16.代償
夜風が頬へ触れる。
アニマはフレッサに抱えられたまま、長く息を吐いた。
屋敷の灯りは、もう見えない。
運ばれているうちに、胸の奥の熱は随分と静まっていた。
何かを壊したいという衝動も、少しずつ遠ざかっている。
握り締めていた指を、ゆっくりと緩めた。
腕は動かなかった。
隣にいる二人へ、手が伸びることもない。
その代わり、身体が重かった。
傷が痛む。
瞼が落ちそうになる。
あと少し。
帰り着くまでは、起きていようと思った。
「開けてください!」
フレッサの声が、耳元で響いた。
アニマは顔を上げる。
見覚えのある扉。
その向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。
扉が開いた。
「フレッサ!」
リーフだった。
その目が、フレッサの腕の中へ向く。
「フロウ……!」
声が明るくなった。
アニマも、僅かに目を動かす。
フロウは目を閉じていた。
いつから眠っていたのか、気づかなかった。
呼吸は聞こえる。
深く、ゆっくりと。
リーフが手を伸ばし、その頬へ触れた。
「良かった……」
細い息が漏れる。
後ろからテイクとケアが顔を出した。
ケアの口元が緩む。
だが、すぐに止まった。
こちらを見ていた。
「……アニマ?」
リーフの声が変わる。
アニマは答えようとした。
喉が震えた。
言葉にならない。
「テイク、ケア! 手を貸してくれ!」
フレッサが二人を呼んだ。
返事を待たずに中へ入る。
「傷が深い。早く!」
身体が下ろされる。
床に敷かれた毛布。
背中が触れた途端、脇腹に痛みが走った。
アニマは顔を顰める。
「綺麗な布を!」
「ここにあります!」
ケアの声。
テイクの手が、胸元の服を切り開く。
冷たい空気が傷へ触れた。
「……酷い」
誰かが息を呑んだ。
傷を布で押さえられる。
痛みに、息が詰まった。
「アニマ、聞こえる?」
リーフが、すぐそばへ膝をついた。
アニマは小さく頷く。
彼女の向こうに、フロウが寝かされていた。
戻ってきた。
フロウも。
フレッサも。
それを確かめると、身体から力が抜けた。
淡い魔力の膜が広がる。
あの時と同じ結界。
傷が悪化するのを抑えるものだった。
「……戻ってる」
ケアの声がした。
自分の手を見る。
黄金の毛が薄くなっていた。
張り詰めていた腕も、少しずつ元の太さへ戻っていく。
指を開く。
もう、無理に握り込んでおく必要はなかった。
眠い。
今は、ただ眠りたかった。
眠れば、ある程度は回復する。
傷を負った時も。
力を使いすぎた時も。
これまでも、そうだった。
「アニマ!」
アルクの声がした。
「おい、しっかりしろ」
顔を向ける。
見慣れた顔が、すぐ近くにあった。
「……少し、寝る」
掠れた声で告げる。
アルクが何か言った。
聞き取れなかった。
傷を押さえる手の感触が、遠くなる。
「この傷じゃ、ここでは――」
「ハルカなら」
その名前が聞こえた。
アニマは息を吐く。
誰かが呼んでいる。
心配そうな声だった。
大丈夫だと、答えようとした。
その前に、意識が眠りの中へ沈んでいった。
*****
明るかった。
アニマは目を細める。
天井。
窓から差し込む光。
知らない場所ではなかった。
身体の下は柔らかい。
毛布が掛けられている。
ベッドだった。
少しだけ顔を横へ向ける。
黒い髪が見えた。
椅子に座った少女が、ベッドの端へ頭を預けて眠っている。
ハルカ。
片腕を枕にして、顔をこちらへ向けていた。
アニマはしばらく、その顔を見ていた。
どうしてここにいるのか。
考えようとして、喉の渇きに気づいた。
口の中が乾いている。
舌を動かしても、まともに唾が出なかった。
起き上がろうとする。
「っ……」
肩。
胸。
脇腹。
まとめて痛んだ。
