19.手当
筆が乗りました。二話目更新です。
「ここへ下ろしてください」
ハルカが地面を指した。
板を担いでいた男たちが、膝を曲げる。
横たわる男の口から、短い呻き声が漏れた。
腹へ巻かれた布が濡れている。
血は、まだ止まっていなかった。
ハルカが傍らへ膝をつく。
「私の声、聞こえますか」
返事はない。
だが、男の目が動いた。
「治療します。少し、そのままでいてください」
布の袋が開かれる。
ハルカは傷の様子を確かめ、両手をかざした。
淡い光。
アニマは、その後ろに立っていた。
裂けた服。
土のついた腕。
板の端へ垂れた血。
見慣れたものだった。
それなのに、今は何をすればいいのか分からない。
「水を持ってきてください。あと、綺麗な布も」
ハルカの声に、そばの女が走り出した。
アニマは一歩、近づきかけた。
男の腕が震えている。
押さえればいいのか。
身体を支えればいいのか。
分からなかった。
自分の傷に布を巻いたことならある。
血が止まらないまま、剣を握り直したことも。
だが、人を治すために触れたことは、ほとんどなかった。
味方が傷ついた時、敵をそれ以上に傷つけることで対処してきた。
伸ばしかけた手を下ろす。
ハルカは男から目を離さず、魔法を使い続けていた。
「すまん、誰か手を貸してくれ!」
声がした。
通りの先だった。
倒れた木材の前で、何人かがこちらを見ている。
アニマはハルカへ顔を向けた。
「手伝ってくる」
「うん。気をつけてね」
返事をして、歩き出す。
持ち上げて、運ぶ。
それなら、できる。
*****
ネルム村。
通りの脇に倒れた木の札には、そう刻まれていた。
家は多くない。
低い屋根が並び、その向こうには畑が広がっている。
何事もなければ、馬を休ませ、水を汲んで通り過ぎる場所だったのだろう。
今は、道の中央に折れた板が散っていた。
土壁が崩れている。
納屋の戸は外れ、軒先の柱が道を塞いでいた。
三人の男が、柱へ手をかけている。
「こいつを、脇へ退けたいんだが」
アニマは足を止めた。
柱の先に、潰れた桶がある。
割れた壺。
泥にまみれた布。
「中に、人は」
「いない。全員出した」
アニマは頷いた。
柱へ右手をかける。
少し持ち上げ、重さを確かめた。
肩が引き攣る。
左手を添える位置を変え、膝を曲げる。
腕だけで引かず、脚を伸ばした。
柱が浮く。
「……おい」
男の声。
「先を持ってくれ」
アニマが言うと、三人が慌てて動いた。
道の脇へ運び、ゆっくりと下ろす。
土が舞った。
アニマは息を吐く。
傷が開いた感触はない。
次は、折れた梁。
その下の板を抜き、通れる幅を作る。
男たちも、空いた場所から木片を運び始めた。
「助かる。すげえ力だな」
額に布を巻いた男が言った。
「冒険者が来てくれるとは思わなかった」
「たまたま通りがかっただけだ」
「俺らは運が良いな」
男は、崩れた納屋を見た。
「……本当に、ありがたい」
アニマは返事をせず、足元の板を拾った。
通りの奥で、子供が泣いている。
その声を聞きながら、板を積み重ねた。
*****
畑側の柵は、内側へ倒れていた。
根元から折れた杭。
引き剥がされた縄。
そのそばに、魔物の死骸があった。
黒い毛に覆われた胴。
細長い四肢。
脚の先には、鎌のように曲がった爪。
「裂脚獣か」
アニマが呟くと、後ろの男が頷いた。
「知ってるのか」
「ああ」
兵卒級。
多くは、その中でも下位に入る。
ただ、目の前の個体は大きかった。
脚の太さも、爪の長さも違う。
中位には届くかもしれない。
アニマは裂脚獣の腹へ目を向けた。
槍が一本、折れたまま刺さっている。
