第7話「伝説になってしまった」
社内の共有フォルダに、「新人向け・英語コミュニケーション実践メモ」というファイルが存在することに、桐嶋一哉が気づいたのは木曜日の朝だった。
田中くんが送ってきたチャットに「参考になると思って共有しました!」と書いてあり、リンクが貼ってあった。
一哉は開いた。
そこには以下のような内容が書いてあった。
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【英語でのコミュニケーション:間の活用法】
英語圏では、即答よりも「間」を活用することで、相手に思考の余地を与え、議論の質を高める手法が広く用いられている。桐嶋先輩はこの手法を自然に実践しており、会議での発言の少なさと質の高さはそこに起因すると考えられる。
実践ポイント:①すぐに答えない ②相手の言葉を反復する("That's right." 等) ③核心的な一言で締める
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一哉は画面を三十秒見つめた。
(俺は何をしたんだ)
田中くんに悪意はない。これが一番つらい。田中くんは本当に「後輩の役に立てた」と思ってこのメモを書いた。そのメモが四十人いる全社員の共有フォルダに入っている。
チャットの通知が来た。営業三課の誰かが「参考になります!」とスタンプを押していた。
さくらが一哉の席に来た。今日はクッキーを持っていた。
「桐嶋くん、見た? 田中くんのメモ」
「……見ました」
「伝説になってきてるよ」
さくらが笑いながら言った。本当に楽しそうだった。
「……止めてください」
「え、なんで?」
「なんでって……」
「止める理由が見つからないんだけど」
さくらはクッキーを一哉の机に置いて、するっと去った。
一哉は「止める理由が見つからない」という言葉を嚙みしめた。見つからないのは俺も同じだ。俺がいまここで「あのメモは事実ではない、俺はただ聞き取れなくて黙っていただけだ」と言えれば止まる。でも言えない理由が山ほどある。
その理由の一番上に「翠さんに知られる」があることに、一哉は今日初めて気づいた。
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午前中、福田さんから呼ばれた。
契約書の最終確認だった。翠と二人で仕上げたものを、福田さんが先方と照合した結果、「問題なし」という返答が来たらしい。
「桐嶋くん、橘さん、ありがとう。先方も満足してくれた」
「よかったです」と翠が言った。
「桐嶋くんは法律英語も読めるんだな。頼もしいよ」
「……ありがとうございます」
(翠さんがいなければ俺には一行も読めませんでした、とは言えない)
「また何かあったら頼む」と福田さんは言い、去った。
廊下に翠と二人になった。
「よかったですね」と翠が言った。
「翠さんのおかげです」
「二人のおかげです」
翠が一哉を見て、少し笑った。「二人の」という言葉が、なんでもない言い方だったのに、一哉の胸のどこかに引っかかった。
(二人の、か)
(考えるな)
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昼過ぎ、フロアに戻ると、翠が他の部署の男性社員と話していた。
一哉は自分の席に向かいながら、「関係ない」と思った。
関係ない。翠が誰と話していても、俺には関係ない。俺と翠は同期の同僚で、仕事上でペアを組んでいるだけで、それ以上でも以下でもない。
席についてパソコンを開いた。
目線が、気づいたら翠の方向に向いていた。
翠は笑いながら話していた。相手の男性社員も笑っていた。和やかな会話だった。
(関係ない)
一哉はメールを開いた。件名を読んだ。内容が頭に入らなかった。
もう一度、翠の方向を見た。
翠はまだ話していた。相手の男性が何か言い、翠が少し考えてから答えていた。翠が「考えてから答えている」のが見えた。
(翠さん、俺に話しかけるときは考えてから答えない)
一哉は、その観察が自分の頭の中から出てきたことに、一拍遅れて気づいた。
(……なんで俺そこを見てるんだ)
比べている。
俺は今、翠さんが他の人間と話すときと、俺と話すときを、比べている。しかも俺との会話を「基準」にして、他が「違う」と感じている。
(これは客観的な観察ではない)
一哉はメールに視線を戻した。戻したが、三行読んで翠の方向をまた見た。
翠の会話が終わったらしく、相手の男性が去った。翠が席に戻ってきて、画面を開いた。それだけだった。
(それだけだ)
(なのに、なんかほっとした)
一哉は自分の感情を、五秒間、正直に観察した。
そして「これは確実にアウトだ」と思った。
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夕方、翠が「今日も一緒に帰れますか?」と声をかけてきた。
先週の帰り道が、翠の中では「一緒に帰る」という記憶になっていたらしい。
「……はい」
二人で並んで駅に向かった。先週と同じ道だった。でも今日は、一哉の心臓がずっと余計な動きをしていた。
「一哉くん、今日なんか静かですね」
「……いつもこんな感じじゃないですか」
「いつもより静か」
翠が横を向いた。一哉と目が合った。
「考え事ですか?」
「……少し」
「仕事のことですか」
「……まあ」
嘘だった。今日初めて、仕事と関係のない嘘をついた。
翠が「そうですか」と言って、前を向いた。
「悩んだときは、言ってくださいね」
「……翠さんに言えることなら」
一哉はそう言ってから、しまった、と思った。これは少し正直すぎる。
翠が「言えないこともあるんですか」と聞いた。
「……ある、かもしれないです」
翠はしばらく黙って歩いた。信号が青になった。二人で渡った。
「私も、言えないこと、あります」
翠がぽつりと言った。
一哉は翠を見た。翠は前を向いていた。
「英語のことじゃなくて?」
「英語のことじゃないです」
それ以上、翠は何も言わなかった。一哉も聞かなかった。
改札で「おやすみなさい」と言って、別れた。
電車の中で、一哉はさっきの「私も、言えないこと、あります」という翠の言葉を、頭の中で何度か繰り返した。
翠の「言えないこと」が何かは、わからない。でも一哉の「言えないこと」は、二種類になっていた。
英語ができないこと。
それと、もう一つ。
電車が揺れた。一哉は窓の外を見た。答えを出すのは、もう少し先にしようと思った。でも「もう少し先」が、だんだん近づいている気がした。




