幕間 エルフのお嬢様
休みで一日中書いてました。
匙が、器の底へ触れた。
小さな音だった。
リーフは机の向こうを見る。
フロウが野菜を掬っていた。
少し冷まし、口へ運ぶ。
飲み込むまで、見てしまった。
「……リーフ?」
顔を上げられる。
リーフは手元へ目を戻した。
「味はどう?」
「美味しいです」
「そう。良かった」
自分の器にも、同じものが入っている。
まだ、ほとんど減っていなかった。
昼前にアニマたちを送り出してから、何度もこうしてフロウを見ていた。
椅子へ座る時。
水を飲む時。
窓の外へ目を向けた時。
そこにいる。
確かめるたびに、胸の奥が緩んだ。
「もう少し食べられそう?」
「はい。でも、これで十分です」
フロウが小さく笑う。
その顔を、もう少し見ていたかった。
廊下で、何かが倒れた。
硬い音。
フロウの肩が跳ねた。
匙を握る指が止まる。
「すみません。桶を倒してしまって」
扉の向こうから、ケアの声がした。
「大丈夫よ」
リーフは答えた。
フロウの指は、まだ動かない。
手を伸ばし、その手へ触れた。
「桶ですって」
「……はい」
ゆっくりと、肩が下がる。
「すみません」
「謝らなくていいの」
リーフは手を重ねたまま言った。
細い指だった。
以前より、骨の形がはっきりしている。
冷たい。
離したくないと思った。
フロウが匙を持ち直そうとして、リーフはようやく手を引いた。
「冷めてしまうわね」
器を見た。
温め直させようか。
別のものなら、もっと食べられるだろうか。
聞きかけて、やめる。
さっきも尋ねた。
部屋は寒くないかと。
疲れていないかと。
どこか痛むところはないかと。
そのたびに、フロウは答えてくれていた。
リーフを安心させるように。
膝の上で、指を重ねた。
心配だった。
それは、間違いない。
だが、何度も大丈夫と言わせているのは、自分がその言葉を聞きたいからではないのか。
フロウが、また一口食べる。
今度は何も尋ねず、リーフも匙を取った。
*****
食事を終えたフロウを、ケアが部屋へ送っていった。
扉が閉じても、リーフはしばらくそちらを見ていた。
「リーフ様」
振り向く。
フレッサが、机に残った器を寄せていた。
「ケアがついております」
「ええ」
分かっている。
それでも、足音が聞こえなくなるまで耳を澄ませてしまう。
リーフは椅子へ座り直した。
「少し、話せる?」
「はい」
フレッサが手を止める。
「あなたも座って」
「失礼します」
向かいの椅子が引かれた。
仮面は着けていない。
見慣れた顔だった。
子供の頃から、何度も見上げてきた顔。
叱られた時も、迎えに来てもらった時も、彼女は大抵このくらいの距離にいた。
近い。
だが、リーフが言わなければ、同じ机につこうとはしない。
「アニマのことなのだけれど」
フレッサの目が、こちらへ向いた。
「怖くはなかった?」
何を、と聞き返されることはなかった。
少し間が空く。
「……怖かったです」
リーフは膝の上の手を止めた。
迷いのない返事を予想していた。
恐れてはいなかった、と。
あるいは、助けてもらったのだから、と。
「戻った時には、もうあの姿でした。血だらけで、檻の前に膝をついていました」
「ええ」
「近づくなと言われました」
それは聞いている。
敵も味方も分からなくなる。
何かを壊したくなる。
昨日、アニマは自分の掌を見ながら話していた。
「私がフロウの鎖を外している間も、あいつは動きませんでした」
フレッサが机へ目を落とす。
「ずっと、拳を握っていました。自分の手に爪を食い込ませて」
リーフは何も言えなかった。
帰ってきた時の姿を思い出す。
胸も、腕も。
押さえた布が、すぐに赤くなった。
あの傷の中に、自分でつけたものまであったのか。
「それでも、抱えてきたのね」
「置いてはこられません」
今度の返事は早かった。
フレッサが顔を上げる。
「フロウを連れていけと言われました。自分は動けないくせに」
「……言いそうね」
リーフは小さく息を吐いた。
頼む時にも、彼はまず誰かのことを口にする。
昨日、ようやく自分のための報酬を求めたと思った。
それさえ、味方を傷つけないために力を扱いたいという話だった。
