第5話「英語の神様、他部署に召喚される」
俺は今、英語ができないことを隠すために、英語の相談を受け続けている。
文章にすると意味がわからない。でもこれが現実だった。
入社三週間目の月曜日、桐嶋一哉のデスクに付箋が貼ってあった。
「桐嶋さん、英語メールの件でご相談したいです。営業二課・吉田」
営業二課というのは、一哉とは別のフロアだった。つまり顔も知らない人間から英語相談が来ている。
一哉は付箋を三秒見つめた。
(田中くんだ。田中くんが広めた)
田中くんは悪い子ではない。ただ、情報の伝達速度が異常に早い。先週の「間の使い方」から一週間も経たないうちに、英語の神様の噂が社内を一周してしまったらしい。
「桐嶋くん、有名になってきたね」
さくらがお菓子を持って通りかかった。通りかかりながら言う。この人は常にお菓子を持ちながら重要なことを言う。
「……なんで宮本さんが把握してるんですか」
「田中くんから聞いた。営業二課の吉田さんって、英語メールで困ってることが多いらしくて。桐嶋くんなら解決できるって」
「俺は」
「頼もしいよね、ほんとに」
さくらはそう言って去った。お菓子の袋がかさかさと音を立てた。
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昼前、吉田さん(三十二歳・営業二課・困り顔)が一哉の席に来た。
「桐嶋さん、突然すみません。ちょっとだけいいですか」
「……どうぞ」
吉田さんが見せてきたのは、海外取引先へのクレーム対応メールだった。英語で書かれていて、内容は「納期が遅れた理由の説明と、今後の対応方針」だった。
一哉は画面を見ながら、脳内で翻訳ツールを起動した。
(落ち着け。まず読む。……読んだ。だいたいわかった。問題は「ニュアンスとして適切か」という判断だ)
このとき一哉がとった行動は、完全に偶然の産物だった。
「吉田さん、これ翠——橘さんに一緒に見てもらいますね」
「あ、橘さんって帰国子女の方ですよね」
「はい。俺が大筋を確認して、橘さんに英語表現のチェックをしてもらう形で」
これは第二話以来の定番手順になりつつあった。翠に頼む。翠が答えを出す。俺がそれを「確認」という形で提示する。三段リレー。
翠に「吉田さんのメール、一緒に見てもらえますか」と声をかけると、翠はすぐに「もちろんです」と言った。
三人で画面を囲んだ。翠がメールを読み始めた。
「このフレーズ、少し攻撃的に聞こえるかもしれないですね。We apologize for the inconvenience のあとに、具体的な再発防止策を先に書いたほうが誠意が伝わりやすいです」
「なるほど」と一哉は言った。
「一哉くんはどう思いますか」と翠が聞いた。
「……そうですね、橘さんの言う通りだと思います。あと、冒頭の件名も少し変えたほうがいいかもしれない」
これは翠がさっき画面を見ながら「件名も気になる」という顔をしていたのを、一哉が察知して先手を打ったものだった。英語力ではなく、翠の表情を読む能力だった。
「そうなんです、件名も気になってて」と翠が言った。
吉田さんが「お二人すごいですね」と言った。
一哉は「ありがとうございます」と言った。
何がすごいのかは、正確にはわからない。
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吉田さんが帰った後、一哉はデスクに戻って自分のメモ帳を開いた。
そこには、今週来た英語相談の内容と、翠から得た回答のエッセンスが、びっしりと書いてあった。「クレームメール:謝罪→再発防止→感謝の順」「件名には具体的な案件名を入れる」「please は丁寧だが多用すると弱く見える」——
翠に聞いた内容を、一哉なりに整理してストックしているのだった。次に同じ系統の質問が来たときに、翠を挟まなくても答えられるように。
これは完全に「嘘を維持するための勉強」だった。
(俺は今、英語力を向上させるために英語を勉強している。しかし動機が不純である。でも結果として英語に詳しくなっているのは事実である。これは……どういう評価をすればいいんだ)
一哉がそのメモを見ながら考えていたとき、視界の端に人の気配がした。
振り返ると、翠が立っていた。
翠の目が、メモ帳に向いていた。
「……そんなにまとめてるんですか」
一哉の手が、反射的にメモ帳を閉じた。
翠が少し目を丸くした。
「見られたら困ることが書いてありました?」
「……いえ」
「なんか、恥ずかしそうな顔してましたよ」
一哉は「恥ずかしいんじゃなくて」と言いかけた。恥ずかしいんじゃなくて、このメモの正体を知られたら終わる、と言うわけにはいかない。
「……勉強したことをまとめてただけです」
「見せてもらってもいいですか」
「……次の機会に」
翠は一秒だけ一哉の顔を見た。それから「わかりました」と言って、自分の席に戻った。
一哉はメモ帳をデスクの引き出しの奥にしまった。
(翠さんに見られた瞬間に隠した。なぜか。このメモには翠さんから聞いた知識が書いてある。つまり翠さんには出所がわかる。つまり俺が「教えてもらった内容を使っている」とバレる。だから隠した)
(……いや、待て。それだけか?)
一哉はその問いを、保留にした。答えを出すと何かが変わる気がした。
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夜、残業していた。
英語相談のメモを更新していた。フロアは静かで、ほとんどの人間が帰っていた。
「まだいたんですか」
翠の声がした。
コートを着た翠が、一哉の席の前に立っていた。帰ろうとしていたらしい。
「橘さんこそ」
「私は今日、早めに上がるんです。一哉くんは?」
「もう少し」
翠が一哉のデスクを見た。メモ帳が開いていた。さっきとは別のページだったが、びっしりと文字が書いてある。
「……そんなに頑張ってるんですね」
翠の声が、少しだけ柔らかかった。
「私のせいで相談が増えちゃって、大変じゃないですか」
「大変じゃないです」
また即答してしまった。
翠が「また即答した」という顔をして、小さく笑った。
「一哉くんって、大変なときに大変って言わないですよね」
「……そんなことないです」
「でも言わない」
一哉は返せなかった。翠が正確なことを言っているからだ。大変かどうかと聞かれたら、正直に言えばかなり大変だ。でも「大変です」と言った瞬間に、なぜ大変なのかを聞かれる。そこから先は言えない。
「……橘さんとの仕事は、大変じゃないんで」
言ってから、これも正直すぎると思った。
翠が一哉を見た。一哉は画面を見た。
「……おやすみなさい」と翠は言った。
「おやすみなさい」と一哉は言った。
翠の足音が遠ざかった。エレベーターのドアが閉まる音がした。
一哉はメモ帳を見た。
「橘さんとの仕事は、大変じゃない」
書いたわけではない。でも頭の中に残った。
これが仕事の話として正確かどうかは、今夜は考えないことにした。




