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獣の英雄  作者: 四茶
第一章『掌に残るもの』
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2.孤島

 波の音が聞こえた。

 規則的で、静かで、戦場には決して存在しなかった音。


 重い瞼を開くと、木の天井が視界に入る。潮風に揺れる薄い布。乾いた薬草の匂い。


 生きている。


 その事実に、アニマはしばらく気づけなかった。


 体を起こそうとして、全身に激痛が走る。


「――っ」


 右腕には何重もの包帯が巻かれていた。肩から胸にかけても同じだ。包帯の隙間から、金色の毛がわずかに覗いている。


 完全獣化の痕跡。


 喉の奥が冷えた。


「起きた?」


 聞き慣れない少女の声だった。


 振り向くと、黒髪を後ろで束ねた少女が木椀を手に立っていた。年はアニマと同じくらいだろうか。薄い茶色の瞳が、こちらをじっと見ている。


「三日も寝てたんだから、まずは水を飲みなさい」


 差し出された木椀を受け取り、アニマは一気に飲み干した。冷たい水が喉を通っていく。水を飲んだことで渇きを思い出した。


 喉だけではなかった。

 胃の奥が空っぽになっている。最後にまともに食べたのがいつだったのか思い出せない。


 戦場では、空腹は珍しいことではなかった。だが、こうして静かな部屋で感じる空腹は妙に現実的だった。


 ハルカは空になった木椀を見て、小さく笑う。


「その顔なら、ちゃんと生き返りそうだね」


 そう言って、今度は湯気の立つ粥を持ってきた。


 粥の匂いは、戦場の炊き出しを思い出させた。

 戦場では、空腹を紛らわすためにかき込むものだった。

 あの時の粥よりも、不思議と温かかった。


 食べ終わって一息ついてから、質問する。


「……ここは」

「世界の果て、って呼ばれてる島。君はどこから来たの?」


 世界の果て。

 転移魔法陣の光が脳裏に蘇る。


 エルヴァイス。

 最後に聞こえた「またな」という声。


「君、海岸で倒れてたんだよ。金色の毛が生えて、爪がとんがってた」


 少女はさらりと言った。完全獣化の痕跡。

 アニマの指先がわずかに強張る。


「……見たのか」


「見た。正直、すごく怖かった」


 少女は苦笑した。


「でも放っておけなかったから、ここまで運んだ。私はハルカ。この村で治癒魔法士をやってる」


 アニマはしばらく黙り込んだ。


 怖かった。


 その言葉が妙に胸に残る。


 それでも助けた、と彼女は言った。


「……アニマだ」

「うん。よろしく、アニマ」


 そうして暫くハルカの世話になるのだった。


 *****


 数日後、アニマはようやく家の外へ出られるようになり、近所を散策していた。


 小さな漁村だった。


 白い砂浜。潮風に揺れる洗濯物。魚を干す匂い。子供たちの笑い声。


 戦場とはかけ離れた光景。


 浜辺では老人たちが網を繕っていた。

 子供たちは裸足で走り回り、小さな魚を捕まえては歓声を上げている。


「兄ちゃん、見ろ!」


 小さな男の子が手のひらほどの魚を掲げた。

 アニマはぎこちなく頷く。


「……すごいな」

「だろ!」


 少年は満足そうに笑い、仲間のところへ駆けていった。


 たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥が妙にざわつく。


 戦場では、子供は守るものではなく、巻き込まれるものだった。

 笑って走り回る姿を見るだけで、どこか息苦しかった。

 眩しすぎて、落ち着かなかった。


「まだ無理しちゃ駄目だよ」


 魚籠を抱えたハルカが隣に並ぶ。


「無理はしていない」

「そう言う人ほど倒れるんだよね」


 アニマは海を見つめたまま口を開いた。


「俺は、この辺りにいていい人間じゃない」

「どういう意味?」

「戦争を繰り返している大国があるだろう。俺はそこの将だ」


 ハルカは数秒きょとんとした後、吹き出した。


「君が?」

「笑うな」

「だって、そんな遠い国の将が、どうやってこの孤島まで流れ着くの」


 もっともだった。

 アニマ自身、どうやってここへ来たのか説明できない。

 光に呑まれ、気づけば海岸に倒れていた。それだけだ。


「……冗談だ」

「もうちょいマシな冗談にしてよー」


 一息ついて。


「もし本当なら許さないけどね」


 ハルカの声が少しだけ冷たくなる。


「お世話になったこの島にも、あの国のせいで家族を失った人がいる。戦争なんて、やるものじゃないよ」


 ハルカは少し視線を海へ向けた。


「この島にはね、流れ着いてくる人がいるんだ」

「流れ着く?」

「戦争で村を焼かれた人とか、船を失った人とか。治療してると、嫌でも話を聞くことになる」


 その声は怒っているというより、疲れているように聞こえた。


「だから、戦争って言葉が嫌いなんだと思う」


 アニマは答えられない。

 自分がその『嫌いなもの』の中心にいたのだから。


 その言葉は、教会の司祭の声と重なった。


 少年を戦場に送り出す悪魔どもを――。


 アニマは何も言えなかった。


 *****


 療養の合間、アニマは村で情報を集めた。


 酒場の噂話。商人の世間話。漁師たちの愚痴。

 断片的な情報は、嫌でも耳に入ってくる。

 酒場の隅では、漁師たちが王国の噂を肴に酒を飲んでいた。


「また戦争だとよ」

「英雄様は何やってんだか」

「獣の英雄が消えたって話、本当か?」

「本当なら、少しは戦が減るんじゃねえか」


 笑い混じりの会話。


 アニマは木の椅子に座ったまま、握ったコップに力が入る。


