14.白剣
フレッサが足を止めた。
「あれだ」
路地の陰から、アニマは通りの向こうを見た。
鉄の門。
その奥に広がる庭。
さらに奥には、大きな屋敷が建っていた。
グランツ商会の本部。
倉庫とは違う。
夜の闇の中でも、壁や窓に施された装飾がこれ見よがしに輝いて見えた。
上の階には、まだ明かりがついている。
アニマは建物から門へ視線を戻した。
見張りが二人。
庭にも、灯りを持って歩く者がいる。
「裏へ回る」
フレッサが小声で言った。
アニマは頷き、その後を追った。
塀に沿って進む。
表通りの明かりが遠ざかるにつれ、辺りは暗くなった。
屋敷の裏手。
人影のない場所で、二人は塀を越えた。
低く身を屈め、植え込みの陰へ入る。
しばらく待った。
足音が近づき、離れていく。
巡回の男が建物の角へ消えるのを見届けてから、フレッサが動いた。
裏口へ近づく。
鍵穴へ細い金属を差し込む。
アニマはその背後で周囲を見ていた。
小さな音。
「開いた」
二人で中へ入り、静かに扉を閉めた。
*****
警備が少ない。
グランツ商会の本部へ入り込んでから、アニマは何度もそう感じていた。
広い屋敷だった。
廊下に敷かれた絨毯。
壁に掛けられた絵。
扉の脇に置かれた壺。
どれも値段は分からない。
ただ、先ほどまでいた倉庫とは、何もかも違っていた。
それなのに。
見張りの数だけが、釣り合っていない。
外にはいた。
門にも、裏手にも。
だが、中へ入ってからはほとんど出会っていなかった。
角の向こうへ耳を澄ませる。
遠くで扉が閉まる音。
上の階を歩く足音。
近くにはいない。
アニマは前を歩くフレッサに声をかけた。
「少ないな」
「……ああ」
鳥の仮面が僅かに動く。
「もっといると思っていた」
「俺もだ」
倉庫よりも遥かに警備が厳しい。
出発前、フレッサはそう言っていた。
アニマも、それを疑わなかった。
倉庫よりも大きく、金もかかっている。
商会の主もいるはずだった。
守る者が多いのは当然だと思っていた。
「外に集めてるのか?」
「それにしても少ない」
フレッサが廊下の先を見る。
「好都合ではあるが」
「ああ」
答えながらも、アニマは周囲へ意識を向けたままだった。
静かだった。
騒ぎになった様子はない。
こちらを探し回っている足音もない。
ただ、誰も来ない。
胸騒ぎがする。
*****
いくつかの部屋を調べた。
書類の積まれた部屋。
客を迎えるためらしい部屋。
酒や食料が保管された場所。
人を閉じ込めておくような場所は見つからなかった。
廊下を戻ろうとした時、奥から食器の触れ合う音がした。
アニマが足を止める。
半開きの扉。
その向こうから声が聞こえた。
「それは?」
「地下の分だ。昨日来た亜人の」
「ああ、そこへ置いておけ。後で持っていく」
フレッサを見る。
彼女もこちらを見ていた。
アニマは何も言わず、頷いた。
二人で廊下を引き返す。
地下へ続く階段は、屋敷の奥にあった。
途中で通り過ぎた扉の向こうだった。
フレッサが取っ手へ手をかける。
鍵はかかっていない。
僅かに開いた隙間から、冷たい空気が流れてきた。
石の階段が下へ続いている。
壁には灯り。
その先は、途中で折れ曲がって見えなくなっていた。
アニマは息を吸う。
湿った石。
油。
人の匂い。
「……いる」
小さく告げる。
それがフロウかどうかまでは分からない。
だが、人はいる。
フレッサが先へ進もうとする。
アニマは片手で制し、自分が前へ出た。
一段ずつ下りる。
絨毯の上とは違う。
僅かな靴音でも、石の壁に返ってくる。
階段を曲がる。
下に扉はなかった。
短い通路。
その先に、檻の並ぶ広い地下室があった。
アニマは歩みを緩めた。
檻が幾つも並んでいるが、一つを除いて他は空だった。
その奥。突き当たりの檻。
正面の壁際に、一人の女が座っていた。
俯いているため、顔はよく見えない。
薄汚れた服から伸びた腕が、膝の上へ投げ出されている。
髪の間から、長い耳が覗いていた。
すぐ後ろで、息を呑む音がした。
「……フロウ」
フレッサの声だった。
見つけた。
アニマは檻へ目を向ける。
肩が小さく上下していた。
生きている。
なら、連れ出せる。
しかし、その檻の前。
入口から少し横へ外れた場所に、椅子があった。
男が一人、座っていた。
白い外套。
腰には、白い鞘。
男が顔を上げる。
淡い金髪の下から、こちらを見る目が現れた。
視線が交差する。
アニマの手が、腰のショートソードへ伸びる。
考えるより先だった。
