2.孤島
波の音が聞こえた。
規則的で、静かで、戦場には決して存在しなかった音。
重い瞼を開くと、木の天井が視界に入る。潮風に揺れる薄い布。乾いた薬草の匂い。
生きている。
その事実に、アニマはしばらく気づけなかった。
体を起こそうとして、全身に激痛が走る。
「――っ」
右腕には何重もの包帯が巻かれていた。肩から胸にかけても同じだ。包帯の隙間から、金色の毛がわずかに覗いている。
完全獣化の痕跡。
喉の奥が冷えた。
「起きた?」
聞き慣れない少女の声だった。
振り向くと、黒髪を後ろで束ねた少女が木椀を手に立っていた。年はアニマと同じくらいだろうか。薄い茶色の瞳が、こちらをじっと見ている。
「三日も寝てたんだから、まずは水を飲みなさい」
差し出された木椀を受け取り、アニマは一気に飲み干した。冷たい水が喉を通っていく。水を飲んだことで渇きを思い出した。
喉だけではなかった。
胃の奥が空っぽになっている。最後にまともに食べたのがいつだったのか思い出せない。
戦場では、空腹は珍しいことではなかった。だが、こうして静かな部屋で感じる空腹は妙に現実的だった。
ハルカは空になった木椀を見て、小さく笑う。
「その顔なら、ちゃんと生き返りそうだね」
そう言って、今度は湯気の立つ粥を持ってきた。
粥の匂いは、戦場の炊き出しを思い出させた。
戦場では、空腹を紛らわすためにかき込むものだった。
あの時の粥よりも、不思議と温かかった。
食べ終わって一息ついてから、質問する。
「……ここは」
「世界の果て、って呼ばれてる島。君はどこから来たの?」
世界の果て。
転移魔法陣の光が脳裏に蘇る。
エルヴァイス。
最後に聞こえた「またな」という声。
「君、海岸で倒れてたんだよ。金色の毛が生えて、爪がとんがってた」
少女はさらりと言った。完全獣化の痕跡。
アニマの指先がわずかに強張る。
「……見たのか」
「見た。正直、すごく怖かった」
少女は苦笑した。
「でも放っておけなかったから、ここまで運んだ。私はハルカ。この村で治癒魔法士をやってる」
アニマはしばらく黙り込んだ。
怖かった。
その言葉が妙に胸に残る。
それでも助けた、と彼女は言った。
「……アニマだ」
「うん。よろしく、アニマ」
そうして暫くハルカの世話になるのだった。
*****
数日後、アニマはようやく家の外へ出られるようになり、近所を散策していた。
小さな漁村だった。
白い砂浜。潮風に揺れる洗濯物。魚を干す匂い。子供たちの笑い声。
戦場とはかけ離れた光景。
浜辺では老人たちが網を繕っていた。
子供たちは裸足で走り回り、小さな魚を捕まえては歓声を上げている。
「兄ちゃん、見ろ!」
小さな男の子が手のひらほどの魚を掲げた。
アニマはぎこちなく頷く。
「……すごいな」
「だろ!」
少年は満足そうに笑い、仲間のところへ駆けていった。
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥が妙にざわつく。
戦場では、子供は守るものではなく、巻き込まれるものだった。
笑って走り回る姿を見るだけで、どこか息苦しかった。
眩しすぎて、落ち着かなかった。
「まだ無理しちゃ駄目だよ」
魚籠を抱えたハルカが隣に並ぶ。
「無理はしていない」
「そう言う人ほど倒れるんだよね」
アニマは海を見つめたまま口を開いた。
「俺は、この辺りにいていい人間じゃない」
「どういう意味?」
「戦争を繰り返している大国があるだろう。俺はそこの将だ」
ハルカは数秒きょとんとした後、吹き出した。
「君が?」
「笑うな」
「だって、そんな遠い国の将が、どうやってこの孤島まで流れ着くの」
もっともだった。
アニマ自身、どうやってここへ来たのか説明できない。
光に呑まれ、気づけば海岸に倒れていた。それだけだ。
「……冗談だ」
「もうちょいマシな冗談にしてよー」
一息ついて。
「もし本当なら許さないけどね」
ハルカの声が少しだけ冷たくなる。
「お世話になったこの島にも、あの国のせいで家族を失った人がいる。戦争なんて、やるものじゃないよ」
ハルカは少し視線を海へ向けた。
「この島にはね、流れ着いてくる人がいるんだ」
「流れ着く?」
「戦争で村を焼かれた人とか、船を失った人とか。治療してると、嫌でも話を聞くことになる」
その声は怒っているというより、疲れているように聞こえた。
「だから、戦争って言葉が嫌いなんだと思う」
アニマは答えられない。
自分がその『嫌いなもの』の中心にいたのだから。
その言葉は、教会の司祭の声と重なった。
少年を戦場に送り出す悪魔どもを――。
アニマは何も言えなかった。
*****
療養の合間、アニマは村で情報を集めた。
酒場の噂話。商人の世間話。漁師たちの愚痴。
断片的な情報は、嫌でも耳に入ってくる。
酒場の隅では、漁師たちが王国の噂を肴に酒を飲んでいた。
「また戦争だとよ」
「英雄様は何やってんだか」
「獣の英雄が消えたって話、本当か?」
「本当なら、少しは戦が減るんじゃねえか」
笑い混じりの会話。
アニマは木の椅子に座ったまま、握ったコップに力が入る。
