第10話「言葉選びの話と、好きですという話」
火曜日の朝、翠が「そういえば」と言った。
「先週のクッキー、食べてもらえましたか?」
一哉は一秒止まった。
「……食べました」
「よかった。気に入ってもらえたらいいなと思って」
「おいしかったです」
これは本当だった。一枚目は月曜日に食べた。二枚目は——
「全部食べました?」
「……はい」
これは嘘だった。
引き出しの奥に、まだ一枚ある。
一哉は画面に向き直った。翠も「それはよかった」と言って自分の仕事に戻った。
(まだある。引き出しに、まだ一枚ある。俺はクッキーを翠さんに嘘をついてまで持っている。これは何なんだ)
答えは出ていた。でも言葉にすると確定する気がして、言葉にしなかった。
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その日の午後、翠と二人でプレゼン資料の作業をした。
翠が英語の原稿を書き、一哉が日本語部分を整える。もうすっかり定着した分業だった。
二時間ほど作業して、ひと段落したところで、翠がふと言った。
「一哉くんって、言葉の選び方が好きです」
一哉が手を止めた。
「……言葉の選び方?」
「なんか、無駄がないというか。さらっとしてるけど、ちゃんと意味が通ってる感じ」
「……そんなことないと思いますけど」
「あります。この前の福田さんへの報告書も、私が書いた日本語訳より一哉くんが直したやつのほうが、ずっと読みやすかった」
翠は画面を指した。先週直した文書だった。
「こういうところ」
翠が一文を指した。一哉の書いた部分だった。
「私が書いたの、もっと硬かったんですよ。一哉くんが直したら、するっと読める文になってて」
「……翠さんが英語を読んでくれてるから、俺は日本語だけ考えられるんで」
「それでも、センスがあります」
翠が、まっすぐな顔でそう言った。褒め言葉を言い慣れた感じではなく、ただ思ったことを言っている、という顔だった。
一哉は何と返せばいいかわからなかった。「ありがとうございます」と言うのが正しいが、それより先に、翠に「言葉選びが好き」と言われたことが、胸のどこかで温度を持っていた。
「……翠さんこそ」
「私?」
「英語のとき、翠さんの文章って読みやすいです。俺にわかる範囲では、だけど」
「俺にわかる範囲では、というのが正直ですね」
翠が少し笑った。
「一哉くんって、たまにすごく正直ですよね」
一哉は「たまに、ですか」と言いそうになって、止めた。
たまに、ではない。俺はこの会社でずっと嘘をついている。でも翠と話しているときだけ、なぜか正直なことが出てくる。それが「たまに」見えるのかもしれない。
「……翠さんと話すと、そうなるのかもしれないです」
翠が一哉を見た。
「それ、どういう意味ですか」
「……翠さんが、正直に言いやすい人だからだと思います」
翠はしばらく一哉を見ていた。
それから「ありがとうございます」と言った。声が少し柔らかかった。
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夕方五時を過ぎた頃、翠が席を離れようとしながら、一哉に言った。
「一哉くん、少しだけいいですか」
「はい」
「……さっきの話」
「さっきの?」
「翠さんと話すと正直になる、って言ってくれた話」
一哉は一秒止まった。
「私も、一哉くんと話すの、好きなんです」
翠が言った。
「仕事の話でも、そうじゃない話でも。話していると、なんか、楽しいというか……安心するというか」
一哉は翠を見た。翠は一哉を見ていた。
「だから……言いたかっただけなんですけど」
「……そうですか」
「変ですか」
「変じゃないです」
それだけの会話だった。翠は「よかった」と言って、席に戻った。
一哉はしばらく動けなかった。
(好きなんです、と翠さんが言った)
(「仕事の話でも、そうじゃない話でも」と言った)
(「楽しい」「安心する」と言った)
これは仕事の話ではない。文脈として、ちゃんと確認した。仕事の文脈は外れていた。
翠が「好きなんです」と言ったのは、俺との会話について、だ。会話が好き。でも「会話が好き」と「その相手が好き」は——
一哉はスマホを取り出した。TOEICアプリを開いた。
問題が頭に入ってこなかった。
五問で閉じた。
代わりに、さくらが先週言っていた「橘さん、あなたのこと好きだと思うよ」という言葉を思い出した。
あの日は「わからないです」と答えた。でも今日の翠の「好きなんです」を聞いた後では、「わからない」という保留は、もう正直ではなかった。
(わかってきた)
一哉はその認識を、頭の中に置いた。
置いて、引き出しを開けた。
残り一枚のクッキーが、まだそこにあった。
一哉はそれを取り出して、食べた。
甘かった。
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帰り際、さくらが一哉に声をかけた。
「桐嶋くん、橘さんのこと——」
「宮本さん」
「うん」
「……今日は、いいです」
さくらは一哉の顔を見た。いつもと少し違う顔だったのかもしれない。さくらが「そう」と言った。
「焦らなくていいからね」
「わかってます」
さくらが「じゃあおやすみ」と言って帰った。
一哉は最後に残った仕事を片付けながら、翠の「好きなんです」という言葉を、もう一度だけ頭の中で聞いた。
それから、引き出しが空になっていることを確認した。
何かが、終わった気がした。何かが、始まりそうな気もした。
どちらかはまだわからなかった。でも「考えないことにする」と言わなかった。今日は、初めて、それをしなかった。