右手をベッドにつき、ゆっくりと上体を起こす。
毛布が滑った。
身体には包帯が巻かれていた。
黄金の毛はない。
指も、腕も、元に戻っている。
アニマは部屋を見回した。
窓の位置。
壁際の家具。
宴の時に見たベアの家だった。
ここへ戻ってきた覚えはない。
最後に覚えているのは、リーフたちの顔。
傷を押さえる手。
アルクの声。
運んでもらったのだろう。
ベッド脇の机に、水差しが置いてあった。
手を伸ばす。
肩が痛む。
顔を顰めながら、水を器へ注いだ。
一口。
乾いた喉を、水が通っていく。
数度注ぎ直し、飲み干す。
少しずつ、頭がはっきりしてきた。
同時に、腹の奥が痛んだ。
空腹だった。
胃の中に何もない。
身体の内側から、何かを寄越せと急かされているようだった。
水を飲む手を止める。
今度は、食べたい。
アニマは自分の手を見た。
開く。
握る。
思った通りに動いた。
戻ってきた。
ようやく、そう思えた。
獣化を進めすぎれば、戻れなくなる。
それは知っていた。
以前にも、衝動に飲まれかけたことがある。
そのたびに、何日も眠った。
意識のない間のことは、ほとんど覚えていない。
ただ、何も残らないわけではなかった。
何かを壊した感触。
もっと暴れたいという欲求。
誰かの声。
夢のように、断片だけが残る。
後から仲間に聞かされて、それが夢ではなかったと知ったこともある。
王宮でエルヴァイスと戦った時も、途中から記憶が途切れていた。
今回は違った。
レオンを殴った感触も。
檻を壊した時の音も。
フロウへ手を伸ばしかけたことも。
覚えている。
アニマは器を机へ置いた。
抑え込めた。
それは確かだった。
だが、余裕などなかった。
屋敷を出てしばらくは、指を開くことすらできなかった。
ほんの少し力を抜けば、隣にいる二人へ手が伸びそうだった。
運ばれるうちに落ち着いたが、それまでは気を緩める余裕もなかった。
次も同じように戻れるとは限らない。
アニマは左肩へ触れた。
痛い。
それでも、あの時は持ち上がらなかった腕が動く。
眠っている間に、傷も消耗も回復していく。
獣の回復力。
昔から、そういう身体だった。
だが、眠れば何もかも元通りになるわけではない。
まだ身体は重い。
起き上がるだけで、息が上がる。
また、何日か眠っていたのかもしれない。
回復するまで眠っている間、自分では何もできない。
追手が来ても。
誰かが襲われても。
アニマは息を吐いた。
視線を下げる。
ハルカはまだ眠っていた。
目の下に、薄く影がある。
ずっと、ここで見ていてくれたのだろうか。
起こすのは悪い気がした。
だが、目を覚ましたことも告げずに部屋を出る方が、もっと悪いとも思った。
「ハルカ」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「ハルカ」
もう一度。
僅かに眉が動いた。
それだけだった。
アニマは手を伸ばし、肩へ触れる。
軽く揺すった。
「……ん」
ようやく、目が開いた。
ぼんやりとこちらを見ている。
目が合った。
「……アニマ?」
「ああ」
ハルカが身体を起こした。
椅子が音を立てる。
「起きたの?」
「今、起きた」
「痛いところは? 息は苦しくない? 気持ち悪くない?」
「痛いのは、あちこち」
答えると、ハルカの手が伸びてきた。
額。
頬。
包帯の巻かれた肩。
傷に触れないよう、確かめている。
「動いちゃ駄目だよ。まだ――」
言葉が止まった。
ハルカが俯く。
肩が小さく震えた。
「……心配したんだから」
声が掠れていた。
顔を上げる。
目に涙が溜まっていた。
「全然、起きなくて」
アニマは口を開いた。
大丈夫だ。
そう言いかけた。
だが、何日眠ったのかも知らない自分が言っても、仕方がない。
「……悪かった」
