒の話ばかりで、アニマには半分も分からない。
悪くない気分だった。
昼は青い海がどこまでも広がり、夜は空いっぱいに星が瞬く。
ハルカは甲板で星空を見上げながら、子供のようにはしゃいでいた。
「見て、あの星すごい!」
「星くらいどこでも見れる」
「こんな大パノラマ中々ないでしょ」
「ぱのらま?」
アニマは適当に相槌を打ちながら、周囲を警戒していた。
夜更け、船員たちが寝静まった頃。
甲板で毛布をまとったハルカが尋ねる。
「これから、どうするの?」
アニマは海を見つめたまま答える。
「情報を集める」
「王国の?」
「ああ。戦争がどうなっているのか、フロストが何を考えているのか」
「止めるために?」
沈黙。
波が船腹を叩く音だけが聞こえた。
「……分からない」
正直な答えだった。
止めたいのか。
逃げたいだけなのか。
復讐したいのか。
自分でもまだ分からない。
ハルカはそれ以上追及しなかった。
「分からないなら、旅しながら考えればいいよ」
簡単に言う。
だが、その言葉は不思議としっくりきた。
*****
三日後。
朝靄の向こうに、大きな港町が姿を現した。
高い石造りの防波堤。
何十隻もの帆船。
倉庫群から立ち上る煙。
島では見たこともない規模の街だった。
「うわぁ……」
ハルカが目を輝かせる。
多様な服装の人々が絶え間なく行き交っている。
世界は広い。
島にいた頃より、ずっと広い。
船が港へ横付けされる。
「着いたぞ、旅人さんたち」
アニマは荷物を背負い直す。
腰には、ショートソード。
ハルカが隣に立つ。
「ここからだね」
「ああ」
町を見上げる。
港町ポルト。
ここには、王国の噂も、戦争の影も、そして自分の知らない世界もある。
獣の英雄は、もう王国の兵器ではない。
追われる反逆者でもない。
少なくとも今だけは。
自分の足で進む、一人の旅人だった。
アニマは静かに歩き出す。
ハルカもその隣に並んだ。
世界の果ての島を離れた二人の旅は、ここから本当に始まるのだった。




