第9話「飲み会という名の、修羅場」
会社の飲み会というのは、普段と違う自分が出やすい場所だ。
桐嶋一哉はそれを、入社して初めての飲み会で身をもって学んだ。
会場は駅前の居酒屋で、参加者は二十人ほど。テーブルがいくつか並んでいて、好きな席に座る形式だった。
一哉は「どこでもいい」と思いながら席を探した。
気づいたら、翠の隣に座っていた。
座ってから三秒後に気づいた。翠の隣だ。なぜここに座ったのか。空いていたからだ。空いていた席は他にもあった。なぜここを選んだのか。
(考えるな)
翠が「あ、一哉くん」と言った。
「隣、いいですか」と一哉は言った。
「もちろんです」と翠は言った。
もう遅い。座った。これが現実だ。
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乾杯が終わって、しばらく経った頃、営業三課の田村さん(三十歳・体育会系・声が大きい)が翠に話しかけてきた。
「橘さんって帰国子女なんだって? 英語ペラペラなんでしょ? かっこいいな」
「ありがとうございます」と翠が答えた。
「海外の話、聞かせてよ。どこにいたの?」
「小学校からニュージーランドで、高校までいました」
「えー、すごいじゃん。ねえ、英語で何か言ってみてよ」
一哉は自分のグラスを見ていた。関係ない。翠が誰と話していても、関係ない。俺は隣に座っているだけだ。
(関係ない)
翠が笑いながら英語で何か言った。田村さんが「かっこいい!」と手を叩いた。
(関係ない)
田村さんが「今度飲みに行こうよ、英語教えてよ」と言った。
一哉は「関係ない」と思いながら、なぜか箸を持つ手に力が入った。
「橘さんって英語の他に何語話せるの?」
「英語と日本語だけですね。あと少しだけフランス語を」
「フランス語も?! すごいな、俺なんか日本語しかわからないよ。なあ桐嶋、お前英語できるんだろ?」
田村さんが急に一哉に話を振ってきた。
「……まあ」
「じゃあお前と橘さん、社内最強ペアじゃん。なんかいい感じだよな、二人」
田村さんがそう言って笑った。悪意のない笑いだった。
翠が「そうですね」と言った。
翠の「そうですね」の意味を、一哉は三通りに解釈できた。「仕事上のペアとして」「そう言われると照れるという意味で」「特に深く考えずに」の三択だった。どれかはわからない。でもなぜか、一番目以外であってほしいと思った。
(これは確実にアウトだ)
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飲み会も中盤になった頃、他部署の先輩社員が一哉に声をかけてきた。
「桐嶋くん、英語の神様って聞いたよ。すごいね」
「……そんなことは」
「謙虚だな。実はさ、今度うちの部署で英語のプレゼンがあって、ちょっとアドバイスもらえない?」
一哉は翠を見た。翠と目が合った。
翠がごく自然に会話に入ってきた。
「その案件、どんな内容ですか? もしよければ私も一緒に聞きます」
先輩社員が「じゃあ二人で」となった。翠が内容を聞き、一哉がうなずく。一哉が「この方向性でいいと思います」と言い、翠が具体的な表現を補足する。傍から見れば完璧なペアだった。
さくらが斜め向かいの席から、ニヤニヤしながら二人を見ていた。
(さくらさんが笑っている。良くない)
一哉はさくらと目が合った。さくらが小さく手を振った。
良くない。
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一哉がふと横を見ると、翠のグラスが空だった。
誰も気づいていなかった。田村さんは別の話をしていた。さくらは向こうの人と喋っていた。
一哉はビールのジョッキを手に取って、翠のグラスに注いだ。
特に考えていなかった。ただ、空だったから。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
それだけだった。
しばらくして、さくらが一哉に小声で言った。
「桐嶋くん、橘さん以外のグラス、全然気にしてないよね」
一哉は周りを見た。確かに、他の人のグラスが空になっているのに気づいていなかった。
「……」
「橘さんのだけ、三回目だよ」
三回目。
一哉は自分がそんなに翠のグラスを気にしていたことを、今初めて認識した。認識してみると、確かにそうだった。翠のグラスが減ると、なんとなく気になっていた。誰かに頼まれたわけでも、役割があるわけでもなく。
「……気づいてなかったです」
「そうだね」
さくらがニヤニヤしながら自分のグラスを飲んだ。
「私のグラスも空なんだけど」
「……すみません」
一哉は慌ててさくらのグラスにも注いだ。さくらが「まあいいけど」と言って笑った。
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飲み会が終わって、店の外に出た。
参加者が三々五々に分かれていく中、翠が一哉の隣に立った。
「今日、楽しかったです」
「……俺も」
「また一緒に飲みたいですね」
翠がそう言って、少し笑った。夜の街灯の下で、翠の顔がはっきり見えた。
一哉は「はい」と言った。
それだけの会話だった。でも翠が駅に向かって歩いていくのを見送りながら、一哉は「また一緒に飲みたい」という言葉が、頭の中から出ていかないことに気づいた。
帰りの電車の中で、一哉はTOEICアプリを開いた。二十五問解いた。十八問合っていた。
閉じる前に、一秒だけ「また一緒に飲みたい」という翠の言葉を思い出した。
それから閉じた。
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翌朝、出社すると翠がすでに席にいた。
「おはようございます。昨日楽しかったですね」
「おはようございます。そうですね」
「一哉くん、お酒あんまり飲まないんですか?」
「……飲みますけど、昨日はあんまり」
「翠さんのグラスを気にするのに忙しかったからでしょ」
さくらが通りかかりながら言った。
一哉が振り返ると、さくらはもう自分の席に向かって歩いていた。
翠が「え」という顔をして、一哉を見た。
「……私のグラス?」
「……気づいたら空だったので」
「そうなんですか」
翠が少し考えるような顔をした。それから「ありがとうございました」と言った。
「いえ」
「なんか……嬉しいです」
翠がそう言って、画面に向き直った。
一哉も画面に向き直った。
さくらの席から、かすかにクッキーの袋の音がした。




