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獣の英雄  作者: 四茶
第二章『力を求める者たち』
25/27

22.使い魔

 少年が、右手を持ち上げた。


 肘を曲げ、指を開く。

 途中で止めていた腕が、今度は頭の上まで上がった。


「痛くない」


 自分の手を見つめたまま、もう一度言った。


「痛くないよ」

「よかった。でも、今日は振り回したりしないでね」


 ハルカが言い終わる前に、少年は両手を振り上げかけた。

 院長に見られていることに気づき、そろそろと下ろす。


 アニマは、使い終わった布を桶へ戻した。


 扉の脇で、ロジェが帳面を閉じる。


「何を書いていた」

「治療を終えた方のお名前と、注意することを。世話をする者にも伝えなければなりませんので」


 開き直された頁には、少年の名前らしい文字があった。

 その下に、今日一日は腕を休ませること、とある。


 アニマはハルカを見た。

 彼女が頷いたので、それ以上は聞かなかった。


*****


 孤児院を出てから、さらに三か所を回った。


 住み込みの働き手が暮らす寮。

 商会の宿舎。

 最後は、仕事へ出る前の奴隷たちが暮らしている建物だった。


 移動する間も、街の人通りは絶えなかった。


「見ない顔だな。どこから来たんだ?」


 ハルカの横へ、男が並んだ。


 返事を待たず、顔を覗き込もうとする。

 アニマが間へ入ると、男は不満そうに口を曲げた。


「別に、話くらい――」


 目を合わせた。


 男の口が閉じる。

 肩越しに背中の剣を見てから、人混みへ戻っていった。


 別の通りでは、すれ違いざまに手が伸びてきた。


 ハルカの腰の袋へ。


 アニマが顔を向けると、指が止まった。

 痩せた若者だった。


 一歩、そちらへ踏み出す。


 若者は空の両手を見せ、何か言いながら後ずさった。すぐに荷車の向こうへ消える。


「……何?」

「袋を前へ回しておけ」


 ハルカが腰へ手をやった。

 口紐を確かめ、袋を腹の方へ寄せる。


「ありがとう」


 アニマはその隣へ戻った。


 ロジェは少し先で待っていた。


「流石ですね」

「案内を続けてくれ」

「ええ。次は、あちらです」


 白い手袋が、通りの向こうを示した。


 建物の中でも、ハルカへ軽口を叩く者はいた。

 治療の必要もないのに手を握ろうとした男も、アニマを見ると大人しくなった。


 だが、それ以外は拍子抜けするほど何も起きなかった。


 鍵のかかった檻はなかった。

 ハルカが手を近づけても、殴られると思って身を縮める者はいない。


 手首を痛めた女は、治療の間じゅう、同室の者のいびきがうるさいとこぼしていた。


「部屋を替えてくれって、前から言ってるんですけどね」

「空きが出ましたら、とお答えしたはずですが」


 ロジェが言う。


「その空きが出ないんですよ」


 女は遠慮なく言い返した。

 近くで順番を待っていた男が笑う。


 食事にもう少し肉が欲しい。

 休みを増やしてほしい。

 働く場所が遠い。


 不満を口にする者は、いくらでもいた。


「ここを出たいとは思わないのか」


 ハルカが次の患者を診ている間に、アニマは足へ布を巻いた男へ尋ねた。


「そりゃ、思うさ」


 男は即答した。


「あと二年。帳面の勘定がなくなりゃ、好きな仕事を探せる」

「二年は、ここにいるのか」

「契約だからな。勝手に出ていくわけにはいかんよ」


 男は伸ばしていた足を、ゆっくり引き寄せた。

 先ほどよりも深く曲がる膝を見て、口元を緩める。


