第11話「任せます、と言ったら信じてくれたと思われた」
プレゼンの前日、一哉はメモ帳を三ページ使った。
翠が英語で話す部分のアウトラインを確認して、予想される質問を書き出して、それに対して翠なら何と答えるかを想像して書いた。自分が答えるためではない。翠が答えた後に「そうですね」と言えるかどうかを確認するためだった。
我ながら、すごい準備だと思った。英語力ゼロの人間が、英語プレゼンの準備に三ページを使っている。
(俺の努力の方向性は、一体いつから)
考えるのをやめた。明日の本番に集中した。
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プレゼン当日。
相手は国内の映像系企業だったが、担当者の一人が外国籍だった。さくらから事前に「一人だけネイティブの人がいるから」と聞いていたが、一哉は「翠さんが対応してくれる」という前提で臨んでいた。
前半は順調だった。翠が英語で説明し、一哉が日本語のスライドを補足する。完璧な分業だった。傍から見れば、バイリンガルの凄腕ペアだった。実態は片方がTOEIC未満なだけだった。
問題は後半に起きた。
担当者の外国籍の方が、英語で質問してきた。内容はプレゼン資料の細部についてだった。一哉には七割しか聞き取れなかった。残り三割が核心だった。
翠が一哉を見た。「どう対応しますか」という目だった。
一哉は一秒考えた。
(翻訳ツール:会議室なので開けない。俺の英語力:三割を聞き取れていない。翠さんの英語力:完璧。答えは一つだ)
「翠さんに任せます」
一哉は、そう言った。
部屋が一瞬、静かになった。
翠が一哉を見た。一秒だけ見た。それから担当者に向き直って、英語で答え始めた。
流暢だった。正確だった。担当者が「That makes sense」と言ってうなずいた。翠が補足を加えた。担当者がまたうなずいた。
プレゼンが終わった。
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会議室を出た後、廊下でさくらが一哉の横に来た。
「……あー」
それだけ言った。
「なんですか」
「いや」
さくらはそれ以上何も言わなかった。「あー」の中にすべてが入っていた。
翠が一哉のところに来た。
「一哉くん」
「はい」
「……ありがとうございました」
「俺は何も」
「信じてくれたから、答えられました」
翠がそう言った。まっすぐな顔で。
一哉は「信じたんじゃなくて」と言いかけた。
信じたんじゃなくて、俺には無理だったんです。翠さんなら答えられると思ったんじゃなくて、俺が答えられないから翠さんに振っただけです。あれは決断ではなく撤退です。
そのどれも、言えなかった。
翠の「ありがとうございました」の顔が、本当に嬉しそうだったから。
「……翠さんが答えられたのは、翠さんの実力です」
「一哉くんが、ちゃんと私を信頼してくれてるって、伝わりました」
一哉は翠を見た。翠は本当にそう思っている顔をしていた。
(伝わったのは嘘の信頼です)
(でも)
でも翠の英語は本当に完璧だった。翠が質問に答えられたのは、翠の実力だった。俺が「任せます」と言ったのは撤退だったが、翠が答えられたのは事実で、それは俺の嘘とは関係ない。
一哉はそこで少し止まった。
(翠さんの力を、俺は正しく知っている)
(それは嘘じゃない)
「……翠さんはすごいです」
一哉は言った。
「え」
「英語、本当にすごいと思います。今日のあの質問、難しかったと思うので」
翠が少し驚いた顔をした。それから、ゆっくり笑った。
「……ありがとうございます」
今度は翠の「ありがとう」が、最初と違う温度だった。
廊下の端で、さくらがもう一度「あー……」と言った。今度は少し音量が上がっていた。
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帰り道、翠と二人で歩いた。
今日のプレゼンの話をしながら歩いていたが、会社を出てしばらくすると、会話が自然に止まった。
黙って歩いた。信号を渡った。また黙って歩いた。
それが不思議と、居心地が悪くなかった。
「一哉くん」
「はい」
「最近、なんか変わりましたよね」
一哉は翠を見た。
「変わった?」
「うまく言えないんですけど……なんか、真剣な感じ、というか。前から真剣でしたけど、それと少し違う感じ」
一哉は前を向いた。
変わった、か。
変わったのかもしれない。「考えないことにする」をしなくなった。TOEIC二十五問解くようになった。翠のメモを整理するだけじゃなくて、自分で調べるようになった。それが「変わった感じ」として翠に見えているなら——
「……何かが変わったのかもしれないです」
「何が変わったんですか」
一哉は少し考えた。
「……やりたいことが、少し増えた気がします」
「仕事で?」
「……仕事で、も」
翠がそれを聞いて、「そうですか」と言った。
それ以上聞かなかった。でも横を歩く翠が、少しだけ嬉しそうな顔をしているのが、一哉には見えた。
改札でいつも通り「おやすみなさい」と言って、別れた。
電車の中で一哉は、「やりたいことが増えた」という自分の言葉を反芻した。
仕事で、も。
「も」以外に何があるのかは、翠には言わなかった。でも言えなかったわけじゃなかった。今日は、少しだけ、言えそうな気がした。
まだ言わなかったけれど。