「あなたが地下から離れたと聞いた時は、少し驚いたわ」
フレッサの眉が僅かに動いた。
「フロウを見つけたなら、離れたがらないと思っていたから」
「離れたくはありませんでした」
静かな声だった。
フレッサとフロウも、気心の知れた仲だ。
「ですが、戻る道まで塞がれては、連れて帰れません」
リーフは彼女を見る。
「私があそこに残っても、あいつの邪魔にしかならなかったでしょう。なら、できることをするべきです」
フレッサは、それ以上言わなかった。
リーフの命令を待たずに判断した。
背を向けたくない場所で、背を向けた。
戻るために。
昔からそばにいるからといって、何でも分かっているわけではない。
「ありがとう」
リーフは言った。
「二人を連れて帰ってくれて」
「……役目を果たしただけです」
目が僅かに伏せられる。
そう答えることだけは、予想できた。
*****
扉が叩かれた。
入ってきたのは、アルクだった。
「戻りました」
「お疲れ様。どうだった?」
「商会の連中は、まだ宿を回っています。門で騒ぎがあったという話はありません」
リーフは頷いた。
手配した御者には、道中の補給先と、無理をさせないよう伝えてある。
今頃は、最初の宿泊先へ向かっているだろうか。
「引き続き、こちらにも注意して」
「承知しました」
アルクが答える。
外套の裾に、乾いた泥がついていた。
「あなたも座って。食事は?」
「後でいただきます」
「後ではなく、今食べて。話は聞けるでしょう」
フレッサが立ち上がった。
「テイクに頼んでまいります」
引き留める間もなく、扉へ向かう。
アルクはその背を見送り、椅子へ腰を下ろした。
「何か、話の途中でしたか」
「救出の夜のことを聞いていたの」
「ああ」
その顔から、少し笑みが消えた。
「アニマを運んでくれて、ありがとう。改めて言っておきたくて」
「俺でなくても、運べましたよ」
「運んだのは、あなたでしょう」
アルクが口を閉じた。
リーフは続ける。
「剣も、出発の準備も。助かったわ」
少しして、彼が視線を逸らした。
「……そう言っていただけるなら、走り回った甲斐があります」
耳が、僅かに赤い。
その意味を、リーフは知っていた。
だからといって、礼を言わずに済ませたくはなかった。
だが、言葉を重ねれば、応えられないものまで期待させてしまうかもしれない。
机の上へ目を落とす。
フロウの座っていた場所には、もう器もなかった。
「運んでいる間は、どうだった?」
リーフが尋ねると、アルクは自分の腕を見た。
「軽かったです」
「軽い?」
「もっと重いものだと思っていました。あれだけの力ですから」
アルクは人を抱える動作をしてみせる。
「呼んでも起きなくて。揺らすのも怖くて、でも急がないといけないし」
リーフは、あの時の彼の背を思い出した。
任せてくれと言って、アニマを抱き上げた。
迷わず、ベアの家へ向かった。
だから、任せた。
彼も怖かったのだとは、考えていなかった。
「あの人でも、死ぬのかもしれないと思いました」
アルクの指が、袖を摘まむ。
「隊長級を倒すところを見ていますから。勝手に、大丈夫だと思っていたんでしょうね」
リーフにも、覚えがあった。
アニマが来てくれた時、これで助かると思った。
フロウを救えるかもしれない。
フレッサを、一人で行かせずに済む。
その安堵の中で、彼が代わりに帰ってこなくなる可能性を、どれほど考えていただろう。
「ハルカは?」
リーフは尋ねた。
「驚いていたでしょう」
「はい。最初は、名前を呼び続けてました」
アルクが頷く。
「でも、すぐに中へ入れろと。寝かせる場所を空けて、水と布を用意するよう言われました」
「あなたに?」
「俺と、師匠にです」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
「師匠も、言われた通りに動いていましたよ」
リーフの口元が緩んだ。
ハルカの静かな話し方を思い出す。
今日、アニマが出発を譲らなかった時も、彼女は簡単には頷かなかった。
歩けることと、治ったことは違う。
その通りだった。
早く街を離れた方がいいと口を挟んだのは、リーフだ。
安全に休ませておける場所を、ずっと用意することはできなかった。