「まあ、あの人は約束した分より多く取り立てようとはしない。そこは信用してる」

「ヴァレリオか」

「ああ。前の働き口じゃ、どれだけ引かれたのかも分からんからな」


 ロジェは廊下にいた。

 男の声が届く距離ではなかった。


「お前さん、ヴァレリオさんに雇われたんだろう?」

「今日の仕事だけだ」

「あの人は懐の広い方だ。報酬のことで遠慮することはないぞ」


 男が笑った。


 アニマは返事をせず、部屋を見回した。


 窓辺には、縫いかけの服が置かれている。

 寝台の下には、何冊か本が重ねてあった。


 ウエスタンの倉庫で聞いた鎖の音は、しなかった。


 同じ奴隷という言葉で呼ばれている。


 それでも、ここで暮らしている者たちを、あの檻の中へ重ねることはできなかった。


*****


 ヴァレリオの屋敷へ戻った頃には、窓から差す光が傾いていた。


「お疲れ様。随分と回ってくれたのね」


 机の上の書類を脇へ寄せ、ヴァレリオが二人を見る。


 ハルカは、診た者たちのことを順に話した。

 傷の具合。

 しばらく力仕事を避けてほしい者。

 また様子を見た方がよい者。


 ロジェが帳面を開き、時折、名前を補った。


「分かったわ。仕事の方は調整させる」

「お願いします。痛くなくなっても、すぐに無理をさせないように」


 ハルカが頷いた。


「あなたは、どうだった?」


 アニマを見てヴァレリオが尋ねる。


「問題はなかった」

「そう。それはよかったわ」


 それで話を終えようとするので、アニマは少し迷った。


 ここへ来るまで、あのような檻があると思っていた。

 食事と寝床を与えるという話も、働かせるための口実でしかないのだと。


 実際に見た者たちは、腹を立てたり、笑ったりしていた。

 二年後の仕事を考えている男もいた。


 知らないまま、決めていた。


「……グランツ商会とは、違った」


 ヴァレリオの手が、書類の上で止まった。


「ええ。あんなのと一緒にされたら困るわね」

「だが、人を売り買いすること自体、いいと思ったわけじゃない」


 赤い唇が、僅かに上がる。


「正したければ、一国の王にでもなることね」


 ヴァレリオは返事を待たず、机の端にあった紙を取った。


「約束の鉱石は、ガレンの工房へ届けてあるわ。受け取りも済んでいる。帰りに確かめてちょうだい」

「早いな」

「欲しかったんでしょう?」


 アニマは頷いた。


「ああ。助かる」


 少なくとも、交わした約束は守る男らしい。


*****


 ガレン工房には、まだ槌の音が響いていた。


 顔を見せると、ガレンは挨拶より先に奥へ顎を向けた。


「よくあんな量譲ってもらえたな」


 作業台の上に、木箱が置かれている。

 蓋を開けると、黒い石の割れ目に青い筋が見えた。


「これで足りるのか」

「十分だ。質もいい」


 太い指が、一つを持ち上げる。


「あの気持ち悪い話し方の男の倉庫に眠ってたとはな。こっちが探してる時には、何も言わねえくせに」


 ガレンは石を戻し、前に寸法を書いた板を引き寄せた。


「さて。細けえところを詰めるぞ」


 アニマは背中の大剣を下ろした。


 長さは、これより僅かに長く。

 柄は両手で握っても余裕があるように。

 飾りは要らない。


「鍔は、あまり広げないでくれ」

「邪魔になるか」

「引っかかる」


 ガレンが板へ線を引く。

 アニマは手を添え、欲しい長さを示した。


「刃だけじゃなく、握りも頼む」

「分かってる。あんなもん見せられて、忘れるかよ」


 棚の上には、指の形に潰れた試作の剣が置かれていた。


 ガレンは柄の線を太くなぞり、剣全体の形を描き直した。