それだけ答えた。
ハルカが首を横に振る。
目元を拭ってから、またアニマを見た。
「三日だよ」
「三日?」
「ずっと眠ってた」
やはり、それだけ経っていた。
アニマは自分の手へ目を落とす。
あの戦いの続きにいるような気がしていた。
だが、三日。
自分が動けない間にも、それだけの時間が過ぎていた。
「アルクが連れてきてくれたの」
ハルカが言った。
「夜中に、扉を叩いて。アニマを抱えてて……服も、アルクの腕も、血だらけで」
最後に聞いた声を思い出す。
ハルカなら。
そう言っていた。
「テイクさんたちが手当てしてくれてたけど、傷が深すぎるからって」
「そうか」
「治療はしたよ。血も止まってる。でも、痛みが残ってるなら無理しないで」
アニマは頷いた。
「助かった」
ハルカの手を見る。
今、自分の肩へ添えられている手。
「ありがとう」
ハルカは少しだけ唇を噛み、それから頷いた。
*****
フロウは助けられた。
そのことは、ハルカもアルクから聞いていた。
リーフたちも無事。
アニマが眠っている間、様子を見に来てくれたらしい。
「フレッサも来たよ」
「何か言ってたか?」
「起きたら知らせてくれって」
アニマは頷く。
聞かれることは多いだろう。
逃げろと言った理由。
あの姿。
近づくなと告げたこと。
どう話すか、考えなければならない。
「そんなに強い人がいたの?」
ハルカが尋ねる。
「ああ」
アニマは答えた。
「剣を折られた」
口にして、胸の奥が沈んだ。
宙を舞った刀身。
手の中に残った、短い刃。
あの時は、それを惜しむ余裕すらなかった。
「それで……力を使いすぎた」
「獣になる力?」
「ああ。前にも、使いすぎて何日か眠ったことがある」
ハルカが黙った。
アニマの顔を見ている。
「……そういう事は、先に教えてよ」
「分かった」
言ってから、少し考える。
「次は、先に話す」
ハルカは目元を拭い、深く息を吐いた。
その時、腹が鳴った。
大きな音だった。
二人とも黙る。
ハルカの視線が、アニマの腹へ落ちた。
「……お腹、空いた?」
「かなり」
もう一度、鳴った。
ハルカが小さく笑った。
まだ、少しだけ涙の残った顔だった。
「話し込んじゃってごめんね。温めてくるから待ってて」
*****
食卓まで歩くだけで、思ったより時間がかかった。
ハルカが隣についている。
手を貸され、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
湯気が上がっていた。
野菜と、小さく切られた肉の入ったスープ。
脇にはパン。
匂いだけで腹が鳴る。
「ゆっくり食べてね」
アニマは頷き、匙を取った。
口へ運ぶ。
温かかった。
柔らかく煮えた野菜が、舌の上で崩れる。
飲み込む。
空だった腹へ、少しずつ熱が落ちていった。
「……うまい」
「良かった」
ハルカが隣へ座る。
アニマはもう一口食べた。
久しぶりだった。
実際には、それほど長く離れていたわけではない。
それでも、こうしてハルカの作ったものを食べていると、随分遠くから戻ってきたような気がした。
「やっと起きたか」
声がした。
知らぬ間に開いた扉からベアがこちらを見ていた。
「世話になった」
「礼なら、そっちに言え」
ベアがハルカを顎で示す。
「ずっと付きっきりだったんだぞ」
「ベアさんだって、色々手伝ってくれたじゃないですか」
「水を替えたくらいだ」
ベアが椅子を引く。
アニマは二人を見てから、頭を下げた。
「二人とも、ありがとう」
「食いながらでいい」
言われて、匙を持ち直す。
ハルカも自分の器へ手を伸ばした。
少しの間、食器の音だけがした。
「で、誰にやられた」
ベアが尋ねた。
「アルクからは、詳しく聞けなかったんでな」
アニマは匙を止める。