脇腹にも、何度も突かれた跡があった。
周囲の土が、黒く固まっていた。
「何匹いた」
「六匹。倒せたのは二匹だ」
「戦える冒険者は?」
「いない。俺たちで、槍と農具を持って」
男は言葉を切った。
自分の手を見ている。
指の間が裂けていた。
兵卒級の下位。
戦場でなら、アニマが足を止めるほどの相手ではない。
だが、武器を持ち慣れない者たちが、六匹を迎え撃った。
子供がいる。
逃げられない老人もいる。
背後には、自分たちの家。
よく、追い払えたものだった。
「……何人も、やられた」
男が言った。
「もう動かなくなった奴にも、爪を振り下ろしてた。家畜には、見向きもしねえで」
アニマは折れた柵へ目を戻した。
血はある。
だが、何かを引きずって持ち去ったような跡は見えない。
裂けた死骸の口元にも、食いちぎった肉は残っていなかった。
魔物が襲う理由は、一つではない。
食うために獲物を追うもの。
ただ、目の前のものを壊すために動くもの。
こいつらは、後者のようだ。
「また、来ると思うか」
男が尋ねた。
アニマは村の外を見た。
踏み荒らされた畑。
その向こうの低い林。
「来ないとは言えない」
「そうか……」
「ただ、食うためなら、腹が減ればまた獲物を探す。こいつらは違う」
死骸を指す。
「ここでは二匹死んだ。残りも、無傷では逃げていないだろう」
「ああ。何度も突いた」
「なら、別の場所へ向かう可能性の方が高い」
壊すものは、他にもある。
わざわざ痛い目に遭った場所へ戻る理由は薄い。
少なくとも、飢えに駆られた獣ほどは。
男は少しだけ息を吐いた。
「それでも、見張りは残しておいた方がいい」
「分かった」
アニマは柵の脇に立てられた杭を手に取った。
折れた部分を塞ぐには、数が足りない。
「使える板を持ってきてくれ」
男が顔を上げる。
「夜までに、ここだけでも塞ごう」
*****
陽が沈む頃には、道を通れるようになっていた。
折れた柱は脇へ寄せた。
柵の隙間には板を渡し、縄で括った。
元通りではない。
だが、人が通る場所と、外を警戒する場所は作れた。
アニマは井戸で手を洗った。
水が茶色く濁る。
指の節に、細かな傷ができていた。
肩も痛い。
それでも、柱を持ち上げるたびに痛みが増すようなことはなかった。
桶を置き、息を吐く。
ハルカの姿を探した。
村の中央に、少し大きな家がある。
戸が開け放たれ、中に灯りが見えた。
人が出入りしている。
近づくと、血の匂いがした。
床には毛布。
壁際には、怪我人が並んでいる。
椅子に座って腕を吊る者。
横になったまま目を閉じている者。
その奥に、ハルカがいた。
「指、動かせますか」
老人が手を動かす。
ゆっくりと。
一本ずつ。
「うん。今日は、重いものを持たないでくださいね」
ハルカが手を離す。
老人が何度も頭を下げた。
彼女は小さく笑い、すぐ隣の毛布へ膝を移した。
まだ、続けていた。
アニマは入口の柱へ手を添える。
村へ着いてから、一度でも休んだのだろうか。
額に髪が貼りついている。
袖を捲った腕には、乾いた血がついていた。
ハルカが布を取ろうとする。
指先が引っかかり、器が僅かに鳴った。
彼女はそれを押さえ、何事もなかったように患者へ向き直る。
疲れている。
アニマにも分かった。
休め、と言おうとした。
「ハルカ様、こっちも……」
女の声がした。
ハルカが顔を上げる。
横たわっているのは、少年だった。
アニマよりも、幼い。
脚に巻かれた布を、両手で握っている。
「痛み、強くなった?」
ハルカがそばへ寄った。
少年が頷く。
「分かった。見せてね」
その声は、変わらなかった。
疲れていても。