「鞘から抜く時はどうだ。背負うなら、長くした分も考えにゃならん」


 今の剣で、何度か抜く動きを確かめる。

 帯の位置を変えられ、もう一度。


 最後にガレンが頷いた。


「よし。これで進める」

「いつできる」

「ひと月ほど見とけ」


 思っていたより、長かった。


 アニマが口を開く前に、ガレンは壁際を指した。

 木の札が、いくつも掛かっていた。


「全部、先に受けた仕事だ。直さにゃ仕事へ出られねえ奴もいる。リーフの紹介だからって、順番は飛ばせねえぞ」

「……分かった」


 アニマは大剣を鞘へ戻した。


「これを使って待つ」

「そうしろ。早めに終わった時は、宿へ知らせをやる」


 泊まっている宿の名を伝えると、ガレンは板の隅へ書き足した。


 用は済んだ。

 ハルカと入口へ向かいかけたところで、後ろから声がした。


「そういや、リーフの嬢ちゃんから手紙が届いてたぞ」


 振り返る。


「俺にか?」

「ああ、お前さん宛てだとさ。渡すよう頼まれてたんだった」


 ガレンは棚の引き出しを開けた。

 帳面の下から封書を取り出し、差し出す。


「あぶねえあぶねえ、また忘れるところだったぜ」


 表には、アニマの名が書かれていた。


 ハルカが隣へ寄る。


「リーフさんからか、何だろう」


 アニマは封を開いた。


*****


 宿へ戻ってからも、アニマは同じ箇所を読み返していた。


 ドロシー。


 リーフがかつて通っていたセントラル魔法女学園に、その名の魔法使いがいるという。


 卒業してからも、研究者として学園内に残ることを許された天才。

 魔力の扱いに長け、いくつもの論文を書いている。


『あなたの力は普通の魔法とは違うけれど、魔力を扱うという点から、魔法に詳しい人なら何か分かるかもしれない』


 アニマは、その一文へ指を置いた。


 リーフは、自分たちがウエスタンを離れた後も考えてくれていた。


「会えれば、何か聞けるかもしれないね」


 ハルカが向かいに座った。

 湯気の立つ器を、机へ二つ置く。


「ああ」


 だが、手紙の続きは簡単な話ではなかった。


 ドロシーの研究は、学園の外へ出せないものも多い。

 外部から面会を申し込んでも、身元と目的を調べられたうえで、断られることが珍しくないらしい。


 リーフの名を出せば会える、という相手ではなかった。


 加えて、男性をひどく恐れる。

 そのため、学園から出ることも滅多にないという。


「……男が、怖いのか」


 理由は書かれていなかった。


 アニマは紙の先へ目を移した。


『学園の生徒なら、教えを請う機会はあるはずよ。外から呼び出そうとするより、入学して会いに行く方が可能性は高いと思う』


 その下に、入学について問い合わせる先と、学園までの道順が記されていた。


「女学園だよね」

「ああ」

「じゃあ、私か」


 ハルカは手紙を覗き込み、少し考えた。


「入れるかどうか、聞いてみようか」


 言い方が軽かった。

 近くの店を覗くような調子だった。


「簡単に言うな」

「試験とかがあるなら、受けてみないと分からないし」

「そういう話じゃない」


 聞きたいことがあるのは、自分だ。


 力を引き出す時の感覚。

 戻れなくなる境界。

 意識を失った、その時体に何が起きているのか。


 ハルカに言葉を預けるだけで、伝わるだろうか。

 答えを持ち帰ってもらって、また尋ねてもらうのか。


 それに。


「一人では行かせられない」


 ハルカが顔を上げた。


「学園だよ?」

「知らない場所だ」

「ちょっと過保護過ぎない?」


 ハルカはなぜか少し嬉しそうに言う。

 アニマは口を閉じた。

 

