13.潜入
気持ちよく書いてたらかなり長くなってしまいました。
これからは文字数気にしないことにします。
暗い倉庫街。
アニマは物陰に身を隠したまま、一度だけ自分の顔へ手を触れた。
硬い感触が返ってくる。
今、顔を覆っているのは出発前にリーフから渡された仮面だった。
『中に入るなら、顔は見られない方がいいと思うの。いくらあなた達でも、絶対に見られないとは限らないでしょう?』
そう言って差し出された二つの仮面。
アニマのものは、獅子を思わせる獣の顔を模していた。牙を見せた獰猛な造形で、目元まで深く覆われている。
『どうしてこれなんだ?』
『似合いそうだったから』
そう言われた。
何とも言えなかった。
もう一つはフレッサが着けている。
こちらは鳥を思わせる細身の仮面で、黒い外套と合わせれば夜の中へ溶け込むようだった。
アニマは物陰から僅かに顔を出す。
裏口の近く。
二人の見張り。
さらに少し離れた場所を一人が巡回している。
目で確認できるのはそこまで。
だが、アニマにはそれ以上が分かる。
静かに息を吸った。
酒。
汗。
木材。
遠くの馬。
そして、人間の匂い。
耳を澄ませる。
石畳を踏む靴音。
裏口の前に二人。
建物の中、壁一枚向こうにも一人。
さらに奥から、何人かの呼吸が聞こえる。
獣の権能。
戦場では腕力や脚力ばかりが目立っていたが、獣の持つ力はそれだけではない。
暗闇の中でも輪郭を捉える目。
遠くの音を拾う耳。
人間では分からないほど微かな匂いを嗅ぎ分ける鼻。
どれも昔から使っていた。
使う、という意識すら薄い。
歩くことや呼吸することと同じだった。
フレッサへ指を二本立てる。
裏口に二人。
続けて建物の方を指差し、一本。
中にも一人。
フレッサが頷く。
次の瞬間、二人は別々に動いた。
*****
「……ん?」
見張りの男が振り返った。
何もいない。
気のせいか。
再び前を向こうとした瞬間、背後から腕が回る。
「っ――」
声を出すより早く首を締め上げられた。
男が暴れるが、力の差が違いすぎた。
数秒。
身体から力が抜ける。
アニマは男を受け止め、地面へ音を立てないように寝かせた。
すぐ横を見る。
もう一人。
いない。
視線を動かすと、建物の陰からフレッサが姿を現した。
その足元に見張りが倒れている。
「……早いな」
「そっちが遅い」
「同じくらいだった」
「私の方が早かった」
「見てないだろ」
「見なくても分かる」
小声で言いながら、二人は裏口へ近づいた。
扉には鍵。
フレッサが懐から細い金属を取り出し、鍵穴へ差し込む。
数秒後。
小さな音がした。
「開いた」
「そんなこともできるのか」
「静かにしろ」
扉を僅かに開く。
アニマは耳を澄ませた。
一人。
すぐ近く。
足音はこちらへ向かっている。
フレッサへ指で合図する。
アニマが扉の横へ隠れた。
足音が近づく。
「おい、外の奴ら――」
扉が開く。
男が顔を出した瞬間、アニマの手が口元を塞いだ。
「――っ!?」
そのまま引き寄せ、絞め落とす。
アニマが身体を支えたまま地面へ下ろした。
「ここからは予定通りだ」
フレッサが小声で言う。
「ああ」
「私は上から入る」
裏口への侵入までが、二人で行う部分だった。
ここからアニマは一階を探索する。
フレッサは一度外へ戻り、屋根伝いに二階から侵入する。
「何かあれば合図を」
「分かった」
フレッサは来た道を戻る。
ほんの数秒後、屋根の上から微かな音。
それもすぐに消えた。
「……本当に静かだな」
アニマは呟き、建物の奥へ進んだ。
*****
一階。
薄暗い廊下の両側には大量の荷箱が積まれていた。
表向きは普通の倉庫。
樽。
布。
木箱。
商会の印が入った荷物もある。
アニマはゆっくり歩く。
足音はほとんど立てない。
角の向こう。
一人。
さらに奥に二人。
一人は座っている。
もう一人は廊下を歩いていた。
一定の間隔で靴音が響く。
見張りとして決められた場所を往復しているのだろう。
アニマは足音を聞きながら距離を測った。
一人目が角から現れる。
「……?」
何かを感じたのか顔を上げる。
遅い。
一歩で近づき、口を塞いで首を絞める。
「――っ」
そのまま物陰へ運んだ。
次。
奥の二人。
一人はまだ座っている。
もう一人。
先ほどから廊下を往復している男だった。
アニマは近くにあった小さな木片を拾い、反対側へ投げた。
乾いた音が響く。
男の足が止まった。