何人を診た後でも。
自分が目を覚ました時と同じように、顔を覗き込み、返事を待っている。
アニマは口を閉じた。
ハルカが無理をしていることは分かる。
だが、ここで手を止めさせれば、目の前の少年は痛いままだ。
ハルカは助けたいと思っている。
そのために、ここにいる。
自分が屋敷へ行くと決めた時も、そうだった。
止めるだけは、何かが違う。
アニマは柱から手を離した。
*****
水の入った器が、ハルカの脇にあった。
赤黒く濁っている。
アニマはそれを持ち上げた。
入口にいた女へ、綺麗な水の場所を尋ねる。
器を洗い、新しい水を入れる。
戻ると、ハルカが顔を上げた。
「アニマ」
器を置く。
使い終えた布を、別の桶へまとめた。
「ありがとう」
アニマは頷いた。
ハルカがまた少年へ向き直る。
その隣へ、膝をついた。
少年の脚が震えていた。
膝を曲げかけ、そのたびに顔を歪める。
「少し、脚を支えてもらえる?」
ハルカが言った。
アニマは動かなかった。
脚。
薄い皮膚。
布の端から覗く、細い足首。
強く握れば、それだけで傷つく。
地下室の檻を掴んだ指を思い出した。
鉄が歪んだ。
「……どこを」
声が低くなった。
ハルカがこちらを見る。
「ここ。傷には触らないで、下から支えて」
自分の手を添えて見せる。
アニマは、その下へ手を差し入れた。
温かかった。
骨の形が分かる。
その周りの柔らかさも。
少年の身体が強張った。
アニマは息を止めた。
「痛いか」
「……少し」
手を引きかける。
「そのままで大丈夫。持ち上げなくていいよ」
ハルカが言った。
「動かないように、支えるだけ」
アニマは頷いた。
指を握り込まない。
掌へ、重さを預けさせる。
ハルカの手が傷の上へかざされた。
光が灯る。
少年が歯を食いしばった。
その肩へ、母親らしい女が手を置く。
アニマは脚を支え続けた。
重くはない。
剣や柱の方がよっぽど重たい。
それなのに、少しも気を抜けなかった。
「……うん。もういいよ」
ハルカの声がした。
いつの間にか、少年の呼吸が落ち着いていた。
脚の下へ、畳んだ布が入れられる。
アニマはゆっくりと手を抜いた。
何も壊れていなかった。
「ありがと」
少年が言った。
ハルカへ向けたのだと思った。
だが、その目はこちらを見ていた。
「……ああ」
アニマは自分の手を見た。
少し、汗をかいている。
服で拭おうとして、やめた。
立ち上がり、もう一度、手を洗った。
*****
次に頼まれたのは、布を切ることだった。
言われた幅に裂く。
使いやすい場所へ重ねる。
水を替える。
灯りを近づける。
起き上がろうとする老人の背を、下から支える。
分からなければ聞いた。
ハルカは短く答え、そのたびに手の位置を見てくれた。
アニマが隣に座ってから、彼女が立ち上がる回数は減った。
「こっちは、これでいいか」
「うん。ありがとう」
ハルカが手を下ろす。
アニマは、水の入った器を差し出した。
彼女が受け取る。
今度は患者へ渡さず、自分で飲んだ。
長く息を吐く。
器を持つ手が、膝の上へ下りた。
「少し、楽になった」
小さな声だった。
アニマは頷いた。
「次は」
「あっちの人。でも、その前に少しだけ休む」
ハルカが壁へ背を預ける。
アニマも、その隣に座った。
肩が重い。
腰を下ろして初めて、自分も疲れていたと気づいた。
部屋の向こうでは、村の女たちが布を畳んでいる。
外から男が水を運んできた。
御者も一緒だった。
誰か一人が動くたび、別の誰かの手が空く。
ハルカが目を閉じる。
アニマは声をかけなかった。
少し経って、彼女は自分で目を開けた。
「行こうか」
立ち上がる。