 自分が消えたことで戦争が減る。そうであれば、幾分気は楽だったかもしれない。


 王国は新たな国へ宣戦布告した。


 獣の英雄アニマは消息不明。


 壁に貼られた記事には獣の英雄の姿絵が載っていた。

 栗毛。黄色い目。獣の腕と脚。危険極まりない反逆者の姿絵。


 獣化の進んだ自分の姿が、そこにあった。


「ちょっと似てるけど、こんな怖くないよね」


 いつの間にか隣にいたハルカが、姿絵とアニマの顔を見比べるように呟く。


「こんなしょぼくれた奴が獣の英雄なわけないもんな」


 冗談めかした声だった。

 アニマは無言で視線を逸らした。


 *****


 村での生活は、不思議なほど静かだった。


 網を運び、船を押し、薪を割る。

 大剣を振るうより、よほど単純な仕事だ。


 薪を割っていると、背後から声が飛んだ。


「アニマ兄ちゃん、力持ち!」


 振り向くと、子供たちが目を輝かせている。


 アニマが斧を振り下ろすたび、丸太は左右にはじけ飛ぶ。


「もう一回!」

「……見世物じゃない」


 そう言いながらも、次の丸太を置き、斧を振り下ろす。


 乾いた音に、子供たちが歓声を上げた。

 戦場では恐怖の対象だった力が、ここではただ『頼りになる力』として扱われている。


 その事実が、少しだけ居心地を悪くした。


 そんなある日、港に怒号が響いた。


「山賊だ!」


 数人の武装した男たちが村へ押し入ってきた。

 先頭の大男が斧を振り回し、漁師たちを脅している。


「食料と金を出せ! 逆らえば海に沈めるぞ!」


 村人たちは後ずさる。

 ハルカも子供たちを庇うように立っていた。


 アニマはため息をつき、普段と変わらぬ足運びで山賊の前へ向かった。


「なんだクソガキ」


 大男が斧を振り下ろす。


 アニマは片手で、その刃を白刃取った。


「なっ……」


 大男の顔が引きつる。


 アニマはゆっくりと視線を上げた。


 黄色い瞳が細くなる。


 その瞬間。


 山賊たちの空気が変わった。


 殺気ではない。

 もっと根源的な何か。

 絶対に逆らってはいけない存在と遭遇した時の、本能的な恐怖。


 大男の手から斧が零れ落ちる。


「去れ」


 静かな声が響く。

 しかし、アニマの圧倒的な気配に当てられ、誰も動けない。


 アニマが手を鳴らす。

 瞬間、山賊たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


 静寂が戻る。


 村人たちは呆然としていた。


「すご……」


 誰かが呟く。


 ハルカは、黙ってアニマを見つめていた。


 *****


 それから数日。

 村人たちは以前より親しげに話しかけてくるようになった。

 子供たちは「兄ちゃん、魚運んで!」と平気で頼み事をする。

 そのたびにアニマは困った顔をした。


 ここにいてはいけない。

 いつか必ず、迷惑をかける。



 夜明け前。


 アニマは荷物をまとめ、静かに村を出ようとしていた。

 荷物といっても、少しの食糧に方位磁針と地図のみだが。


「やっぱり、行くんだ」


 背後から声がした。


 振り返ると、ハルカが立っている。


「……起きてたのか」

「うん」


 しばらく沈黙が続く。

 波の音だけが聞こえる。


 ハルカはアニマを真っ直ぐ見た。


「ねえ。もう誤魔化さなくていいよ」


 アニマの表情がわずかに固まる。


「実は爪と毛だけじゃないの。最初に見つけた時、君、半分獣になってた」

「……」

「腕も、脚も。姿絵と同じだった。獣の英雄って話、本当なんでしょ?」


 否定する言葉が出なかった。

 長い沈黙の後、アニマは小さく息を吐く。


「ああ。本当だ」


 ハルカは目を閉じた。


「最初は冗談だと思った。でも、もし本当なら許せないとも思った」


 その言葉は、刃のように真っ直ぐだった。


「多くの人を殺したんだよね」

「……ああ」


 教会。少女。血に濡れた床。

 忘れられるはずがない。


「それは許せない」


 ハルカははっきりと言った。

 アニマは視線を落とす。


 だが、続く言葉は予想していたものと違った。


「でも、君はこの村で働いて、山賊から皆を守った」

「そんなもの、殺した命の埋め合わせにはならない」

「うん。ならないよ」


 ハルカは頷いた。


「だから帳消しだなんて言わない。でも、君は戦争を止めようとしてる。違う?」


 アニマは答えられなかった。


 止めたいのか。

 逃げたいだけなのか。

 自分でも分からない。


 ハルカは一歩近づく。


「私は、そんな君を放っておけない」

「やめろ。これはお前が関わっていい話じゃない」

「関わるよ」

「足手まといだ」

「回復魔法が使える」

「死ぬかもしれないぞ」

「だから放っておけないんだよ」


 言葉に詰まった。


 ハルカは小さく笑った。


「それに、私がついていきたいから」


 その言葉だけは、冗談ではなかった。


 アニマは頭を掻き、深くため息をつく。


「……ついてこれなかったら置いていく」

「うん」

「泣いても戻らないからな」

「泣かないよ」


 ハルカはにっと笑った。


 朝日が海の向こうから昇り始める。

 赤い光が波を染めていた。


 アニマは海を見つめる。


 ここは世界の果て。

 だが、その果てで。

 初めて、自分の隣を歩こうとする人間に出会った。


「行くぞ、ハルカ」

「うん、アニマ」


 こうして。


 獣の英雄と、孤島の少女の旅が始まった。

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