すぐに音のした方へ向かって歩き出す。
アニマは物陰で待つ。
男が通り過ぎた瞬間、背後へ回った。
口を塞ぎ。
絞める。
声を出す間もなく落ちる。
アニマは倒れる男を受け止める。
呻き声すらなかった。
物陰へ男を寝かせる。
最後の一人。
「おい?」
仲間が戻ってこないことに気づいたらしい。
「どうした?」
こちらへ来る。
同じように無力化した。
アニマは倒した男たちの呼吸を確認する。
死んではいない。
「……順調だな」
敵に気づかせない。
声を上げさせない。
戦闘そのものを起こさない。
正面から戦うより遥かに面倒だった。
奥に階段が見えた。
二階。
アニマは顔を上げる。
今のところ騒ぎはない。一階に奴隷達の気配はしなかった。
アニマも階段へ向かった。
*****
二階へ上がった瞬間、匂いが変わった。
血。
汗。
湿気。
そして、人間が長い間閉じ込められた場所特有の重い匂い。
アニマの眉が僅かに寄る。
廊下の奥。
一つの扉が開いていた。
そこからフレッサの声が聞こえる。
「大丈夫だ。助けに来た」
アニマが近づく。
部屋の中では、フレッサが膝をつき、一人の女性の手首を縛っていた縄を短剣で切っていた。
その周囲。
二十人ほど。
壁際に座り込んでいる。
薄汚れた服。
裸足の者。
痣の残る腕。
頭に包帯を巻いた男。
身体を寄せ合う子供たち。
アニマが入った瞬間、何人かが怯えたように身体を震わせる。
獅子の仮面。
当然だろう。
「大丈夫だ」
アニマは両手を見えるようにする。
「敵じゃない」
「こいつも味方だ」
フレッサが言う。
その言葉で僅かに警戒が緩んだ。
アニマも近くにいた男の縄を切る。
手首には長く縛られていた跡が痣として残っている。
「立てるか?」
「……多分」
「無理はするな」
周囲を見回す。
子供。
老人。
若い女。
働き盛りの男。
年齢も服装もバラバラだった。
農民らしい者。
旅人のような服を着た者。
商人らしい服の名残がある者。
ウエスタンで合法とされる奴隷は、借金や生活苦などを理由に自分の意思で身を売った者だけ。
宴の時にリーフ達からそう聞いている。
「一つ聞きたい」
アニマが近くにいた男を見る。
「自分から奴隷になったのか?」
男は少し驚いたようにアニマを見た後、首を横へ振った。
「違う……」
別の女も口を開く。
「私も……街道で馬車を襲われて」
「俺は東の村から連れてこられた」
「家族と一緒に……」
一人。
また一人。
声が上がる。
誰一人、自らここへ来たとは言わなかった。
「……完全に違法だな」
フレッサが低く言う。
「ああ」
アニマは答える。
その時。
もう一つの違和感に気づいた。
長い耳の奴隷がいない。
全員、人間だった。
「フレッサ」
「ああ」
彼女も既に気づいていたらしい。
「亜人種が一人もいない」
フレッサは近くの女性へ顔を向けた。
「エルフはいなかったか?」
「……いた」
答えはすぐに返ってきた。
「長い耳の少し背の高い綺麗な人が一人」
「どこへ行った」
フレッサの声が僅かに強くなる。
「分からない。でも……昨日、別の人たちが来て」
「昨日?」
「エルフだけ連れていった」
「すれ違ったか」
アニマが呟く。
「どこへ?」
「ごめんなさい……知らなくて」
「謝る必要はない」
フレッサが立ち上がる。
表情はほとんど変わらない。
だが、手が強く握られていた。
昨日。
フレッサが監視を離れ、リーフたちとベアのもとへ向かった時間と重なる。
「先にこの人たちを出す」
アニマが言った。
「……ああ」
「俺が後ろをやる」
「分かった」
フロウのことは気になる。
だが、今ここにいる者たちを置いていく理由にはならない。
まず助けられる者を助ける。
*****
撤退は予想以上に遅かった。
当然だった。
足を怪我している者。
長期間閉じ込められ、まともに歩けない者。
恐怖で身体が動かない子供。
フレッサは幼い子供を背負い、足を引きずる女性を支えている。
アニマは最後尾。
周囲の音を聞きながら、全員が倉庫から離れていくのを確認する。
外へは出られた。
気絶させた見張りも、まだ多くは眠っている。
その時だった。
「……う」
小さな声。
アニマが振り返る。
路地。
最初に倒した男の一人が身体を動かしていた。
「……何だ?」
ゆっくり起き上がる。
周囲を見る。
そして、アニマに気づいた。
「て、敵――」
声を上げるより先に、アニマが口を塞ぐ。
「静かにしろ」
「っ!?」
