22.使い魔
少年が、右手を持ち上げた。
肘を曲げ、指を開く。
途中で止めていた腕が、今度は頭の上まで上がった。
「痛くない」
自分の手を見つめたまま、もう一度言った。
「痛くないよ」
「よかった。でも、今日は振り回したりしないでね」
ハルカが言い終わる前に、少年は両手を振り上げかけた。
院長に見られていることに気づき、そろそろと下ろす。
アニマは、使い終わった布を桶へ戻した。
扉の脇で、ロジェが帳面を閉じる。
「何を書いていた」
「治療を終えた方のお名前と、注意することを。世話をする者にも伝えなければなりませんので」
開き直された頁には、少年の名前らしい文字があった。
その下に、今日一日は腕を休ませること、とある。
アニマはハルカを見た。
彼女が頷いたので、それ以上は聞かなかった。
*****
孤児院を出てから、さらに三か所を回った。
住み込みの働き手が暮らす寮。
商会の宿舎。
最後は、仕事へ出る前の奴隷たちが暮らしている建物だった。
移動する間も、街の人通りは絶えなかった。
「見ない顔だな。どこから来たんだ?」
ハルカの横へ、男が並んだ。
返事を待たず、顔を覗き込もうとする。
アニマが間へ入ると、男は不満そうに口を曲げた。
「別に、話くらい――」
目を合わせた。
男の口が閉じる。
肩越しに背中の剣を見てから、人混みへ戻っていった。
別の通りでは、すれ違いざまに手が伸びてきた。
ハルカの腰の袋へ。
アニマが顔を向けると、指が止まった。
痩せた若者だった。
一歩、そちらへ踏み出す。
若者は空の両手を見せ、何か言いながら後ずさった。すぐに荷車の向こうへ消える。
「……何?」
「袋を前へ回しておけ」
ハルカが腰へ手をやった。
口紐を確かめ、袋を腹の方へ寄せる。
「ありがとう」
アニマはその隣へ戻った。
ロジェは少し先で待っていた。
「流石ですね」
「案内を続けてくれ」
「ええ。次は、あちらです」
白い手袋が、通りの向こうを示した。
建物の中でも、ハルカへ軽口を叩く者はいた。
治療の必要もないのに手を握ろうとした男も、アニマを見ると大人しくなった。
だが、それ以外は拍子抜けするほど何も起きなかった。
鍵のかかった檻はなかった。
ハルカが手を近づけても、殴られると思って身を縮める者はいない。
手首を痛めた女は、治療の間じゅう、同室の者のいびきがうるさいとこぼしていた。
「部屋を替えてくれって、前から言ってるんですけどね」
「空きが出ましたら、とお答えしたはずですが」
ロジェが言う。
「その空きが出ないんですよ」
女は遠慮なく言い返した。
近くで順番を待っていた男が笑う。
食事にもう少し肉が欲しい。
休みを増やしてほしい。
働く場所が遠い。
不満を口にする者は、いくらでもいた。
「ここを出たいとは思わないのか」
ハルカが次の患者を診ている間に、アニマは足へ布を巻いた男へ尋ねた。
「そりゃ、思うさ」
男は即答した。
「あと二年。帳面の勘定がなくなりゃ、好きな仕事を探せる」
「二年は、ここにいるのか」
「契約だからな。勝手に出ていくわけにはいかんよ」
男は伸ばしていた足を、ゆっくり引き寄せた。
先ほどよりも深く曲がる膝を見て、口元を緩める。
「まあ、あの人は約束した分より多く取り立てようとはしない。そこは信用してる」
「ヴァレリオか」
「ああ。前の働き口じゃ、どれだけ引かれたのかも分からんからな」
ロジェは廊下にいた。
男の声が届く距離ではなかった。
「お前さん、ヴァレリオさんに雇われたんだろう?」
「今日の仕事だけだ」
「あの人は懐の広い方だ。報酬のことで遠慮することはないぞ」
男が笑った。
アニマは返事をせず、部屋を見回した。
窓辺には、縫いかけの服が置かれている。
寝台の下には、何冊か本が重ねてあった。
ウエスタンの倉庫で聞いた鎖の音は、しなかった。
同じ奴隷という言葉で呼ばれている。
それでも、ここで暮らしている者たちを、あの檻の中へ重ねることはできなかった。
*****
ヴァレリオの屋敷へ戻った頃には、窓から差す光が傾いていた。
「お疲れ様。随分と回ってくれたのね」
机の上の書類を脇へ寄せ、ヴァレリオが二人を見る。
ハルカは、診た者たちのことを順に話した。
傷の具合。
しばらく力仕事を避けてほしい者。
また様子を見た方がよい者。
ロジェが帳面を開き、時折、名前を補った。
「分かったわ。仕事の方は調整させる」
「お願いします。痛くなくなっても、すぐに無理をさせないように」
ハルカが頷いた。
「あなたは、どうだった?」
アニマを見てヴァレリオが尋ねる。
「問題はなかった」
「そう。それはよかったわ」
それで話を終えようとするので、アニマは少し迷った。
ここへ来るまで、あのような檻があると思っていた。
食事と寝床を与えるという話も、働かせるための口実でしかないのだと。
