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獣の英雄  作者: 四茶
第一章『掌に残るもの』
16/27

14.白剣

 フレッサが足を止めた。


「あれだ」


 路地の陰から、アニマは通りの向こうを見た。


 鉄の門。

 その奥に広がる庭。

 さらに奥には、大きな屋敷が建っていた。


 グランツ商会の本部。


 倉庫とは違う。

 夜の闇の中でも、壁や窓に施された装飾がこれ見よがしに輝いて見えた。


 上の階には、まだ明かりがついている。


 アニマは建物から門へ視線を戻した。


 見張りが二人。

 庭にも、灯りを持って歩く者がいる。


「裏へ回る」


 フレッサが小声で言った。


 アニマは頷き、その後を追った。


 塀に沿って進む。


 表通りの明かりが遠ざかるにつれ、辺りは暗くなった。


 屋敷の裏手。

 人影のない場所で、二人は塀を越えた。


 低く身を屈め、植え込みの陰へ入る。


 しばらく待った。


 足音が近づき、離れていく。


 巡回の男が建物の角へ消えるのを見届けてから、フレッサが動いた。


 裏口へ近づく。

 鍵穴へ細い金属を差し込む。


 アニマはその背後で周囲を見ていた。


 小さな音。


「開いた」


 二人で中へ入り、静かに扉を閉めた。


*****


 警備が少ない。


 グランツ商会の本部へ入り込んでから、アニマは何度もそう感じていた。


 広い屋敷だった。


 廊下に敷かれた絨毯。

 壁に掛けられた絵。

 扉の脇に置かれた壺。


 どれも値段は分からない。

 ただ、先ほどまでいた倉庫とは、何もかも違っていた。


 それなのに。


 見張りの数だけが、釣り合っていない。


 外にはいた。

 門にも、裏手にも。


 だが、中へ入ってからはほとんど出会っていなかった。


 角の向こうへ耳を澄ませる。


 遠くで扉が閉まる音。

 上の階を歩く足音。


 近くにはいない。


 アニマは前を歩くフレッサに声をかけた。


「少ないな」

「……ああ」


 鳥の仮面が僅かに動く。


「もっといると思っていた」

「俺もだ」


 倉庫よりも遥かに警備が厳しい。


 出発前、フレッサはそう言っていた。

 アニマも、それを疑わなかった。


 倉庫よりも大きく、金もかかっている。

 商会の主もいるはずだった。


 守る者が多いのは当然だと思っていた。


「外に集めてるのか?」

「それにしても少ない」


 フレッサが廊下の先を見る。


「好都合ではあるが」

「ああ」


 答えながらも、アニマは周囲へ意識を向けたままだった。


 静かだった。


 騒ぎになった様子はない。

 こちらを探し回っている足音もない。


 ただ、誰も来ない。


 胸騒ぎがする。


*****


 いくつかの部屋を調べた。


 書類の積まれた部屋。

 客を迎えるためらしい部屋。

 酒や食料が保管された場所。


 人を閉じ込めておくような場所は見つからなかった。


 廊下を戻ろうとした時、奥から食器の触れ合う音がした。


 アニマが足を止める。


 半開きの扉。

 その向こうから声が聞こえた。


「それは?」

「地下の分だ。昨日来た亜人の」

「ああ、そこへ置いておけ。後で持っていく」


 フレッサを見る。


 彼女もこちらを見ていた。


 アニマは何も言わず、頷いた。


 二人で廊下を引き返す。


 地下へ続く階段は、屋敷の奥にあった。

 途中で通り過ぎた扉の向こうだった。


 フレッサが取っ手へ手をかける。


 鍵はかかっていない。


 僅かに開いた隙間から、冷たい空気が流れてきた。


 石の階段が下へ続いている。


 壁には灯り。

 その先は、途中で折れ曲がって見えなくなっていた。


 アニマは息を吸う。


 湿った石。

 油。

 人の匂い。


「……いる」


 小さく告げる。


 それがフロウかどうかまでは分からない。


 だが、人はいる。


 フレッサが先へ進もうとする。


 アニマは片手で制し、自分が前へ出た。


 一段ずつ下りる。


 絨毯の上とは違う。

 僅かな靴音でも、石の壁に返ってくる。


 階段を曲がる。


 下に扉はなかった。


 短い通路。

 その先に、檻の並ぶ広い地下室があった。


 アニマは歩みを緩めた。


 檻が幾つも並んでいるが、一つを除いて他は空だった。


 その奥。突き当たりの檻。

 正面の壁際に、一人の女が座っていた。


 俯いているため、顔はよく見えない。

 薄汚れた服から伸びた腕が、膝の上へ投げ出されている。


 髪の間から、長い耳が覗いていた。


 すぐ後ろで、息を呑む音がした。


「……フロウ」


 フレッサの声だった。


 見つけた。


 アニマは檻へ目を向ける。


 肩が小さく上下していた。

 生きている。

 なら、連れ出せる。


 しかし、その檻の前。


 入口から少し横へ外れた場所に、椅子があった。


 男が一人、座っていた。


 白い外套。

 腰には、白い鞘。


 男が顔を上げる。


 淡い金髪の下から、こちらを見る目が現れた。


 視線が交差する。


 アニマの手が、腰のショートソードへ伸びる。