壁へ押しつける。
仮面の隙間から黄色い瞳が男を見る。
「聞きたいことがある」
男が腕を振り回す。
アニマはその手首を掴んだ。
「エルフの奴隷はどこだ」
「し、知らねえ」
小指を一本掴む。
「どこだ」
「知らねえって言って――」
力を込めた。
乾いた音。
「――っ!?」
悲鳴を上げようとした口を塞ぐ。
「静かにしろ」
次。
残った指を纏めて握り締める。
「エルフはどこだ」
「知ら――」
四本すべてを粉砕する。
男の身体が大きく跳ねる。
涙が浮かぶ。
上腕へ手をかけた。
「待て、待ってくれ」
「どこだ」
「本部だ」
手が止まる。
「どこの」
「グランツ商会の本部だ。 亜人は……珍しい奴らは本部に送られる」
「他の奴らにも聞くぞ。嘘だったら」
「いくらでも聞いたらいい、本当だ」
男は必死に頷いている。
嘘をついているようには見えない。
「分かった」
「じゃ、じゃあ――」
首筋を打つ。
男の意識が落ちた。
そして、自分の手を見る。
戦場なら情報を聞き出すために、もっと酷いこともしてきた。
今回も必要だったと思っている。
それでも。
僅かに何かが引っかかった。
考えるのは後だ。
アニマは立ち上がり、フレッサたちを追った。
*****
「遅い」
それほど時間をかけずに追いついた。
フレッサが振り返る。
「少し聞きたいことがあった」
「何か分かったか?」
「ああ。フロウは、グランツ商会の本部に送られたらしい」
フレッサの目が細くなる。
「……そうか」
それ以上は言わない。
今は止まって話す時間ではない。
フレッサの背中には子供。
片腕では足を怪我した女性を支えている。
列の後ろ。
さらに二人、かなり遅れている者がいる。
「乗れ」
「え?」
アニマは一人の男の前でしゃがむ。
「背負う」
「いや、でも――」
「急ぐ」
「……分かった」
躊躇する男を背負い、さらに歩くのも辛そうな女性を片腕で抱き上げた。
「えっ?」
「暴れると落ちる」
「は、はい」
列が再び動く。
静かな夜道。
奪われ、閉じ込められていた者たちが、一歩ずつ自由へ向かって進んでいく。
*****
リーフたちが待つ建物へ到着した頃には、夜もかなり深くなっていた。
「開けて!」
フレッサが扉を叩く。
すぐに開く。
「フレッサ!」
リーフだった。
後ろにはアルク。
テイクとケアもいる。
「中へ!」
次々と救出した者たちが運び込まれる。
床には毛布。
水。
食事。
薬。
事前に用意していたものが並んでいた。
そして部屋全体を包むように、淡い魔力の膜が広がっている。
リーフが得意らしい、結界魔法。
傷を治すものではない。
傷がこれ以上悪化するのを抑えるためのものだった。
「怪我の酷い人はこちらへ!」
ケアが声を上げる。
テイクも水と食事を配る。
アルクは入口を警戒しながら、歩けない者を部屋の奥へ運んでいた。
総出だった。
アニマも抱えていた二人を下ろす。
「ありがとう……」
女性が小さく言った。
「今は休め」
そう答え、仮面を外した。
ふとリーフを見る。
彼女は救出された人間たちを一人ずつ確認していた。
一人。
また一人。
最初は期待があった。
だが最後まで見ても、探している人物はいない。
もう一度戻る。
「……」
端からまた確認する。
「リーフ」
フレッサが呼ぶ。
返事はない。
「……いない」
小さな声。
「フロウがいない」
アニマを見る。
その目が明らかに揺れていた。
「アニマ」
「ああ」
「フロウは?」
アニマは一瞬だけ迷った。
だが、隠す意味はない。
「ここにはいなかった」
リーフの顔から血の気が引く。
「じゃあ……どこに?」
「グランツ商会の本部」
「……え?」
「フロウだけ、昨日移されたらしい」
「昨日……?」
リーフの声が掠れる。
「じゃあ、私たちがベアさんのところに行ってる間に……」
フレッサが僅かに目を伏せる。
「申し訳ありません」
「違う!」
リーフが反射的に叫ぶ。
「フレッサのせいじゃない!」
自分でも感情を整理できていないのだろう。
手を強く握りしめる。
「本部は?」
「場所は分かっています」
フレッサが答える。
「警備は?」
「ここより遥かに厳しいかと」
「なら……」
リーフがアニマを見る。
一歩、近づく。
「お願い」
声が震えていた。
「フロウを助けて」
「リーフ様」
「報酬はいくらでも、なんでも出す」
止まらない。
「時間をかけてでも、いくらでも用意するから……だから」
唇を噛む。