自分が消えたことで戦争が減る。そうであれば、幾分気は楽だったかもしれない。
王国は新たな国へ宣戦布告した。
獣の英雄アニマは消息不明。
壁に貼られた記事には獣の英雄の姿絵が載っていた。
栗毛。黄色い目。獣の腕と脚。危険極まりない反逆者の姿絵。
獣化の進んだ自分の姿が、そこにあった。
「ちょっと似てるけど、こんな怖くないよね」
いつの間にか隣にいたハルカが、姿絵とアニマの顔を見比べるように呟く。
「こんなしょぼくれた奴が獣の英雄なわけないもんな」
冗談めかした声だった。
アニマは無言で視線を逸らした。
*****
村での生活は、不思議なほど静かだった。
網を運び、船を押し、薪を割る。
大剣を振るうより、よほど単純な仕事だ。
薪を割っていると、背後から声が飛んだ。
「アニマ兄ちゃん、力持ち!」
振り向くと、子供たちが目を輝かせている。
アニマが斧を振り下ろすたび、丸太は左右にはじけ飛ぶ。
「もう一回!」
「……見世物じゃない」
そう言いながらも、次の丸太を置き、斧を振り下ろす。
乾いた音に、子供たちが歓声を上げた。
戦場では恐怖の対象だった力が、ここではただ『頼りになる力』として扱われている。
その事実が、少しだけ居心地を悪くした。
そんなある日、港に怒号が響いた。
「山賊だ!」
数人の武装した男たちが村へ押し入ってきた。
先頭の大男が斧を振り回し、漁師たちを脅している。
「食料と金を出せ! 逆らえば海に沈めるぞ!」
村人たちは後ずさる。
ハルカも子供たちを庇うように立っていた。
アニマはため息をつき、普段と変わらぬ足運びで山賊の前へ向かった。
「なんだクソガキ」
大男が斧を振り下ろす。
アニマは片手で、その刃を白刃取った。
「なっ……」
大男の顔が引きつる。
アニマはゆっくりと視線を上げた。
黄色い瞳が細くなる。
その瞬間。
山賊たちの空気が変わった。
殺気ではない。
もっと根源的な何か。
絶対に逆らってはいけない存在と遭遇した時の、本能的な恐怖。
大男の手から斧が零れ落ちる。
「去れ」
静かな声が響く。
しかし、アニマの圧倒的な気配に当てられ、誰も動けない。
アニマが手を鳴らす。
瞬間、山賊たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
静寂が戻る。
村人たちは呆然としていた。
「すご……」
誰かが呟く。
ハルカは、黙ってアニマを見つめていた。
*****
それから数日。
村人たちは以前より親しげに話しかけてくるようになった。
子供たちは「兄ちゃん、魚運んで!」と平気で頼み事をする。
そのたびにアニマは困った顔をした。
ここにいてはいけない。
いつか必ず、迷惑をかける。
夜明け前。
アニマは荷物をまとめ、静かに村を出ようとしていた。
荷物といっても、少しの食糧に方位磁針と地図のみだが。
「やっぱり、行くんだ」
背後から声がした。
振り返ると、ハルカが立っている。
「……起きてたのか」
「うん」
しばらく沈黙が続く。
波の音だけが聞こえる。
ハルカはアニマを真っ直ぐ見た。
「ねえ。もう誤魔化さなくていいよ」
アニマの表情がわずかに固まる。
「実は爪と毛だけじゃないの。最初に見つけた時、君、半分獣になってた」
「……」
「腕も、脚も。姿絵と同じだった。獣の英雄って話、本当なんでしょ?」
否定する言葉が出なかった。
長い沈黙の後、アニマは小さく息を吐く。
「ああ。本当だ」
ハルカは目を閉じた。
「最初は冗談だと思った。でも、もし本当なら許せないとも思った」
その言葉は、刃のように真っ直ぐだった。
「多くの人を殺したんだよね」
「……ああ」
教会。少女。血に濡れた床。
忘れられるはずがない。
「それは許せない」
ハルカははっきりと言った。
アニマは視線を落とす。
だが、続く言葉は予想していたものと違った。
「でも、君はこの村で働いて、山賊から皆を守った」
「そんなもの、殺した命の埋め合わせにはならない」
「うん。ならないよ」
ハルカは頷いた。
「だから帳消しだなんて言わない。でも、君は戦争を止めようとしてる。違う?」
アニマは答えられなかった。
止めたいのか。
逃げたいだけなのか。
自分でも分からない。
ハルカは一歩近づく。
「私は、そんな君を放っておけない」
「やめろ。これはお前が関わっていい話じゃない」
「関わるよ」
「足手まといだ」
「回復魔法が使える」
「死ぬかもしれないぞ」
「だから放っておけないんだよ」
言葉に詰まった。
ハルカは小さく笑った。
「それに、私がついていきたいから」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
アニマは頭を掻き、深くため息をつく。
「……ついてこれなかったら置いていく」
「うん」
「泣いても戻らないからな」
「泣かないよ」
ハルカはにっと笑った。
朝日が海の向こうから昇り始める。
赤い光が波を染めていた。
アニマは海を見つめる。
ここは世界の果て。
だが、その果てで。
初めて、自分の隣を歩こうとする人間に出会った。
「行くぞ、ハルカ」
「うん、アニマ」
こうして。
獣の英雄と、孤島の少女の旅が始まった。