 ハルカが、手紙を自分の方へ引く。


「私も、一緒に話を聞けた方がいいと思う。でも、男の人が入れないなら仕方なくない?」


 紙の端を押さえながら、文字を追っている。


 アニマは自分の手を見た。


 方法が、ないわけではなかった。


 考えたくなかっただけだ。


「……人の姿でなければ」

「え?」


 顔を上げられた。


 言ってから、少し後悔した。


「獣の姿になれば、一緒に入れるかもしれない」


 ハルカの表情が変わった。


「それ、大丈夫なの?」

「あの時のとは違う」


 すぐに言った。


 彼女の手が、紙から離れていた。


「力を出さずに、姿だけ変えることはできる。意識もなくならない」

「……そんなこと、できたの?」

「ああ」

「初めて聞いた」


 アニマは指を曲げた。

 何も変えていないのに、もう窮屈な気がした。


「好きじゃない」

「どうして?」

「力を押し込めたまま、形だけ変えるからだ。ずっと、身体に合わない服を着ているような感じがする」


 普通なら、獣の姿に力を伴わせる。

 そうせずに留めておくには、内側から広がろうとするものを押さえ続けなければならない。


「痛いの?」

「痛くはない。ただ、窮屈だ」


 ハルカは黙ってこちらを見ていた。


「無理をするくらいなら、別の方法を――」

「できないわけじゃない」


 アニマは手紙へ目を戻した。


 ドロシー。

 力の制御。


 今のところ、他に頼れる相手はいない。


「お前の使い魔ということにすればいい」


 ハルカが瞬いた。


「私の?」

「他に誰がいる」

「……そっか。使い魔」


 彼女はもう一度、そう呟いた。


 さっきまで寄っていた眉が、少しずつ戻る。

 アニマの頭から肩へ、何か確かめるように目が動いた。


「どんな姿になるの?」


 思っていたより、声が弾んでいた。


*****


 戸の鍵を確かめ、窓の幕を閉じた。


 アニマは大剣を寝台へ立てかける。

 仮面を外し、上着を脱いだところで、ハルカがまだこちらを見ていることに気づいた。


「向こうを向いていてくれ」

「あ、ごめん」


 彼女が慌てて背を向ける。


 身につけていたものを外し、寝台の陰へ置いた。

 片手を床につく。


 力を引き出す時とは、違った。


 奥へ押さえる。

 そのまま、身体の輪郭を変えていく。


 肩が沈んだ。

 床についた指が太くなり、毛と爪が伸びる。


 広がろうとする力を留めると、胸の内側が詰まったように感じた。

 息はできる。

 だが、思いきり伸びをしたいのに、四方を壁で塞がれているようだった。


 やはり、嫌いだ。


 金色の毛が、腕を覆っていく。


 視線が低くなった。

 さっきまで膝の下にあった寝台の縁が、顔の横にある。


 アニマは四本の足で立ち、床を爪で軽く鳴らした。


「もう、いい?」


 返事の代わりに、もう一度鳴らす。


 ハルカが振り返った。


 そのまま、動かなくなる。


 アニマは彼女を見上げた。


 黄金色の毛。

 首の周りの鬣。

 床へ伸びた尾が、先だけ揺れる。


 椅子を引く音がした。


 ハルカが立ち上がり、目の前へしゃがむ。


「……アニマ?」


 頷いた。


 彼女の口元が緩んだ。


「ライオンっぽい」


 ライオンてなんだ。

 そう言いたかったが、口から出たのは低い喉の音だけだった。


 ハルカは手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「触ってもいい?」


 アニマはその手を見た。

 少し迷い、頭を下げる。


 指が鬣へ入った。


「柔らかい」


 小さな声だった。


 毛並みに沿って、ゆっくり撫でられる。

 治療の時とは違う手つきに落ち着かなくなり、アニマは片方の耳を伏せた。


「あ、ごめん。嫌だった?」


 首を振る。


 ハルカは安心したように笑った。

 手は、離れなかった。


 使い魔を連れて入れるか、まだ確かめていない。

 入学できると決まったわけでもない。


 明日、まずそれを聞きに行く。

 必要なら、この姿にも慣らしておかなければならない。


 アニマが戸の方へ顔を向けると、ハルカの手が首の後ろへ回った。


「一緒に行けるといいね」


 見上げる。


 彼女は、今日いちばん楽しそうな顔をしていた。


 遊びに行くわけじゃないぞ。

 アニマは念を押すつもりで、低く喉を鳴らした。


 ハルカは笑って、もう一度、鬣を撫でた。

Xアカウントを作成しました。更新のお知らせがメインになるかと思います。

→https://x.com/YonsaNarou

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