「お願い。フロウを助けて」
アニマは何も言わなかった。
どこまでやるべきなのか。
一瞬だけ考える。
最初の目的は、あの倉庫に囚われた奴隷を助けること。
それは終わった。
次はグランツ商会の本部。
敵の人数。
戦力。
内部。
何も分からない。
本来なら調べるべきだ。
一度休み、準備をする。
それが正しい。
だが。
心はもう決まっていた。
「報酬の話は後でいい」
リーフが顔を上げる。
「え?」
「行くなら早い方がいいだろ」
アニマはフレッサを見る。
フレッサも既にこちらを見ていた。
「ああ」
短く頷き、再び鳥の仮面を手に取る。
「リーフ様」
「……何?」
「この場をお願いします」
「フレッサ」
「必ず見つけます」
アルクも一歩前へ出た。
「俺も行くか?」
アニマは救出した人々を見る。
怪我人。
子供。
そして今にも自分で飛び出しそうなリーフ。
「ここを頼む」
「また留守番か」
アルクが苦笑した。
「お前がいないと困る」
少しだけアルクの表情が変わる。
「……分かった」
アニマは獅子の仮面を着けた。
フレッサも続く。
休んでいる時間はない。
二人は再び夜のウエスタンへ飛び出した。
*****
同刻。
グランツ商会本部。
ウエスタンでも一等地に建てられた大きな屋敷の最上階。
豪華な一室に、二人の男がいた。
「いやはや」
太った男が上機嫌に笑う。
「未だに夢を見ているようですな」
男の名はグランツ。
この商会を一代でここまで大きくした人物だった。
その向かい。
一人の男が座っている。
白。
目に入るもののほとんどがそうだった。
白い外套。
白い鞘。
淡い髪。
整った顔立ち。
その姿は物語に出てくる騎士そのものだった。
「白剣隊」
グランツが酒を口にする。
「かの精鋭部隊の名を、知らぬ者はおりますまい」
男は答えない。
「総勢百と一人。隊員一人を相手に、百人の男を束ねても敵わぬとまで謳われる」
白剣隊。
百人の隊員。
そして。
その頂点に立つ一人。
「その百人を束ねてなお敵わぬほどの実力が、隊長には求められるとか」
グランツの笑みが深くなる。
「戦場では英雄級と呼ばれる者を幾度も討ち、その功績によって国から『白剣の英雄』の名を与えられた」
男を見る。
「そのレオン殿が、我が商会を護ってくださるとは」
『白剣の英雄』レオン。
かつて白剣隊を率いた男。
今、この屋敷に白剣隊の姿はない。
いるのはレオンただ一人。
それでも。
想定できうるあらゆる危機に対して過剰な戦力だった。
「これで我が商会も安泰ですな」
レオンはグランツを見なかった。
その視線の先。
傍らに置かれた長椅子。
そこに一人の女性が眠っている。
長い銀髪。
白い肌。
穏やかに閉じられた瞳。
美しい女性だった。
レオンは手を伸ばし、その髪を優しく撫でる。
女性の瞼がゆっくりと開いた。
「……レオン」
小さな声。
その瞬間。
レオンの表情が柔らかくなる。
「ああ」
優しく微笑む。
「ここにいる」
女性は安心したように再び目を閉じた。
レオンはその頬へ触れる。
壊れ物を扱うように。
優しく。
「……グランツ殿」
「はい」
「貴方の起源魔法は」
レオンはグランツに視線を向ける。
「奇跡だ」
グランツの口元が僅かに吊り上がった。
「勿体なきお言葉です」
レオンの手が、白い剣の柄へ触れる。
「この白剣に誓おう」
静かな声だった。
「貴方を護る」
「心強い限りです」
グランツは満足そうに笑った。
そのまま酒へ手を伸ばし。
ふと。
その手を止める。
「……そういえば」
レオンが顔を上げた。
「どうした?」
「どうやら、不躾な輩が我が館を狙っているようです」
あまりに何気ない口調だった。
まるで。
少し面倒な客の訪問を思い出したかのように。
「賊か?」
「さて。そこまでは何とも」
グランツは再びグラスを手に取り、ゆっくり酒を揺らした。
「ですが、用心するに越したことはないでしょう」
レオンの目が僅かに鋭くなる。
「何をすればいい」
「簡単なことです」
グランツが笑う。
「今から言う場所を、護ってもらえますか?」
レオンは僅かに考え、立ち上がった。
「分かった」
白い外套が揺れる。
眠れる女性を一瞥し。
白剣を佩き。
部屋を出ていく。
扉が閉じた後。
グランツは一人、酒を口へ運んだ。
「さて」
笑みは消えていない。
「エルフの関係者であれば、僥倖だな」
口髭が揺れる。
血のような酒が月明かりを反射していた。




