1.離反
これは、私が愛した、不器用で誰よりも優しかったある『獣』の物語だ。
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まさに地獄だった。
飛び交う矢、火炎、雷鳴、悲鳴。焼けた肉の臭いが風に乗り、魔力と憎悪の渦の中から魔物が生まれては、戦火に呑まれて消えていく。
その繰り返し。
短い栗毛に黄色い目をした少年――アニマは、大剣を構えたまま戦場を駆けていた。
迫る矢を剣の腹で逸らし、火炎を風圧で吹き散らし、雷撃は獣化した右腕で受け止める。
身の丈ほどもある大剣が、信じられない速度で振るわれるたび、敵兵は鎧ごと叩き潰され、血と肉片になって吹き飛んだ。
「おお、流石は獣の英雄!」
「皆の衆、アニマ殿に続けぇ!」
背後では味方兵が歓声を上げていた。
だが、その声の合間に混じる断末魔の方が、アニマの耳には鮮明だった。
剣を振るうたび、肉が裂け、骨が砕ける感触が残る。
英雄。
そう呼ばれるたびに、その言葉の意味が分からなくなっていく。
その進路を塞ぐように、一人の大男が立ちはだかった。
「我こそは岩の英――」
名乗りが終わるより早く、アニマの大剣が振り下ろされる。
轟音。
だが刃は、男の『岩の拳』に受け止められていた。
想定以上の衝撃に岩の英雄は驚愕する。
アニマは刃こぼれした大剣を一瞬で見限り、迷わず投げ捨てた。次の瞬間には、距離を詰めて素手で殴りかかっている。岩の鎧は僅かに砕けたが、アニマの拳からは血が噴き出した。砕けた岩片が頬を裂き、視界が赤く染まる。 それでもアニマは止まらなかった。
打撃に織り交ぜられる岩石弾が直撃し、獣の英雄の体勢が崩れる。
岩の英雄が勝利を確信し油断した、その瞬間。
獣の一撃が顎を打ち抜いた。
前腕だけだった獣化は、肩、胸、脚へと広がっている。黄色い瞳が獣の光を帯び、倒れざま放たれた蹴りが顔面を覆う岩の鎧ごと意識を砕き散らした。
倒れた英雄は、二度と立ち上がらなかった。
静かになったはずなのに、耳の奥ではまだ獣が吠えている。
喉の奥から漏れそうになる咆哮を、アニマは歯を食いしばって押し殺した。
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「相変わらず辛そうだな」
銀髪で糸目の男、魔の英雄エルヴァイスがいつの間にか傍に立っていた。
アニマはうずくまり、荒い呼吸を繰り返している。
進みすぎた獣化の副作用――破壊衝動。
理性を保つだけで精一杯だった。
「うる、さい……エルヴァイス。さっさとやってくれ」
「はいはい。私は楽でいいが、君はもう少し戦い方を考えたほうがいい」
呆れたように肩を竦め、エルヴァイスは睡眠魔法をかける。
視界が暗く沈み、アニマは何度目かも分からない悪夢へ落ちていった。
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目を覚ますと、戦場の簡素なテントの中だった。
上体を起こし、両手を握る。
傷はまだ痛むが、動ける。
テントの外は、戦場にしては明るい雰囲気だ。
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
戦争は終わっていない。
一つの戦が終わっただけだ。
「おはよう。君が将を討ち取ったおかげで戦は一旦終わった。悪いが、残党処理を頼みたい」
老軍医の声に、アニマは短く頷いた。
「動ける。どこだ」
「北側の村があった辺りだ。まだ誰も見回れていない」
少しだけ違和感を覚えたが、遠いのだろうと納得する。
外へ出ると、血と煙の臭いが肺を刺した。
遠くで悲鳴が聞こえる。敵軍のものであってほしいと思った。
戦場の端に近づくにつれ、人影は消えていく。
途中、崩れた井戸のそばで若い兵士が座り込んでいた。
吐瀉物にまみれた顔で、震える手を押さえている。
「初陣か」
アニマが声を掛けると、兵士は青ざめた顔で頷いた。
「英雄殿は……怖くないんですか」
怖い。
喉まで出かかった言葉を、アニマは飲み込んだ。
自分だって、この戦が始まる前は震えていた。
ただ、剣を振るっている間だけ、それを忘れられるだけだった。
半壊した村。
焼け落ちた家々。
逃げ遅れた住民たち。
立ち向かってきた者たちを、自分が斬ったことを、アニマは覚えていた。
瓦礫の間に、血の跡が続いている。
その先は、小さな教会だった。
中を覗くと、一人の老人が倒れていた。
司祭の衣を纏っている。
死体のように見えたが、かすかに呼吸していた。
アニマは近づき、静かに問いかける。
「……言い残すことはあるか」
老人は焦点の合わない目を、わずかにこちらへ向けた。
「ああ……神よ……」
血に濡れた手が震えながら持ち上がる。
「少年をも戦場に送り出す悪魔どもを……どうか……」
その手が、アニマの頬に触れた。
責めるでもなく、怯えるでもなく。
ただ、哀れむように。
心臓が大きく跳ねた。
老人は、そのまま静かに息を引き取る。
アニマは動けなかった。
耳鳴りだけが、いつまでも頭の奥で鳴り続けていた。
気づけば、頬に触れられた場所を何度も指で擦っていた。
血でも泥でもない。
あの老人の手の温度だけが、どうしても消えてくれなかった。