ハルカは話を聞き、考えた。
そのうえで、痛みを隠さないことをアニマに約束させた。
ただ、彼についていく少女ではない。
彼が立ち止まらない時に、立ち止まらせようとする。
進むと決めた後も、その身体を見ている。
「治療の時、手が震えていたんです」
アルクが言った。
「でも、魔法は止めませんでした」
リーフは目を伏せた。
今日、隣に座る彼の肩へ、何度も向けられていた視線。
旅の仲間を心配するだけでも、そうするだろう。
それでも、彼が見ていない時のハルカの眼差しには、覚えがあった。
リーフは何も言わなかった。
食事を載せた盆を、フレッサが運んできた。
「冷めないうちに」
「ありがとうございます」
アルクが匙を取る。
ようやく食べ始めた彼を見て、リーフも椅子へ深く座り直した。
*****
「リーフ様は、ご存じだったのですか」
食事が半分ほど減ったところで、アルクが尋ねた。
「アニマ殿のことを」
「獣の英雄だということ?」
「はい」
「いいえ。昨日、本人の話を聞くまでは夢にも」
言葉にすると、あの瞬間が戻ってくる。
獣の英雄。
噂には聞いていた。
戦場を蹂躙する獣。
ヴェイド王国のために、人を殺してきた英雄。
目の前の少年が、その名と重なった。
怖かった。
フロウを助けてくれた相手だと分かっていても、すぐには言葉が出なかった。
「……意外でした」
アルクが言った。
「すぐに紹介状を書かれたので」
「怖くなかったわけではないわ」
フレッサがこちらを見る。
リーフは、自分の手へ目を落とした。
「知らなければ良かったと思ったかもしれない。一瞬だけ」
そうすれば、ただ礼を言えた。
助けてくれてありがとう。
何でも望むものを渡す。
それだけで済んだ。
だが、アニマは話した。
味方まで傷つけるかもしれないと。
黙って金を受け取ることも、できたはずだった。
「それでも、話してくれたから」
リーフは顔を上げた。
「聞いた後でなければ、できないこともあるでしょう」
フレッサが小さく頷く。
「力の制御ですか」
「ええ」
誰を頼ればいいのか。
昨日から、何人もの顔を思い浮かべていた。
魔法に詳しい者。
珍しい術を研究している者。
アニマより強い者は知らないが、ただ強ければ教えられるとも限らない。
アニマ自身より弱い者でも、彼の知らないことを知っている可能性はある。
「調べてみるわ。すぐに役に立つとは言えないけれど」
「私からも、心当たりを当たります」
フレッサが答えた。
アルクも顔を上げる。
「俺も、冒険者の方の伝手で聞いてみます」
「お願い。ただし、本人の名や正体は伏せて」
二人が頷いた。
リーフは膝の上の手を開いた。
自分は、地下室へ行けなかった。
怪我人を治すこともできない。
使えるものはある。
家の名も。
金も。
長く繋いできた付き合いも。
アニマのために使うことを、ためらう理由はなかった。
*****
部屋へ戻り、灯りを近づけた。
机の引き出しから、便箋を出す。
宛名を書こうとして、少し考えた。
まずは、口の堅い相手から。
起源魔法。
力を使うことによって生じる衝動。
本人の意思で抑えることの難しさ。
聞いたことを、そのまま全部書けばいいわけではない。
リーフは筆を止めた。
相手に何を伝え、何を伏せるか。
昨日、アニマも同じように考えていたのだろうか。
黙っていた時間に、何を恐れていたのだろう。
分からないことは、まだ多かった。
獣の英雄という名を知ったからといって、彼のことが分かったわけではない。
指先へ力を入れ直す。
あまり固く握ると、文字が歪んだ。
息を吐き、持ち直した。
扉が小さく叩かれた。
「リーフ様」
ケアの声だった。
「フロウが、少しお話しできないかと」
「今行くわ」
立ち上がってから、机を見る。
手紙は、まだ数行しか書けていない。
紙の端へ重しを置く。
インクの蓋を閉めた。
戻ったら、続きを書こう。
廊下へ出ると、奥の部屋から灯りが漏れていた。
リーフはそちらへ歩いた。
扉の前で、足を止める。
大丈夫かと、また尋ねそうになった。
その言葉を飲み込み、静かに戸を叩く。
「フロウ。入ってもいい?」
まずはフロウの話を聞こう。
それから、これから行きたい場所を尋ねてみよう。
次回から新章開幕です。