実際に見た者たちは、腹を立てたり、笑ったりしていた。
二年後の仕事を考えている男もいた。
知らないまま、決めていた。
「……グランツ商会とは、違った」
ヴァレリオの手が、書類の上で止まった。
「ええ。あんなのと一緒にされたら困るわね」
「だが、人を売り買いすること自体、いいと思ったわけじゃない」
赤い唇が、僅かに上がる。
「正したければ、一国の王にでもなることね」
ヴァレリオは返事を待たず、机の端にあった紙を取った。
「約束の鉱石は、ガレンの工房へ届けてあるわ。受け取りも済んでいる。帰りに確かめてちょうだい」
「早いな」
「欲しかったんでしょう?」
アニマは頷いた。
「ああ。助かる」
少なくとも、交わした約束は守る男らしい。
*****
ガレン工房には、まだ槌の音が響いていた。
顔を見せると、ガレンは挨拶より先に奥へ顎を向けた。
「よくあんな量譲ってもらえたな」
作業台の上に、木箱が置かれている。
蓋を開けると、黒い石の割れ目に青い筋が見えた。
「これで足りるのか」
「十分だ。質もいい」
太い指が、一つを持ち上げる。
「あの気持ち悪い話し方の男の倉庫に眠ってたとはな。こっちが探してる時には、何も言わねえくせに」
ガレンは石を戻し、前に寸法を書いた板を引き寄せた。
「さて。細けえところを詰めるぞ」
アニマは背中の大剣を下ろした。
長さは、これより僅かに長く。
柄は両手で握っても余裕があるように。
飾りは要らない。
「鍔は、あまり広げないでくれ」
「邪魔になるか」
「引っかかる」
ガレンが板へ線を引く。
アニマは手を添え、欲しい長さを示した。
「刃だけじゃなく、握りも頼む」
「分かってる。あんなもん見せられて、忘れるかよ」
棚の上には、指の形に潰れた試作の剣が置かれていた。
ガレンは柄の線を太くなぞり、剣全体の形を描き直した。
「鞘から抜く時はどうだ。背負うなら、長くした分も考えにゃならん」
今の剣で、何度か抜く動きを確かめる。
帯の位置を変えられ、もう一度。
最後にガレンが頷いた。
「よし。これで進める」
「いつできる」
「ひと月ほど見とけ」
思っていたより、長かった。
アニマが口を開く前に、ガレンは壁際を指した。
木の札が、いくつも掛かっていた。
「全部、先に受けた仕事だ。直さにゃ仕事へ出られねえ奴もいる。リーフの紹介だからって、順番は飛ばせねえぞ」
「……分かった」
アニマは大剣を鞘へ戻した。
「これを使って待つ」
「そうしろ。早めに終わった時は、宿へ知らせをやる」
泊まっている宿の名を伝えると、ガレンは板の隅へ書き足した。
用は済んだ。
ハルカと入口へ向かいかけたところで、後ろから声がした。
「そういや、リーフの嬢ちゃんから手紙が届いてたぞ」
振り返る。
「俺にか?」
「ああ、お前さん宛てだとさ。渡すよう頼まれてたんだった」
ガレンは棚の引き出しを開けた。
帳面の下から封書を取り出し、差し出す。
「あぶねえあぶねえ、また忘れるところだったぜ」
表には、アニマの名が書かれていた。
ハルカが隣へ寄る。
「リーフさんからか、何だろう」
アニマは封を開いた。
*****
宿へ戻ってからも、アニマは同じ箇所を読み返していた。
ドロシー。
リーフがかつて通っていたセントラル魔法女学園に、その名の魔法使いがいるという。
卒業してからも、研究者として学園内に残ることを許された天才。
魔力の扱いに長け、いくつもの論文を書いている。
『あなたの力は普通の魔法とは違うけれど、魔力を扱うという点から、魔法に詳しい人なら何か分かるかもしれない』
アニマは、その一文へ指を置いた。
リーフは、自分たちがウエスタンを離れた後も考えてくれていた。
「会えれば、何か聞けるかもしれないね」
ハルカが向かいに座った。
湯気の立つ器を、机へ二つ置く。
「ああ」
だが、手紙の続きは簡単な話ではなかった。
ドロシーの研究は、学園の外へ出せないものも多い。
外部から面会を申し込んでも、身元と目的を調べられたうえで、断られることが珍しくないらしい。
リーフの名を出せば会える、という相手ではなかった。
加えて、男性をひどく恐れる。
そのため、学園から出ることも滅多にないという。
「……男が、怖いのか」
理由は書かれていなかった。
アニマは紙の先へ目を移した。
『学園の生徒なら、教えを請う機会はあるはずよ。外から呼び出そうとするより、入学して会いに行く方が可能性は高いと思う』
その下に、入学について問い合わせる先と、学園までの道順が記されていた。
「女学園だよね」
「ああ」
「じゃあ、私か」
ハルカは手紙を覗き込み、少し考えた。
「入れるかどうか、聞いてみようか」
言い方が軽かった。
近くの店を覗くような調子だった。
「簡単に言うな」
「試験とかがあるなら、受けてみないと分からないし」
