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獣の英雄  作者: 四茶
第一章『掌に残るもの』
18/27

16.代償

 夜風が頬へ触れる。


 アニマはフレッサに抱えられたまま、長く息を吐いた。


 屋敷の灯りは、もう見えない。


 運ばれているうちに、胸の奥の熱は随分と静まっていた。

 何かを壊したいという衝動も、少しずつ遠ざかっている。


 握り締めていた指を、ゆっくりと緩めた。


 腕は動かなかった。

 隣にいる二人へ、手が伸びることもない。


 その代わり、身体が重かった。


 傷が痛む。

 瞼が落ちそうになる。


 あと少し。


 帰り着くまでは、起きていようと思った。


「開けてください!」


 フレッサの声が、耳元で響いた。


 アニマは顔を上げる。


 見覚えのある扉。

 その向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。


 扉が開いた。


「フレッサ!」


 リーフだった。


 その目が、フレッサの腕の中へ向く。


「フロウ……!」


 声が明るくなった。


 アニマも、僅かに目を動かす。


 フロウは目を閉じていた。

 いつから眠っていたのか、気づかなかった。


 呼吸は聞こえる。

 深く、ゆっくりと。


 リーフが手を伸ばし、その頬へ触れた。


「良かった……」


 細い息が漏れる。


 後ろからテイクとケアが顔を出した。

 ケアの口元が緩む。


 だが、すぐに止まった。


 こちらを見ていた。


「……アニマ?」


 リーフの声が変わる。


 アニマは答えようとした。


 喉が震えた。

 言葉にならない。


「テイク、ケア! 手を貸してくれ!」


 フレッサが二人を呼んだ。


 返事を待たずに中へ入る。


「傷が深い。早く!」


 身体が下ろされる。


 床に敷かれた毛布。

 背中が触れた途端、脇腹に痛みが走った。


 アニマは顔を顰める。


「綺麗な布を!」

「ここにあります!」


 ケアの声。

 テイクの手が、胸元の服を切り開く。


 冷たい空気が傷へ触れた。


「……酷い」


 誰かが息を呑んだ。


 傷を布で押さえられる。

 痛みに、息が詰まった。


「アニマ、聞こえる?」


 リーフが、すぐそばへ膝をついた。


 アニマは小さく頷く。


 彼女の向こうに、フロウが寝かされていた。


 戻ってきた。


 フロウも。

 フレッサも。


 それを確かめると、身体から力が抜けた。


 淡い魔力の膜が広がる。


 あの時と同じ結界。

 傷が悪化するのを抑えるものだった。


「……戻ってる」


 ケアの声がした。


 自分の手を見る。


 黄金の毛が薄くなっていた。

 張り詰めていた腕も、少しずつ元の太さへ戻っていく。


 指を開く。


 もう、無理に握り込んでおく必要はなかった。


 眠い。


 今は、ただ眠りたかった。


 眠れば、ある程度は回復する。


 傷を負った時も。

 力を使いすぎた時も。


 これまでも、そうだった。


「アニマ!」


 アルクの声がした。


「おい、しっかりしろ」


 顔を向ける。


 見慣れた顔が、すぐ近くにあった。


「……少し、寝る」


 掠れた声で告げる。


 アルクが何か言った。


 聞き取れなかった。


 傷を押さえる手の感触が、遠くなる。


「この傷じゃ、ここでは――」

「ハルカなら」


 その名前が聞こえた。


 アニマは息を吐く。


 誰かが呼んでいる。

 心配そうな声だった。


 大丈夫だと、答えようとした。


 その前に、意識が眠りの中へ沈んでいった。


*****


 明るかった。


 アニマは目を細める。


 天井。

 窓から差し込む光。


 知らない場所ではなかった。


 身体の下は柔らかい。

 毛布が掛けられている。


 ベッドだった。


 少しだけ顔を横へ向ける。


 黒い髪が見えた。


 椅子に座った少女が、ベッドの端へ頭を預けて眠っている。


 ハルカ。


 片腕を枕にして、顔をこちらへ向けていた。


 アニマはしばらく、その顔を見ていた。


 どうしてここにいるのか。


 考えようとして、喉の渇きに気づいた。