「フレッサ」
男から目を離さず、呼ぶ。
「逃げろ」
「……何?」
背後から声が返る。
男は椅子に座ったまま、アニマを見ていた。
驚いて声を上げることもない。
誰かを呼ぶこともない。
ただ、ゆっくりと姿勢を変える。
膝に置かれていた手が離れた。
組んでいた脚が解かれ、足が床を踏む。
それだけの動きから、目を離せなかった。
「何を言っている。フロウが――」
「分かってる」
アニマは短く返した。
檻はすぐそこだった。
男を退け、鍵を開ければいい。
それだけの距離が、遠かった。
男が立ち上がる。
長身だった。
整った顔立ちに、薄灯りが反射する。
武器はまだ鞘の中。
それでも、間合いを詰めようとは思えなかった。
アニマはショートソードの柄を握り直した。
強い。
戦場で何度も感じてきたものだった。
不用意に近づけば死ぬ。
そういう相手が、目の前にいる。
「二人なら――」
「駄目だ」
フレッサの言葉を遮った。
彼女が息を詰める。
普段なら、もう少し説明できた。
言い返されても、答える余裕があった。
今は、その僅かな時間すら惜しい。
男の目が動いた。
アニマの肩越し。
フレッサのいる方へ。
アニマは半歩、横へずれた。
男とフレッサとの間に、自分の身体を入れる。
ここで戦えば、フレッサも巻き込む。
彼女を狙われれば、そちらへ動かなければならない。
その隙を、この男が見逃すとは思えなかった。
守りながら戦える相手ではない。
「先に行け」
言いながら、ほんの僅かに顔を向ける。
鳥の仮面。
その奥の目が、こちらを見ていた。
「早く」
声が低くなった。
フレッサの口が開く。
だが、言葉は出てこなかった。
仮面の奥で、視線が揺れる。
檻へ。
アニマへ。
彼女の手が強く握られた。
「……訳は後で聞く」
絞り出すような声だった。
「ああ」
アニマは前へ向き直る。
背後で衣擦れの音がした。
一歩。
また一歩。
フレッサが下がる。
男は動かなかった。
アニマも動かない。
やがて、階段を駆け上がる足音が聞こえた。
その音が遠ざかるまで、柄を握る手を緩めなかった。
「逃がすんだね」
男が言った。
穏やかな声だった。
屋敷へ侵入した者を前にしているとは思えないほど、落ち着いていた。
アニマは答えず、腰のショートソードを抜く。
切っ先が煌めく。
壁。
檻。
男までの距離。
目だけで確かめる。
部屋は広い。
背後には通路がある。
男の向こうには檻がある。
フロウを巻き込むわけにはいかなかった。
檻の奥で、鎖が擦れた。
フロウが僅かに顔を上げている。
そちらを見続けることはできなかった。
「そのエルフを連れて帰る」
アニマが言った。
男は一度だけ檻へ目を向け、すぐに視線を戻した。
「それは困る」
「どけ」
「それもできない」
短い返事だった。
怒りも、嘲りもない。
アニマは剣先を僅かに下げた。
男の右手が、腰へ伸びる。
白い柄を握った。
刃が抜かれる。
先手必勝。その筈が。
動けなかった。
静かな音だった。
現れた剣身は、白かった。
灯りを映しているだけではない。
刃そのものが白く、切っ先まで濁りがなかった。
男はそれを片手で下げた。
自然な立ち姿。
なのに、どこへ打ち込んでも対処される気がした。
空間が絶え間なく切り裂かれ続けているかのような錯覚を覚える。
達人と立ち会う時に感じるこの空気。エルヴァイスは『剣気』と呼んでいた、殺気とも違うこの気配。
アニマは息を吐く。
警備が少なかった。
ここへ来るまで、ずっと不思議に思っていた。
今なら分かる気がした。
この男がいる。
屋敷の主にとっては、それで十分なのだろう。
「……なるほどな」
呟く。
男の目が、アニマの持つ剣へ落ちた。
続いて、腕。
足。
そして、仮面へ戻る。
「君は、随分と強いようだ」
アニマは答えなかった。
白い剣が持ち上がる。
切っ先がこちらを向いた。
「私はレオン」
男が名乗った。
「白剣の英雄。我が王から授かった名だ」
英雄。
アニマはその言葉を、胸の内で繰り返した。
『白剣』に聞き覚えはなかったが、驚きはなかった。
ただ、握った柄が手の中から滑り落ちないよう、指へ力を込めた。
「大人しく殺されてくれないかな。あまり長引かせたくはない」
「奇遇だな。俺も長引かせたくはない」
レオンが足を引く。
ほんの僅か。
靴底が石を擦った。
アニマも腰を落とした。
次の瞬間。
白い刃が、眼前にあった。
ショートソードを跳ね上げる。
二つの刃が激突した。
鋭い音が、地下室に反響する。




