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英語ペラペラのふりをしていたら、英語ペラペラの彼女に惚れられた件  作者: 螺旋


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第6話「謝られた話と、心臓の話」

翠が謝ってきた。


 火曜日の朝、出社して席についた五分後のことだった。


「一哉くん、昨日のこと」


「昨日?」


「残業させちゃってること、私のせいだなって。英語の相談が増えたのも、私が最初に一哉くんに頼んだから」


 翠は真っ直ぐな顔でそう言った。責めているわけでも、取り繕っているわけでもない。ただ本当にそう思っている、という顔だった。


 一哉は三秒かかった。


「……違います」


「でも」


「橘さんが最初に頼んでくれたのは、俺が英語得意って言ったからで」


 言いかけて、止まった。


 その先を続けると「俺が嘘をついたからです」になる。


「……俺の問題です。橘さんのせいじゃない」


 翠が一哉を見た。少し首を傾けた。


「一哉くんってなんか、自分が悪いって方向にすぐ考えますよね」


「……そうですか」


「謙虚なのか、自罰的なのか、どっちなんだろうって思ってました」


 謙虚ではない。自罰的でもない。ただ正確なのだ。悪いのは俺だ。でもその理由は言えない。


「どっちでもないと思います」


「じゃあ何ですか」


「……正直なだけです」


 翠が「ふうん」と言った。それから少しの間、一哉の顔を見た。


「正直な人なんですね」


 一哉は「はい」とは言えなかった。


 翠は「とにかく、ありがとうございます。助かってます」と言って、自分の席に戻った。


 一哉はしばらく「正直な人なんですね」という言葉を、頭の中で転がした。


 転がせば転がすほど、刺さった。


---


 その日の午後三時、事件が起きた。


 営業三課の福田さん(四十五歳・部長クラス・英語が壊滅的らしい)が、わざわざ一哉のフロアまで来た。


「桐嶋くんだね。田中くんから聞いたよ」


「は、はい」


「英語の契約書なんだが、見てもらえるか。来週、先方との確認がある」


 契約書。


 一哉の思考が一瞬、真っ白になった。


 メールとは違う。契約書には法律用語がある。whereas とか、notwithstanding とか、indemnify とか——大学でちょっとだけかじって即座に諦めた単語たちが、脳内を走った。


「……少し時間をいただけますか」


「もちろん。今週中で頼めるか」


「わかりました」


 また言った。言ってしまった。


 福田さんが去った後、一哉は翠の席に行った。


「橘さん、ちょっといいですか」


「どうしました?」


「……これ、一緒に見てもらえますか」と言って、契約書のデータを見せた。


 翠が画面をスクロールした。三秒後に「法律英語ですね」と言った。その顔が、やや真剣だった。


「私も法律英語は専門じゃないので……でも一緒に読みます。わからないところは調べながら」


「助かります」


「一哉くんは法律英語、得意ですか」


 一哉は一秒止まった。


「……専門ではないです」


 これは嘘ではない。TOEIC430点の人間に「専門」などというものはない。


「じゃあ二人で頑張りましょう」と翠は言った。


 二人で頑張りましょう、という言葉が、なぜかちょっとだけ嬉しかった。


(嬉しいと思うな。この状況のどこに嬉しい要素があるんだ)


 一哉は自分にそう言い聞かせた。効果はなかった。


---


 翌日の夕方、翠と並んで契約書を読んでいた。


「この whereas って、『〜であるところ』って意味なんですよ。前文で背景を説明するときに使う定型表現で」


「なるほど」


「indemnify は補償する、みたいな。賠償責任の話してるときに出てくる」


「……なんか、翠さん詳しいですね」


「調べました、今朝」


 翠が画面から目を離さずそう言った。さらっと言ったが、要するに朝から予習してきたということだった。


「俺も調べました」と一哉は言った。


「知ってました」


「え?」


 翠が一哉を見た。


「昨日の帰り際に、一哉くんが法律英語の本を机に出してたの見えたので」


 一哉は言葉に詰まった。確かに昨日、古本で買った英文契約書の教本を机に出した。翠の席からは見えないと思っていた。


「……見てたんですか」


「たまたまです。でも、嬉しかったです」


「……嬉しい?」


「一緒に頑張ってくれてるんだなって」


 翠が少し笑った。画面を向いた顔のまま、笑った。


 一哉の心臓が、また余計な動きをした。


 今回は一回ではなかった。二回、余計に動いた。


(増えてる)


(なんで増えてるんだ)


「……続き、読みますか」と一哉は言った。声が少し低くなった気がした。


「はい」と翠は言った。


 二人で画面を見た。窓の外が暗くなっていた。フロアには他に三人しかいなかった。キーボードの音と、空調の音だけがあった。


 一哉は契約書の文字を目で追いながら、心臓の余計な動きを無視しようとした。


 無視できなかった。


---


 夜九時頃、翠が「今日はここまでにしましょう」と言った。


 二人でエレベーターに乗った。ビルの一階で、翠が「どっち方向ですか?」と聞いた。


「渋谷方向です」


「あ、私も」


 二人で駅まで歩いた。十分くらいの道のりだった。


 会話は、契約書の話と、お互いの大学の話と、入社してからの話だった。特別なことは何も起きなかった。ただ歩いて、話して、改札のところで「おやすみなさい」と言った。


 それだけだった。


 一哉は電車に乗りながら、その「それだけ」が、なぜか頭の中で鮮明に残っているのに気づいた。


 翠が笑ったタイミング。翠が「一緒に頑張ってくれてるんだなって」と言ったときの顔。改札で翠が振り返った角度。


(全部覚えてる)


 一哉は窓の外の暗闇を見た。


(なんで全部覚えてるんだ)


 答えはわかっていた。わかっていたから、考えないことにしていた。でも今夜は、電車の揺れの中で、その答えが輪郭を持ち始めた。


 一哉はスマホを取り出した。TOEICアプリを開いた。


 今夜は十問解いた。六問合っていた。先週より五問多かった。


 窓に映った自分の顔が、少し真剣な顔をしていた。

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