第4話「フェーズ1、完全に終わる」
入社二週間目に入ったところで、桐嶋一哉は現状を整理した。
①「英語の神様」という認識が社内に定着しつつある
②後輩から間の使い方を教わりたいと言われた
③翠が「格好いい」と言ったことを、まだ引きずっている
①と②は深刻な問題だ。③は……考えないことにする。
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その日の昼前、部長に呼ばれた。
「桐嶋くん、次の大きい案件、英語周り任せていいかな」
「……あの、俺はまだ新人で」
「謙虚だねえ。でも宮本さんから聞いたよ、先週の会議も完璧だったって。翠ちゃんとうまく組んで仕事してるみたいだし」
翠の名前が出た瞬間、一哉の思考が一瞬止まった。
(それは③ではないのか。考えないことにしたのではないか)
「……はい、わかりました」
また言ってしまった。
部長室を出た後、一哉は廊下で五秒止まった。「英語の大きい案件」が何かはわからない。でも「大きい」という言葉の規模感だけは伝わった。これは今までとは違う。翻訳ツールと相槌でどうにかなるサイズではないかもしれない。
一哉は自分のデスクに戻り、スマホで翻訳ツールの精度比較記事を読み始めた。
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昼休み、翠が「一緒に行きませんか」と声をかけてきた。
近くのコンビニに二人で向かいながら、翠が言った。
「一哉くん、英語の仕事増えてきましたね」
「……まあ」
「大変じゃないですか? 私のせいで最初に巻き込んじゃったし」
「大変じゃないです」
即答した。早すぎた。翠が少し驚いた顔をしたので、一哉は続けた。
「翠さんが仕事持ってきてくれるの、嫌いじゃないんで」
言ってから気づいた。これはかなり正直なことを言ってしまった。嫌いじゃない、というのは——
「……仕事の話として、ですけど」
「わかってますよ」
翠が笑った。
一哉は「わかってます」という翠の言葉を、なぜかちょっとだけ残念に思った。それに気づいた瞬間、「俺はどうかしている」と思った。
(嫌いじゃない、か)
(仕事の話として、と訂正したが、それが本当に仕事の話だったかどうかは、今は考えないことにする)
コンビニのガラス扉が風で揺れた。翠が先に入っていった。一哉は一秒遅れて後を追った。
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午後の三時頃、さくらが一哉の席にやってきた。お菓子を置いていく。いつものことになりつつある。
「桐嶋くん、ちょっといい?」
「はい」
「英語の案件って、翻訳の確認作業が多いじゃない。橘さんと桐嶋くんで組んでやってもらうのが一番効率いいと思うんだけど」
「……翠さんと?」
「うん。橘さんは英語→日本語の変換は完璧なんだけど、日本語のビジネス表現がまだ不安定で。桐嶋くんが日本語側を担当して、英語のニュアンスも見てもらえれば最強じゃない」
一哉は三秒考えた。
この提案の構造は、ある意味で正確だった。翠が英語を読み、一哉が日本語を整える。実態として一哉がやっていることは「翠が読んだ英語を日本語で整えること」だけなので、役割が明確になるだけで、むしろ嘘がバレにくくなる。
しかし問題もあった。翠と組む時間が増える。それが問題かどうかは——
(考えるな)
「……わかりました」
「よかった。橘さんにも話しておくね」
さくらが立ち上がった瞬間、一哉は「あ」と思った。
「宮本さん、田中くんに英語圏式コーチングの話、したの宮本さんですか」
「あー、したした。なんか桐嶋くんのあの会議の立ち回り、すごくよかったから。後輩の参考になると思って」
「……あれは」
「え?」
「……いえ。なんでもないです」
一哉は口をつぐんだ。「あれはただ黙っていただけです」と言いかけたが、言えなかった理由が自分でもよくわからなかった。翠と組む話が決まった後に言うのが、なんとなくタイミングとして最悪な気がした。それだけだ。それだけのはずだ。
さくらが去っていった。
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夕方五時を過ぎた頃、翠が一哉の席に来た。
「さくらさんから聞きました。一緒に組んでもらえるって」
「はい」
「ありがとうございます。正直すごく助かります」
翠が言った。本当に嬉しそうな顔だった。
「私、日本語のビジネス表現、まだ自信なくて。英語は大丈夫なんですけど」
「……翠さんの日本語、問題ないと思いますけど」
「そうですか?」
「普通に話してる分には、全然わからない」
「でもメールとか書くと、なんか堅くなりすぎちゃうんですよ。一哉くんに見てもらえると安心なんです」
翠がそう言って、少しだけ笑った。安心、という言葉が、思ったより真っ直ぐ届いた。
一哉は「はい」と言った。それ以上の言葉が出てこなかった。
(翠さんの日本語は問題ない。問題があるのは俺の英語だ。でも翠さんは俺のことを、英語も日本語も両方できる人間だと思っている)
(安心、か)
一哉は帰りの電車の中で、スマホを開いた。翻訳ツールの比較記事を閉じて、代わりにTOEIC対策のアプリをダウンロードした。
なんとなく、そうしなければならない気がした。理由を言葉にはしなかった。でも「翠さんに安心させてもらっているのに、俺は嘘をついたままでいる」という感覚は、今日初めてはっきりした。
アプリの最初の問題を解いた。
三問中、一問しか合っていなかった。
一哉は画面を閉じた。
窓の外の夜景が流れていった。
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翌日の朝、出社すると翠がすでに席にいた。画面を見ながら何か打ち込んでいる。一哉が「おはようございます」と言うと、翠が顔を上げた。
「おはようございます。一哉くん、これ見てもらえますか。昨日の夜書いたんですけど」
また来た。今日も来た。そして一哉は今日も「わかりました」と言うだろう。
でも、今日はそれが少しだけ違う重さで、胸のあたりにあった。
翠のメールを受け取りながら、一哉は思った。
(いつまでこれを続けるんだろう)
答えは出なかった。でも問いが生まれたことは、昨日までと違った。
フェーズ1が終わった、とは一哉は気づいていない。でも何かが変わり始めている、とは感じていた。