アニマも、布の束を持って続いた。
*****
最後の患者の治療を終えた時、外はすっかり暗くなっていた。
全員が治ったわけではない。
包帯の残る者もいた。
添え木を外せない者も。
それでも、苦しそうな呼吸は随分と減っていた。
ハルカは村人へ、一人ずつ注意を伝えた。
今夜は無理に歩かないこと。
傷を汚さないこと。
様子が変わったら、すぐに呼ぶこと。
アニマは使い終えた器を片付けた。
戸口の向こうに、小さな屋根が見える。
その下には、布を掛けられた人影が並んでいた。
ハルカが村へ入る前に、息を引き取っていた者たちだった。
アニマは足を止める。
布の端から、土のついた靴が覗いていた。
村人だけで、六匹を追い払った。
その言葉の中には、ここに並ぶ者たちもいる。
「アニマ」
振り向くと、ハルカが立っていた。
彼女も屋根の方を見た。
しばらく、何も言わなかった。
遠くで槌の音がする。
まだ、柵を直しているのだろう。
「……今夜、泊まる場所を貸してくれるって」
ハルカが言った。
「ああ」
アニマは頷く。
二人で、灯りのある方へ歩いた。
*****
翌朝、村には木を打つ音が響いていた。
夜の間に魔物が戻ることはなかったらしい。
アニマは門のそばまで歩いた。
昨日渡した板の隣に、新しい杭が立っている。
縄を締める男が、こちらへ手を上げた。
「昨日は助かった、冒険者さん」
「ああ」
アニマも手を上げる。
肩は動いた。
眠ったことで、昨日の重さは薄れていた。
馬車へ戻ると、御者が飼葉の袋を積んでいた。
馬は水を飲んでいる。
村人が車輪の脇へ、食料の入った籠を置いた。
「道中で食べてくれ」
アニマは腰の袋へ手を伸ばした。
男が首を横に振る。
「二人への礼だ。多くは出せんが」
「十分だ。ありがとう」
受け取り、荷台へ載せる。
ハルカはまだ、家の前で村人と話していた。
今朝も出発前に、患者の様子を見て回っていた。
腕に包帯を巻いた老人が、何度も頭を下げている。
昨日、脚を支えた少年もいた。
母親に肩を支えられ、戸口に座っていた。
目が合う。
少年が手を振った。
アニマは一瞬、迷った。
それから、同じように手を上げた。
「待たせたね」
ハルカが戻ってくる。
目の下に、少し影があった。
「眠れたか」
「うん。アニマは?」
「眠った」
彼女が荷台へ上がる。
アニマは足元の荷物を寄せ、毛布を広げた。
「今日は、お前が横になれ」
「アニマも、まだ怪我人だよ」
「場所はある」
荷物をもう少し動かす。
二人が並んで休むには、少し狭い。
だが、座ったままでいるよりはいい。
ハルカが小さく笑った。
「じゃあ、そうしようか」
御者が手綱を取る。
門の荷車が退けられた。
村人たちが道の脇へ立つ。
ハルカが幌から顔を出し、手を振った。
馬車が動き出す。
昨日まで道を塞いでいた柱が、脇に積まれている。
その向こうで、男が新しい木材を運んでいた。
村は、まだ壊れたままだった。
それでも、人が動いている。
アニマはその姿が見えなくなるまで、外を見ていた。
やがて、幌の中へ戻る。
ハルカは毛布に横になっていた。
目を閉じている。
アニマも隣へ腰を下ろした。
大剣は、手の届く場所にある。
その柄へ触れかけた手を止め、ハルカの肩からずれた毛布を引き上げた。
彼女は起きなかった。
アニマは自分の掌を見た。
少年の脚の重さが、まだ残っている気がした。
指を開き、膝へ置く。
馬車は街道を進んでいく。
次に目指すのは、セントラル。
アニマは荷物の中の紹介状を確かめてから、静かに目を閉じた。
次回新章入ります。(章の名前を修整しました)
幕間挟むかもしれません。