 口の中が乾いている。

 舌を動かしても、まともに唾が出なかった。


 起き上がろうとする。


「っ……」


 肩。

 胸。

 脇腹。


 まとめて痛んだ。


 右手をベッドにつき、ゆっくりと上体を起こす。


 毛布が滑った。


 身体には包帯が巻かれていた。

 黄金の毛はない。


 指も、腕も、元に戻っている。


 アニマは部屋を見回した。


 窓の位置。

 壁際の家具。


 宴の時に見たベアの家だった。


 ここへ戻ってきた覚えはない。


 最後に覚えているのは、リーフたちの顔。

 傷を押さえる手。

 アルクの声。


 運んでもらったのだろう。


 ベッド脇の机に、水差しが置いてあった。


 手を伸ばす。


 肩が痛む。


 顔を顰めながら、水を器へ注いだ。


 一口。


 乾いた喉を、水が通っていく。

 数度注ぎ直し、飲み干す。


 少しずつ、頭がはっきりしてきた。


 同時に、腹の奥が痛んだ。


 空腹だった。


 胃の中に何もない。

 身体の内側から、何かを寄越せと急かされているようだった。


 水を飲む手を止める。


 今度は、食べたい。


 アニマは自分の手を見た。


 開く。

 握る。


 思った通りに動いた。


 戻ってきた。


 ようやく、そう思えた。


 獣化を進めすぎれば、戻れなくなる。


 それは知っていた。


 以前にも、衝動に飲まれかけたことがある。

 そのたびに、何日も眠った。


 意識のない間のことは、ほとんど覚えていない。


 ただ、何も残らないわけではなかった。


 何かを壊した感触。

 もっと暴れたいという欲求。

 誰かの声。


 夢のように、断片だけが残る。


 後から仲間に聞かされて、それが夢ではなかったと知ったこともある。


 王宮でエルヴァイスと戦った時も、途中から記憶が途切れていた。


 今回は違った。


 レオンを殴った感触も。

 檻を壊した時の音も。


 フロウへ手を伸ばしかけたことも。


 覚えている。


 アニマは器を机へ置いた。


 抑え込めた。


 それは確かだった。


 だが、余裕などなかった。


 屋敷を出てしばらくは、指を開くことすらできなかった。

 ほんの少し力を抜けば、隣にいる二人へ手が伸びそうだった。


 運ばれるうちに落ち着いたが、それまでは気を緩める余裕もなかった。


 次も同じように戻れるとは限らない。


 アニマは左肩へ触れた。


 痛い。


 それでも、あの時は持ち上がらなかった腕が動く。


 眠っている間に、傷も消耗も回復していく。

 獣の回復力。


 昔から、そういう身体だった。


 だが、眠れば何もかも元通りになるわけではない。


 まだ身体は重い。

 起き上がるだけで、息が上がる。


 また、何日か眠っていたのかもしれない。


 回復するまで眠っている間、自分では何もできない。


 追手が来ても。

 誰かが襲われても。


 アニマは息を吐いた。

 視線を下げる。


 ハルカはまだ眠っていた。


 目の下に、薄く影がある。


 ずっと、ここで見ていてくれたのだろうか。


 起こすのは悪い気がした。


 だが、目を覚ましたことも告げずに部屋を出る方が、もっと悪いとも思った。


「ハルカ」


 小さく呼ぶ。


 返事はない。


「ハルカ」


 もう一度。


 僅かに眉が動いた。

 それだけだった。


 アニマは手を伸ばし、肩へ触れる。


 軽く揺すった。


「……ん」


 ようやく、目が開いた。


 ぼんやりとこちらを見ている。


 目が合った。


「……アニマ?」

「ああ」


 ハルカが身体を起こした。


 椅子が音を立てる。


「起きたの?」

「今、起きた」

「痛いところは? 息は苦しくない? 気持ち悪くない?」

「痛いのは、あちこち」


 答えると、ハルカの手が伸びてきた。


 額。

 頬。

 包帯の巻かれた肩。


 傷に触れないよう、確かめている。


「動いちゃ駄目だよ。まだ――」


 言葉が止まった。


 ハルカが俯く。


 肩が小さく震えた。


「……心配したんだから」


 声が掠れていた。


 顔を上げる。


 目に涙が溜まっていた。


「全然、起きなくて」


 アニマは口を開いた。


 大丈夫だ。


