第2話「社内公認になってしまった」
英語ができるふりをしながら生きていくというのは、想像以上に体力を消耗する。
入社して三日目、桐嶋一哉はすでに疲弊していた。翠からの英語依頼は一日平均二件。そのたびに翻訳ツールとビジネス英語の知識を総動員して「それっぽいコメント」を返す。成功率はなぜか高い。理由がわからないのが一番怖い。
そして木曜日の午前、先輩の宮本さくらが一哉の席に来た。
「桐嶋くんって英語できるの?」
チャンスだ、と一哉は思った。
ここで「実はそれほどでも」と言えば、すべてが解決する。「得意」という表現が少し誇張だったと訂正できる。翠への依頼も自然に減る。人生が正しい軌道に戻る。
「……実は」
「できますよ!」
翠が、隣の席から元気よく答えた。
一哉とさくらが同時に翠を見た。翠は事もなげに続ける。
「一哉くん、すごく的確なアドバイスをくれるんです。英語の表面じゃなくて、ニュアンスの部分を見てくれる。私、助かってます」
「へえ〜!」
さくらが感心したような顔をした。
「じゃあ頼もしいじゃない。ねえ部長! 桐嶋くん英語できるって!」
「知ってる知ってる、自己紹介で言ってたもんね」
部長が奥のデスクからのんびり答えた。社内公認が完成した瞬間だった。
一哉は「あの、実は」と言おうとした。しかし翠がいる。さくらがいる。部長がいる。ここで「嘘でした」と言った瞬間に何が起きるかを想像して、口を閉じた。
(翠さんに「的確なアドバイスをくれる人」と言わせておいて、「実はよくわかってないです」は……無理だ)
一哉の中で、小さな何かが「後戻りできない」と囁いた。
「よろしく頼むよ、桐嶋くん」と部長が言い、さくらが「じゃあ今度の外国人クライアントの対応、一緒に同席してもらおう」とにっこり笑った。
にっこり、というのは時に凶器になる。
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問題の会議は、翌週月曜日に設定された。
相手はアメリカ系の映像制作会社で、翻訳の発注について話し合うという内容だった。会議室に入ると、向こうの担当者が英語で挨拶してきた。
「Nice to meet you. I've heard you have a great team here.」
一哉の脳内翻訳が走る。「はじめまして、素晴らしいチームだと聞いています」——よし、これはわかった。
問題は次だ。
先方が早口でビジネストークを始めた瞬間、一哉の理解が五割を切った。ヒアリングが死んでいる。これは予想していた。対策は考えてあった。
一哉はさりげなく翠に近づき、小声で言った。
「翠さん、議事録をリアルタイムで取る形にしませんか。翠さんが書いて、俺が内容確認する形で」
「あ、いいですね」
翠がノートPCを開いて英語でメモを取り始めた。一哉はそれを横から読みながら、状況を把握した。翠の英語要約は完璧だった。一哉は「そうそう、その点は」とか「ここ重要ですね」とか、要約に書いてあることをさも自分で理解していたかのように発言した。
会議は一時間で終わった。先方の担当者が帰り際、「Great meeting!」と言って一哉に握手を求めた。
一哉は「Thank you!」と答えた。これは言えた。
会議室を出た後、一哉は廊下の壁に背中をつけてゆっくりと座り込んだ。
「……生きてた」
「お疲れ様です」
翠が水のペットボトルを差し出した。
「一哉くんって会議中すごく静かなのに、全部把握してるんですね。あの落ち着き方、かっこいいなと思いました」
かっこいい。
一哉は受け取ったペットボトルを見つめた。会議中の「落ち着き」の正体は「半分以上聞き取れなくて諦めていた」である。
「……翠さんが議事録うまかったので」
「私はただメモしてただけですよ」
翠は首を振り、「また一緒に仕事できたら嬉しいです」と言った。
一哉は「はい」と答えながら、床から立ち上がった。足が震えていた。体力的な疲弊と、なぜかちょっと嬉しいという感情が、よくわからない比率で混在していた。
(また一緒に仕事できたら嬉しい、か)
廊下の窓から午後の光が差していた。翠の横顔が、妙にはっきり見えた。
一哉は「考えるな」と自分に言い聞かせた。
なぜ「考えるな」と言い聞かせる必要があるのかは、考えないことにした。