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馬車の車輪が泥を軋ませる。
窓の外には、焼け跡から立ち上る煙がまだ見えていた。
勝ったはずなのに、胸の奥は少しも軽くならない。
右手を見つめる。
乾いた血が爪の間に残っていた。
「アニマ、妙なことを考えるなよ」
帰国の馬車の中で、エルヴァイスが不意に言った。
「……何の話だ」
「王に斬りかかりそうな顔をしている」
冗談だと思った。
だが、笑えなかった。
王とは昔からの付き合いだ。
孤児だった自分を王宮に置き、共に育った幼馴染。
エルヴァイスよりずっと信頼している。
「自分の心配でもしてろ。胡散臭い顔しやがって」
「生まれつきだ。失礼な奴だな」
窓の外に王宮が見えてくる。
ヴェイド王国。
その姿を見た瞬間、アニマは無意識に考えていた。
――攻めるなら、どこから崩す。
自分でも、その発想にぞっとした。
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玉座の間には冷気が充満していた。
そこに座る男を見て、アニマは一瞬だけ昔を思い出す。
雪の中で剣を振って笑っていた少年。
『いつか二人で王を助けよう』
そう語っていた、氷の英雄フロスト。
だが今、病によって崩御された風の王の代わりに、玉座にいるのは氷の王だった。
「魔の英雄エルヴァイス、獣の英雄アニマ、戦果の報告に参りました」
「許す」
淡々と戦果が報告されていく。
都市の名。
将の名。
討ち取った人数。
そのたびに、教会の老人の顔が脳裏に浮かんだ。
気づけば、アニマは一歩前へ出ていた。
「発言の許可を、氷の王フロスト・ヴェイド」
周囲の兵がざわめく。
「良い」
空気が凍りつく。
吐いた息が白く染まる。
周囲の兵士たちは顔色を変え、無意識に後ずさっている。
床に霜が広がり、足裏が張り付き始めた。
「戦争を……やめないか」
静寂。
「アニマ、お前――」
「発言の許可を」
エルヴァイスが口を挟んだ。
フロストの瞳が細められる。
「許す」
「彼は先の戦で岩の英雄を討ち取った功労者です。しかし、この発言を見逃すわけにはいきません。私が性根を叩き直しておきます」
長い沈黙の後、フロストは言った。
「……そうしろ。次に同じ言葉を口にした時は、英雄であっても氷像に変えてやる」
「ハッ」
エルヴァイスの視線が痛かった。
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訓練場。
ここは昔、エルヴァイスに戦い方を教わった場所だった。
転んでは笑われ、何度も立ち上がった。
一度も勝てたことはない。
エルヴァイスの拳が、アニマの顔面に突き刺さり、吹き飛ぶ。
「王の御前で何を言っているんだ」
「……わかってる」
「英雄であるお前がそんなことを言えば、国が割れる」
「わかってる」
「短慮が過ぎるぞ」
「わかってる!」
アニマは叫び、飛びかかった。
だが半身でかわされる。
「それでも、もう嫌なんだ」
息が荒れる。
「あの村が燃える前の景色を、覚えてる」
一瞬、言葉に詰まる。
「……あの司祭は、俺が殺した女の子のそばにいた」
沈黙。
心拍が跳ね上がる。
両腕に獣の力が宿り、筋肉が膨れ上がる。
エルヴァイスの眉がわずかに寄った。
「俺と戦って、その後どうする」
「負けた後の話を気にする必要はない」
「昔より口は上手くなったな」
全身に魔力を巡らせる。
「口だけじゃない」
五感が研ぎ澄まされる。
魔法が音速で飛来し、アニマは避け、受け、距離を詰める。
拳がぶつかる。
電撃が走る。
視界が白く弾けた。
「……まだ足りない」
体が硬直するが、無理やり動かしエルヴァイスを引かせる。
このままでは、万に一つも勝ち目はない。
なら、万に一つを作るしかない。
「アニマ、お前――」
「じゃあな」
完全獣化。
理性を引き換えに、神がかり的な力を得る禁忌。
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獣の咆哮が訓練場を震わせた。
そこにいたのは、もはや少年ではない。
金色の毛並みを纏った異形。
純粋な暴力そのものだった。
エルヴァイスは即座に後退し、強化魔法を重ねる。
「俺だって、戦争が好きなわけじゃない」
獣は聞いていない。
大地を砕きながら迫る。
受ければ死ぬ。
だからエルヴァイスは、あらかじめ刻んでおいた魔法陣へ誘い込んだ。
蒼白い光が爆ぜる。
拘束。
吸魔。
転移。
三重術式が同時に発動した。
獣が咆哮を上げる。
拘束が軋む。
だが光はさらに強くなっていく。
「……またな」
次の瞬間、光が弾けた。
そこにアニマの姿はなかった。
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「報告します。獣の英雄アニマが乱心、交戦の末消息不明となりました。生死は確認できていません」
エルヴァイスは王不在の王の間にて淡々と告げた。
大臣が青ざめる気配を背後に感じる。
王国一の苦労人に、心の中でだけ謝罪した。
私には、私のやるべきことがある。
そうして。
獣の英雄アニマは、この日を境に消息を絶った。
よろしくお願いします。