 そう言いかけた。


 だが、何日眠ったのかも知らない自分が言っても、仕方がない。


「……悪かった」


 それだけ答えた。


 ハルカが首を横に振る。


 目元を拭ってから、またアニマを見た。


「三日だよ」

「三日?」

「ずっと眠ってた」


 やはり、それだけ経っていた。


 アニマは自分の手へ目を落とす。


 あの戦いの続きにいるような気がしていた。


 だが、三日。


 自分が動けない間にも、それだけの時間が過ぎていた。


「アルクが連れてきてくれたの」


 ハルカが言った。


「夜中に、扉を叩いて。アニマを抱えてて……服も、アルクの腕も、血だらけで」


 最後に聞いた声を思い出す。


 ハルカなら。


 そう言っていた。


「テイクさんたちが手当てしてくれてたけど、傷が深すぎるからって」

「そうか」

「治療はしたよ。血も止まってる。でも、痛みが残ってるなら無理しないで」


 アニマは頷いた。


「助かった」


 ハルカの手を見る。


 今、自分の肩へ添えられている手。


「ありがとう」


 ハルカは少しだけ唇を噛み、それから頷いた。


*****


 フロウは助けられた。


 そのことは、ハルカもアルクから聞いていた。


 リーフたちも無事。

 アニマが眠っている間、様子を見に来てくれたらしい。


「フレッサも来たよ」

「何か言ってたか?」

「起きたら知らせてくれって」


 アニマは頷く。


 聞かれることは多いだろう。


 逃げろと言った理由。

 あの姿。

 近づくなと告げたこと。


 どう話すか、考えなければならない。


「そんなに強い人がいたの?」


 ハルカが尋ねる。


「ああ」


 アニマは答えた。


「剣を折られた」


 口にして、胸の奥が沈んだ。


 宙を舞った刀身。

 手の中に残った、短い刃。


 あの時は、それを惜しむ余裕すらなかった。


「それで……力を使いすぎた」

「獣になる力?」

「ああ。前にも、使いすぎて何日か眠ったことがある」


 ハルカが黙った。


 アニマの顔を見ている。


「……そういう事は、先に教えてよ」

「分かった」


 言ってから、少し考える。


「次は、先に話す」


 ハルカは目元を拭い、深く息を吐いた。


 その時、腹が鳴った。


 大きな音だった。


 二人とも黙る。


 ハルカの視線が、アニマの腹へ落ちた。


「……お腹、空いた?」

「かなり」


 もう一度、鳴った。


 ハルカが小さく笑った。


 まだ、少しだけ涙の残った顔だった。


「話し込んじゃってごめんね。温めてくるから待ってて」


*****


 食卓まで歩くだけで、思ったより時間がかかった。


 ハルカが隣についている。

 手を貸され、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。


 湯気が上がっていた。


 野菜と、小さく切られた肉の入ったスープ。

 脇にはパン。


 匂いだけで腹が鳴る。


「ゆっくり食べてね」


 アニマは頷き、匙を取った。


 口へ運ぶ。


 温かかった。


 柔らかく煮えた野菜が、舌の上で崩れる。


 飲み込む。


 空だった腹へ、少しずつ熱が落ちていった。


「……うまい」

「良かった」


 ハルカが隣へ座る。


 アニマはもう一口食べた。


 久しぶりだった。


 実際には、それほど長く離れていたわけではない。


 それでも、こうしてハルカの作ったものを食べていると、随分遠くから戻ってきたような気がした。


「やっと起きたか」


 声がした。


 知らぬ間に開いた扉からベアがこちらを見ていた。


「世話になった」

「礼なら、そっちに言え」


 ベアがハルカを顎で示す。


「ずっと付きっきりだったんだぞ」

「ベアさんだって、色々手伝ってくれたじゃないですか」

「水を替えたくらいだ」


 ベアが椅子を引く。


 アニマは二人を見てから、頭を下げた。


「二人とも、ありがとう」

「食いながらでいい」


 言われて、匙を持ち直す。


 ハルカも自分の器へ手を伸ばした。


 少しの間、食器の音だけがした。


「で、誰にやられた」


 ベアが尋ねた。


「アルクからは、詳しく聞けなかったんでな」


 アニマは匙を止める。


