第3話「英語圏式コーチング、と呼ばれた件について」
宮本さくらという人間は、悪意がないぶん質が悪い。
桐嶋一哉はそれを、木曜日の午後に学んだ。
会議室に向かう廊下で、さくらが一哉に言った。
「桐嶋くん、今日の先方って英語オンリーだから。よろしくね」
「あの、宮本さん。俺は補佐的な立場で——」
「うんうん、頼りにしてるよ」
聞いていなかった。
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ハリスン映像という名の、ロサンゼルス系の会社だった。担当者は四十代の男性で、「Hi, how's it going?」と軽い調子で挨拶してきた。
一哉の脳内翻訳が走る。「やあ、調子はどう?」——これはわかった。問題はこの後だ。
「Good, thank you」
一哉は言えた。これは言えた。TOEIC430点でも言える。
問題は次の三十分間だった。
担当者のマイク・ブラウンは早口で、しかも時折スラングを混ぜる。一哉の聴解率は入社初週の外国人会議を下回った。体感四割。つまり六割は宇宙語だった。
一哉はこの状況への対処法をすでに確立しつつあった。
①黙る ②翠を見る ③翠がメモしたことをさりげなく確認する ④それっぽく相槌を打つ
今日は翠がいない。一哉は内心で「詰んだ」と思った。
しかし三秒後には「まあ黙ってればなんとかなるかも」とも思っていた。これが桐嶋一哉のバグである。
一哉は黙った。
うなずいた。
「そうですね」と英語で言った("That's right" は言えた)。
また黙った。
マイクが何か質問してきた。内容は四割しかわからなかったが、「どう思う?」という顔をしていたので、「It's interesting point」と言った。どこかで見た表現だ。意味はあっているはずだ。たぶん。
マイクがにっこりした。「Exactly!」と言った。
さくらが一哉を見て小さくうなずいた。
一哉は「なぜうまくいっているのか全くわからない」と思いながら、会議が終わるまでその作業を繰り返した。
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会議室を出た後、さくらが言った。
「桐嶋くん、すごいね」
「……いえ」
「あの間の使い方、絶妙だった。しゃべらないことで相手に考えさせてたじゃない。英語圏の人ってああいうコーチング的なアプローチ好きだもんね」
一哉は三秒間、さくらの顔を見た。
(俺がやっていたのは英語力ではなく生存本能です)
「……そういう意図では」
「あ、あえて言わないタイプか。かっこいい」
さくらはそう言って、お菓子の袋を持ったまま颯爽と歩いていった。
一哉は壁に手をついた。何かが着実に変な方向に進んでいた。
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そしてその翌日、問題が起きた。
後輩の田中くん(新卒・入社一週間目・一哉よりさらにフレッシュ)が一哉の席に来た。
「桐嶋さん、ちょっとよろしいですか」
「どうぞ」
「英語の……間の使い方って、どう練習するんですか? 宮本さんから聞いたんですが、桐嶋さんって英語圏式のコーチング手法を使ってるって」
一哉は返答に四秒かかった。
「……誰から聞いたって?」
「宮本さんです。なんかすごいって社内で」
(さくらさんが昨日の今日でもう広めた)
一哉は口を開いた。否定しなければならない。これは否定するべきだ。「俺はただ黙っていただけです」と言えば済む話だ。
「桐嶋さん?」
「……間というのは」
なぜか説明し始めていた。
一哉は自分でも驚いた。しかし田中くんがメモ帳を開いて「はい」と言う顔をしていたので、止まれなかった。
「相手の言葉を、受け取ったと示すための時間なんです。反射的に返すより、少し置いたほうが……重みが出る」
これは本当のことだ。どこかの本で読んだ。英語に限らず当てはまる話だ。一哉は嘘はついていない。
田中くんが「なるほど!」と言ってメモした。
一哉は「俺がやっていたのは絶望による沈黙ですが、それが偶然コーチングと同じ形をしていたというだけです」とは言えなかった。
ステップ4に突入した、と一哉は思った。もちろんそんな言葉は知らない。でも「周囲がなんか勝手に話を大きくし始めた」という感覚は、はっきりあった。
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夕方、翠が席に戻ってきたとき、一哉はまだぼんやりしていた。
「今日の会議、お疲れ様でした」
翠が言った。声が近かった。一哉の隣に立っていた。
「さくらさんから聞きました。うまくいったって」
「……まあ、なんとか」
「一哉くんって、英語のとき顔が変わりますよね」
一哉が翠を見た。
「変わる?」
「なんか……集中してる顔、というか。真剣な顔」
翠がそう言って、少し首を傾けた。
「格好いいなって思って」
一哉の心臓が一回、余計に動いた。
(格好いい)
(俺が真剣な顔をしているのは、英語が聞き取れなくて半泣きになっているからです)
でも、そんなことは言えなかった。翠が「格好いい」と言ったのは、一哉が英語を必死に聞こうとしている顔に対して、であって——
一哉は「……ありがとうございます」と言った。
言ってから、「なんでお礼を言っているんだ」と思った。
翠は「おつかれさまでした」と言って自分の席に戻った。背中が見えた。
一哉は画面を見ながら、「格好いい」という言葉の残像を消そうとした。
消えなかった。
(考えるな、と言い聞かせたが、考えることをやめられなかった。それは今週で二度目だった)




