第8話「差し入れが、捨てられない」
翠が差し入れを持ってきたのは、月曜日の朝だった。
「週末に実家に帰ったら、お土産があって」
小さな紙袋を差し出された。中に個包装のクッキーが三枚入っていた。
「ありがとうございます」
「いつもお世話になってるので」
翠はそう言って、自分の席に戻った。
一哉はクッキーの袋を机の上に置いた。
それが月曜日だった。
火曜日になっても、クッキーは机の上にあった。
水曜日になっても、あった。
木曜日の昼頃、さくらが「桐嶋くん、それまだ食べてないの?」と言った。
「……食べます」
「食べなよ」
さくらが不思議そうな顔をして去った。
一哉はクッキーを見た。食べる理由はある。食べない理由は……正直に言えば、ない。では、なぜ四日間、手をつけていないのか。
(……食べると、なくなるから)
一哉は三秒後に「俺はどうかしている」と思った。
クッキーを食べると翠からもらったものがなくなる、という理由で食べずにいた。大人がすることではない。二十四歳のやることではない。
一哉はクッキーを一枚、開封した。食べた。おいしかった。
残り二枚は、引き出しにしまった。
(まだどうかしている)
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その週、翠との共同作業が増えた。
さくらが「この案件、二人でやって」と振ってくる頻度が上がっていた。翠と一哉のペアが「効率がいい」という認識が定着したらしい。確かに、翠が英語を読んで、一哉が日本語に整える、という分業は機能していた。
問題は、機能するたびに一哉の嘘の根が深くなることだった。
仕事がうまくいくたびに、翠の信頼が増す。信頼が増すたびに、言えなくなる。これがフェーズ4だかステップ5だかは知らないが、「訂正不可能な規模」に近づいている感覚だけはあった。
水曜日の夕方、二人で案件のまとめをしていたとき、翠が言った。
「一哉くんって、英語の仕事以外でも頼りになりますよね」
「……英語の仕事でも頼りになってますよ」と一哉は言った。
「そうですけど、なんか……全体的に、いるとほっとするというか」
一哉は手が止まった。
「……ほっとする?」
「なんか変ですかね」
「変じゃないですけど」
一哉は画面を見た。「いるとほっとする」という言葉が、頭の中で収まる場所を探していた。
(翠さんが俺に「ほっとする」と言っている)
(これは仕事上の話として言っているはずだ)
(……本当にそうか?)
(考えるな)
「私、日本での仕事に慣れるの、思ったより大変で」と翠は続けた。「英語は大丈夫なんですけど、日本のビジネスって独特なところがあって。一哉くんがいてくれると、なんか、安心するんですよね」
仕事の話だった。ちゃんと仕事の文脈があった。
でも「いるとほっとする」「いてくれると安心する」という言葉は、一哉の中で、仕事の文脈をやや超えたところで響いていた。
「……俺も」
一哉は言いかけて、止まった。
「俺も?」
「翠さんと仕事するのは、やりやすいです」
それは本当だった。翠がいるから嘘が維持できている、という意味でも、翠と話すのが好きだ、という意味でも。両方が本当だった。
翠が「よかった」と言った。
それだけだった。でも翠の「よかった」の顔が、なんか嬉しそうだった。
一哉はそれを、ちゃんと見てしまった。
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木曜日の夕方、さくらに呼び止められた。
「桐嶋くん、ちょっといい?」
「はい」
さくらが少し声を落として言った。
「橘さんって、一哉くんのこと好きだと思うよ」
一哉は三秒、固まった。
「……英語力の話ですよね」
「……どっちもそうかもしれないけど」
さくらがまっすぐに言った。
「英語の話はしてないよ」
一哉はさくらを見た。さくらはいつもお菓子を持ちながら軽い調子で喋る人間だが、今は手に何も持っていなかった。そのことが、なぜか妙に真剣な文脈を作っていた。
「……俺には」
「うん」
「……わからないです」
「そう」
さくらは一秒だけ一哉を見て、それから「まあ、焦らなくていいけど」と言った。
「気づくタイミングっていうのが、あるから」
それだけ言って、さくらはお菓子を取りに自分のデスクに戻った。
一哉は「気づくタイミング」という言葉を頭の中に置いた。
気づく、か。
気づいていないわけではない。気づいていて、考えないことにしていた。でも「考えないことにする」の棚が、最近、容量を超えつつある。
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金曜日の夜、一哉はTOEICアプリを開いた。
今日は二十問解いた。十四問合っていた。
それからメモ帳を開いて、今週翠から教わったことを書き留めた。法律英語の表現、メールのトーン調整の考え方、クライアントの種類によって文体を変える話——
書きながら、一哉は思った。
これはもう「嘘のための勉強」ではないかもしれない。
翠に教わったことを整理して、次に使えるようにしておく。それ自体は、ただの勉強だ。動機がどこから始まったかは別として、今やっていることの中身は本物だった。
でも嘘はまだある。嘘の上に、少しずつ本物が積み重なっている。その状態に名前をつけるなら——
(引き出しのクッキーが、まだ二枚ある)
一哉はメモ帳を閉じた。
翠からもらったクッキーを、全部食べられない理由について、今夜は考えないことにした。
でも「考えないことにする」と決めるのに、今日は少し時間がかかった。