「グランツ商会の本部にいた。白い剣を佩いた、全身白い男だ」

「…そりゃ白剣の英雄レオンだな」


 返事は早かった。


 アニマが顔を上げる。


「知ってるのか」

「名の通った男だ」


 白剣の英雄。


 確かに、そう名乗っていた。


「レオン、だったか」

「ああ。南東のアルディア王国。そこの白剣隊を率いていた男だ」


 ベアが続ける。


「最近、軍から姿を消したという話は聞いていたが。そんなところにいたか」

「白剣隊?」

「剣の腕で選ばれた精鋭だ。そいつらを束ねる隊長だからな。達人と呼んでも足りんくらいだろう」


 アニマは白い刃を思い出した。


 こちらが動けば、もうそこにあった。

 力を上げても、追いついてきた。


 獣化した後でさえ、何度も斬られた。


「全員、あの白い剣を持ってるのか?」

「そうだ。あの剣が、隊の名の由来でもある」


 ベアがアニマを見る。


「魔法を斬る剣だ」


 匙を持つ手が止まった。


「魔法を?」

「刀身に触れた魔力を散らす性質がある。珍しい鉱物でな。あれを加工してるのはアルディアだけだ」


 ただ硬く、鋭い剣だと思っていた。


 それだけではなかったらしい。


「……知らなかった」

「魔法は使わなかったのか」

「使えない」


 ベアが眉を上げる。


 アニマは続けた。


「俺には、この力しかない」


 自分の腕へ目を落とす。


 今は細い。

 黄金の毛もない。


 ベアはそれを一度見たが、それ以上は聞かなかった。


「なら、斬れ味と頑丈さだけで十分厄介だったろう」

「ああ」


 アニマは頷いた。


 嫌というほど、分かった。


*****


 食事を続けながら、何度もあの戦いを思い返した。


 欠けた刃。

 追い込まれた檻の前。


 白剣が軌道を変えた瞬間。


 剣を失った。


 託されたものだった。


 アニマは、空いた腰へ手をやった。


 何もない。


 分かっていたのに、指先が柄を探した。


「アニマ?」


 ハルカがこちらを見る。


「……何でもない」


 答えてから、首を振った。


「いや。剣のことを考えてた」


 ハルカは何も言わず、続きを待っていた。


 武器が悪かった。


 そう言ってしまうのは簡単だった。


 だが、剣の限界を考えずに使っていたのは自分だ。


 これまでは何とかなった。

 相手より速く動き、強く振れば、それで済んでいた。


 だから、その先を考えていなかった。


 レオンを前にして、初めて足りないと気づいた。


 遅かった。


 もっと強い相手と出会うかもしれない。


 そのたびに獣化を進めるのか。


 剣を失い、身体を斬られ。

 誰かを傷つけそうになりながら、運んでもらうのか。


 今回、フレッサが戻ってこなければ。


 アニマは匙を置いた。


 フロスト。

 エルヴァイス。


 あの二人の顔が浮かんだ。


 今のままでは、勝てない。


 レオンに勝ったから大丈夫だなどとは、到底思えなかった。


 あの二人の力は知っている。他にも強者は無数にいる。


 そこへ届く前に、自分の身体か、意識の方が壊れる。


 必要なのは、まず武器。


 自分の力に耐えられるもの。

 何度打ち合っても、頼れるもの。


 そして、この力を扱う方法。


 衝動を押さえ込むだけで精一杯では、使いこなしているとは言えない。


「まだ食べる?」


 ハルカが尋ねた。


 器が空になっていた。


「ああ。頼む」


 ハルカが立ち上がる。


 その背を見ながら、アニマはリーフの言葉を思い出した。


 報酬はいくらでも、なんでも出す。


 あの時は、後でいいと答えた。


 フロウは戻った。


 なら、今度はその話ができる。


 金を受け取るだけでは、どこで武器を探せばいいのかも分からない。

 力の制御に至っては、誰に聞けばいいのかさえ。


 リーフなら、何か知っているかもしれない。


 知らなくても、相談はできる。


 新しい器が目の前へ置かれた。


 温かな湯気が上がる。


 アニマは右手を開き、もう一度、匙を握った。


 次に会ったら、話してみよう。


 報酬のこと。

 剣のこと。


 そして、自分の中にいる獣のことを。

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