「グランツ商会の本部にいた。白い剣を佩いた、全身白い男だ」
「…そりゃ白剣の英雄レオンだな」
返事は早かった。
アニマが顔を上げる。
「知ってるのか」
「名の通った男だ」
白剣の英雄。
確かに、そう名乗っていた。
「レオン、だったか」
「ああ。南東のアルディア王国。そこの白剣隊を率いていた男だ」
ベアが続ける。
「最近、軍から姿を消したという話は聞いていたが。そんなところにいたか」
「白剣隊?」
「剣の腕で選ばれた精鋭だ。そいつらを束ねる隊長だからな。達人と呼んでも足りんくらいだろう」
アニマは白い刃を思い出した。
こちらが動けば、もうそこにあった。
力を上げても、追いついてきた。
獣化した後でさえ、何度も斬られた。
「全員、あの白い剣を持ってるのか?」
「そうだ。あの剣が、隊の名の由来でもある」
ベアがアニマを見る。
「魔法を斬る剣だ」
匙を持つ手が止まった。
「魔法を?」
「刀身に触れた魔力を散らす性質がある。珍しい鉱物でな。あれを加工してるのはアルディアだけだ」
ただ硬く、鋭い剣だと思っていた。
それだけではなかったらしい。
「……知らなかった」
「魔法は使わなかったのか」
「使えない」
ベアが眉を上げる。
アニマは続けた。
「俺には、この力しかない」
自分の腕へ目を落とす。
今は細い。
黄金の毛もない。
ベアはそれを一度見たが、それ以上は聞かなかった。
「なら、斬れ味と頑丈さだけで十分厄介だったろう」
「ああ」
アニマは頷いた。
嫌というほど、分かった。
*****
食事を続けながら、何度もあの戦いを思い返した。
欠けた刃。
追い込まれた檻の前。
白剣が軌道を変えた瞬間。
剣を失った。
託されたものだった。
アニマは、空いた腰へ手をやった。
何もない。
分かっていたのに、指先が柄を探した。
「アニマ?」
ハルカがこちらを見る。
「……何でもない」
答えてから、首を振った。
「いや。剣のことを考えてた」
ハルカは何も言わず、続きを待っていた。
武器が悪かった。
そう言ってしまうのは簡単だった。
だが、剣の限界を考えずに使っていたのは自分だ。
これまでは何とかなった。
相手より速く動き、強く振れば、それで済んでいた。
だから、その先を考えていなかった。
レオンを前にして、初めて足りないと気づいた。
遅かった。
もっと強い相手と出会うかもしれない。
そのたびに獣化を進めるのか。
剣を失い、身体を斬られ。
誰かを傷つけそうになりながら、運んでもらうのか。
今回、フレッサが戻ってこなければ。
アニマは匙を置いた。
フロスト。
エルヴァイス。
あの二人の顔が浮かんだ。
今のままでは、勝てない。
レオンに勝ったから大丈夫だなどとは、到底思えなかった。
あの二人の力は知っている。他にも強者は無数にいる。
そこへ届く前に、自分の身体か、意識の方が壊れる。
必要なのは、まず武器。
自分の力に耐えられるもの。
何度打ち合っても、頼れるもの。
そして、この力を扱う方法。
衝動を押さえ込むだけで精一杯では、使いこなしているとは言えない。
「まだ食べる?」
ハルカが尋ねた。
器が空になっていた。
「ああ。頼む」
ハルカが立ち上がる。
その背を見ながら、アニマはリーフの言葉を思い出した。
報酬はいくらでも、なんでも出す。
あの時は、後でいいと答えた。
フロウは戻った。
なら、今度はその話ができる。
金を受け取るだけでは、どこで武器を探せばいいのかも分からない。
力の制御に至っては、誰に聞けばいいのかさえ。
リーフなら、何か知っているかもしれない。
知らなくても、相談はできる。
新しい器が目の前へ置かれた。
温かな湯気が上がる。
アニマは右手を開き、もう一度、匙を握った。
次に会ったら、話してみよう。
報酬のこと。
剣のこと。
そして、自分の中にいる獣のことを。




