第1話「英語得意です、と言ってしまった」
入社初日というのは、なぜか人を正直にさせない。
桐嶋一哉は、自己紹介の順番が回ってくる三秒前まで、「英語は勉強中です」と言うつもりだった。それが正しかった。それが誠実だった。それが唯一の安全な選択肢だった。
「桐嶋一哉です。大学では経営学を専攻していました。英語は……」
ここで一哉は、斜め前の席に座っている同期の女性と目が合った。
整った目鼻立ち、背筋のいい姿勢、そして机の上に置かれた洋書。なんとなくだが、できる人間の雰囲気がある。
人間は追い詰められると、なぜか見栄を張る。
「……得意です」
言った。言ってしまった。
一哉の脳内で何かが砕け散る音がしたが、場の空気は穏やかに続いていた。部長がうなずいて「頼もしいね」と言い、人事の山田さんが「うちの会社、海外クライアントも多いから助かるよ」と笑い、隣の席の先輩社員・宮本さくらが「へえ、英語できるんだ」と興味深そうに見てきた。
ちなみに一哉のTOEICスコアは430点である。大学四年のとき一度だけ受けて、結果を見て受験をやめた。
自己紹介が終わった後、斜め前の席の女性が一哉のところに来た。
「桐嶋さん、はじめまして。橘翠といいます。帰国子女なので英語は大丈夫なんですけど、日本語のビジネス文書がまだ不安で……。英語メールのニュアンス確認とか、お願いできたりしますか?」
翠は、にっこり笑った。
一哉は、にっこり笑った。
内心では「人生が終わった」と確信していたが、顔面の筋肉は「もちろんです」という表情を作った。四年間の大学生活で培った無意味なスキルがここで花開いた瞬間だった。
「よろしくお願いします!」
翠はそう言って席に戻った。
一哉は椅子に座ったまま、五秒間、動けなかった。
(帰国子女。英語ネイティブ。俺に英語の確認をしてほしい)
状況を整理する。帰国子女が、TOEIC430点の人間に、英語のニュアンス確認を頼んでいる。これは何かの罰ゲームか。いや、違う。向こうは本気だ。向こうは俺を「英語得意な同期」だと思っている。
そして俺は、さっき「英語得意です」と言った。
(どうする)
どうにもならない、と一哉は思った。
しかし三秒後には「まあなんとかなるか」とも思っていた。これが桐嶋一哉という人間の、唯一の長所であり最大の欠点だった。根拠のない楽観性。崖から落ちながら「下に何かあるかも」と思う体質。
とりあえず、翻訳ツールを調べた。精度の高いやつを三種類ブックマークした。
これが、最悪の共同作業の始まりだった。
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最初の依頼は、その日の午後に来た。
「桐嶋さん、これ見てもらえますか」
翠が持ってきたのは、海外クライアントへのメールの下書きだった。英語で書かれていて、一哉には内容が七割しかわからなかった。
(落ち着け。翻訳ツールに入れれば読める。問題は「ニュアンスを確認して」という部分だ。ニュアンスって何? 英語のニュアンスって何なんだ俺は)
一哉はさりげなくスマホを取り出し、翻訳ツールにメール本文を流し込んだ。日本語訳が出てくる。読む。ふむ。これは「納期を少し伸ばしてほしい依頼」だ。丁寧だが、翠の書き方はやや遠回しすぎる気がする。
一哉はまったく根拠がないまま、直感で言った。
「……ここ、もう少し直接的に書いたほうがいいかもしれないです。外資系のクライアントだと、遠回しな表現は優柔不断に見えることがあるので」
どこかで読んだ知識だった。ビジネス英語の本のまえがきか何かだったと思う。
翠は少し考えてから、「あ、確かに」と言った。
「そこ、私も迷ってたんです。じゃあ、こう変えるのはどうですか」
翠がすらすらと修正案を書いた。
一哉には修正前との違いが正直よくわからなかったが、「そっちのほうがいいと思います」と言った。
翠はメールを送信した。その三時間後、クライアントから即レスが来た。翠が嬉しそうに「返信来ました! 良かった」と報告してきた。
「桐嶋さんのアドバイスが的確だったんだと思います。ありがとうございました」
「……いえ」
「一哉くんって、英語の裏の意図まで読めるんですね。すごいな」
翠はそう言い残して自分の席に戻った。
一哉はしばらく画面を見つめていた。
(俺がやったのは、まえがきで読んだ知識をそれっぽく言っただけだ)
でも、うまくいってしまった。
一哉は頭を抱えた。頭を抱えながら、翻訳ツールのブックマークをもう一個追加した。