「そういう話じゃない」
聞きたいことがあるのは、自分だ。
力を引き出す時の感覚。
戻れなくなる境界。
意識を失った、その時体に何が起きているのか。
ハルカに言葉を預けるだけで、伝わるだろうか。
答えを持ち帰ってもらって、また尋ねてもらうのか。
それに。
「一人では行かせられない」
ハルカが顔を上げた。
「学園だよ?」
「知らない場所だ」
「ちょっと過保護過ぎない?」
ハルカはなぜか少し嬉しそうに言う。
アニマは口を閉じた。
ハルカが、手紙を自分の方へ引く。
「私も、一緒に話を聞けた方がいいと思う。でも、男の人が入れないなら仕方なくない?」
紙の端を押さえながら、文字を追っている。
アニマは自分の手を見た。
方法が、ないわけではなかった。
考えたくなかっただけだ。
「……人の姿でなければ」
「え?」
顔を上げられた。
言ってから、少し後悔した。
「獣の姿になれば、一緒に入れるかもしれない」
ハルカの表情が変わった。
「それ、大丈夫なの?」
「あの時のとは違う」
すぐに言った。
彼女の手が、紙から離れていた。
「力を出さずに、姿だけ変えることはできる。意識もなくならない」
「……そんなこと、できたの?」
「ああ」
「初めて聞いた」
アニマは指を曲げた。
何も変えていないのに、もう窮屈な気がした。
「好きじゃない」
「どうして?」
「力を押し込めたまま、形だけ変えるからだ。ずっと、身体に合わない服を着ているような感じがする」
普通なら、獣の姿に力を伴わせる。
そうせずに留めておくには、内側から広がろうとするものを押さえ続けなければならない。
「痛いの?」
「痛くはない。ただ、窮屈だ」
ハルカは黙ってこちらを見ていた。
「無理をするくらいなら、別の方法を――」
「できないわけじゃない」
アニマは手紙へ目を戻した。
ドロシー。
力の制御。
今のところ、他に頼れる相手はいない。
「お前の使い魔ということにすればいい」
ハルカが瞬いた。
「私の?」
「他に誰がいる」
「……そっか。使い魔」
彼女はもう一度、そう呟いた。
さっきまで寄っていた眉が、少しずつ戻る。
アニマの頭から肩へ、何か確かめるように目が動いた。
「どんな姿になるの?」
思っていたより、声が弾んでいた。
*****
戸の鍵を確かめ、窓の幕を閉じた。
アニマは大剣を寝台へ立てかける。
仮面を外し、上着を脱いだところで、ハルカがまだこちらを見ていることに気づいた。
「向こうを向いていてくれ」
「あ、ごめん」
彼女が慌てて背を向ける。
身につけていたものを外し、寝台の陰へ置いた。
片手を床につく。
力を引き出す時とは、違った。
奥へ押さえる。
そのまま、身体の輪郭を変えていく。
肩が沈んだ。
床についた指が太くなり、毛と爪が伸びる。
広がろうとする力を留めると、胸の内側が詰まったように感じた。
息はできる。
だが、思いきり伸びをしたいのに、四方を壁で塞がれているようだった。
やはり、嫌いだ。
金色の毛が、腕を覆っていく。
視線が低くなった。
さっきまで膝の下にあった寝台の縁が、顔の横にある。
アニマは四本の足で立ち、床を爪で軽く鳴らした。
「もう、いい?」
返事の代わりに、もう一度鳴らす。
ハルカが振り返った。
そのまま、動かなくなる。
アニマは彼女を見上げた。
黄金色の毛。
首の周りの鬣。
床へ伸びた尾が、先だけ揺れる。
椅子を引く音がした。
ハルカが立ち上がり、目の前へしゃがむ。
「……アニマ?」
頷いた。
彼女の口元が緩んだ。
「ライオンっぽい」
ライオンてなんだ。
そう言いたかったが、口から出たのは低い喉の音だけだった。
ハルカは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触ってもいい?」
アニマはその手を見た。
少し迷い、頭を下げる。
指が鬣へ入った。
「柔らかい」
小さな声だった。
毛並みに沿って、ゆっくり撫でられる。
治療の時とは違う手つきに落ち着かなくなり、アニマは片方の耳を伏せた。
「あ、ごめん。嫌だった?」
首を振る。
ハルカは安心したように笑った。
手は、離れなかった。
使い魔を連れて入れるか、まだ確かめていない。
入学できると決まったわけでもない。
明日、まずそれを聞きに行く。
必要なら、この姿にも慣らしておかなければならない。
アニマが戸の方へ顔を向けると、ハルカの手が首の後ろへ回った。
「一緒に行けるといいね」
見上げる。
彼女は、今日いちばん楽しそうな顔をしていた。
遊びに行くわけじゃないぞ。
アニマは念を押すつもりで、低く喉を鳴らした。
ハルカは笑って、もう一度、鬣を撫でた。
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