 考えるより先だった。


「フレッサ」


 男から目を離さず、呼ぶ。


「逃げろ」

「……何?」


 背後から声が返る。


 男は椅子に座ったまま、アニマを見ていた。


 驚いて声を上げることもない。

 誰かを呼ぶこともない。


 ただ、ゆっくりと姿勢を変える。


 膝に置かれていた手が離れた。


 組んでいた脚が解かれ、足が床を踏む。


 それだけの動きから、目を離せなかった。


「何を言っている。フロウが――」

「分かってる」


 アニマは短く返した。


 檻はすぐそこだった。


 男を退け、鍵を開ければいい。

 それだけの距離が、遠かった。


 男が立ち上がる。


 長身だった。

 整った顔立ちに、薄灯りが反射する。


 武器はまだ鞘の中。


 それでも、間合いを詰めようとは思えなかった。


 アニマはショートソードの柄を握り直した。


 強い。


 戦場で何度も感じてきたものだった。


 不用意に近づけば死ぬ。


 そういう相手が、目の前にいる。


「二人なら――」

「駄目だ」


 フレッサの言葉を遮った。


 彼女が息を詰める。


 普段なら、もう少し説明できた。

 言い返されても、答える余裕があった。


 今は、その僅かな時間すら惜しい。


 男の目が動いた。


 アニマの肩越し。

 フレッサのいる方へ。


 アニマは半歩、横へずれた。


 男とフレッサとの間に、自分の身体を入れる。


 ここで戦えば、フレッサも巻き込む。

 彼女を狙われれば、そちらへ動かなければならない。


 その隙を、この男が見逃すとは思えなかった。


 守りながら戦える相手ではない。


「先に行け」


 言いながら、ほんの僅かに顔を向ける。


 鳥の仮面。

 その奥の目が、こちらを見ていた。


「早く」


 声が低くなった。


 フレッサの口が開く。


 だが、言葉は出てこなかった。


 仮面の奥で、視線が揺れる。


 檻へ。

 アニマへ。


 彼女の手が強く握られた。


「……訳は後で聞く」


 絞り出すような声だった。


「ああ」


 アニマは前へ向き直る。


 背後で衣擦れの音がした。


 一歩。

 また一歩。


 フレッサが下がる。


 男は動かなかった。


 アニマも動かない。


 やがて、階段を駆け上がる足音が聞こえた。


 その音が遠ざかるまで、柄を握る手を緩めなかった。


「逃がすんだね」


 男が言った。


 穏やかな声だった。


 屋敷へ侵入した者を前にしているとは思えないほど、落ち着いていた。


 アニマは答えず、腰のショートソードを抜く。


 切っ先が煌めく。


 壁。

 檻。

 男までの距離。


 目だけで確かめる。


 部屋は広い。


 背後には通路がある。

 男の向こうには檻がある。


 フロウを巻き込むわけにはいかなかった。


 檻の奥で、鎖が擦れた。


 フロウが僅かに顔を上げている。


 そちらを見続けることはできなかった。


「そのエルフを連れて帰る」


 アニマが言った。


 男は一度だけ檻へ目を向け、すぐに視線を戻した。


「それは困る」

「どけ」

「それもできない」


 短い返事だった。


 怒りも、嘲りもない。


 アニマは剣先を僅かに下げた。


 男の右手が、腰へ伸びる。


 白い柄を握った。


 刃が抜かれる。


 先手必勝。その筈が。

 動けなかった。


 静かな音だった。

 現れた剣身は、白かった。


 灯りを映しているだけではない。

 刃そのものが白く、切っ先まで濁りがなかった。


 男はそれを片手で下げた。


 自然な立ち姿。


 なのに、どこへ打ち込んでも対処される気がした。


 空間が絶え間なく切り裂かれ続けているかのような錯覚を覚える。

 達人と立ち会う時に感じるこの空気。エルヴァイスは『剣気』と呼んでいた、殺気とも違うこの気配。


 アニマは息を吐く。


 警備が少なかった。


 ここへ来るまで、ずっと不思議に思っていた。


 今なら分かる気がした。


 この男がいる。


 屋敷の主にとっては、それで十分なのだろう。


「……なるほどな」


 呟く。


 男の目が、アニマの持つ剣へ落ちた。


 続いて、腕。

 足。

 そして、仮面へ戻る。


「君は、随分と強いようだ」


 アニマは答えなかった。


 白い剣が持ち上がる。


 切っ先がこちらを向いた。


「私はレオン」


 男が名乗った。


「白剣の英雄。我が王から授かった名だ」


 英雄。


 アニマはその言葉を、胸の内で繰り返した。


 『白剣』に聞き覚えはなかったが、驚きはなかった。

 ただ、握った柄が手の中から滑り落ちないよう、指へ力を込めた。


「大人しく殺されてくれないかな。あまり長引かせたくはない」

「奇遇だな。俺も長引かせたくはない」


 レオンが足を引く。


 ほんの僅か。

 靴底が石を擦った。


 アニマも腰を落とした。


 次の瞬間。


 白い刃が、眼前にあった。


 ショートソードを跳ね上げる。


 二つの刃が激突した。


 鋭い音が、地下室に反響する。

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