第12話「本気で勉強することにした、理由について」
フェーズ3という言葉を、一哉は知らない。
でも何かが変わったという感覚は、はっきりあった。
月曜日の朝、一哉はいつもより三十分早く出社した。
誰もいないフロアで、PCを開いて、英語の勉強をした。TOEICの問題集ではなく、ビジネス英語の文章を読む練習だった。翻訳ツールを補助に使いながら、でも「翻訳ツールに全部任せる」ではなく「自分で読んで、確認に使う」という順番で。
一時間後、翠が出社した。
「あれ、もう来てたんですか」
「少し早めに」
「何してたんですか」
「……勉強してました」
翠が一哉の画面を見た。英語の文章が開いていた。
「英語の?」
「はい」
翠がじっと画面を見た。それから一哉を見た。
「……一哉くん、英語の勉強してるんですか」
「最近、少し」
「なんで」と翠が聞いた。
一哉は一秒止まった。
「……もう少しちゃんとできるようになりたいと思って」
「今でも十分できてますよね?」
一哉は答えられなかった。「できていない」が正解だが、言えない。「もっとできるようになりたい」は本当だが、それだけが理由じゃない。
「……現状に満足したくないんで」
これは本当のことだった。
翠が「……そうですか」と言った。声が少し柔らかかった。
「一哉くんって、そういうところがありますよね」
「そういうところ?」
「見えないところで努力してる感じ」
一哉は「見えていないわけではない」と思った。正確には「見えているが内容が誤解されている」だ。でも「見えないところで努力してる」という翠の認識は、今朝に限っては完全に正しかった。
「……翠さんこそ」と一哉は言った。「プレゼンの前日も、朝から法律英語を調べてきたりするじゃないですか」
「あれは私が苦手なところを補いたかっただけですよ」
「それが努力じゃないですか」
翠が少し考えてから「そうかも」と言った。
「じゃあ、お互い様ですね」
翠がそう言って笑った。
お互い様、という言葉が、なんか正確な気がして、一哉はうまく返せなかった。
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昼休み、さくらに「英語研修の件」を告げられた。
「部長から、桐嶋くんが適任じゃないかって話が出てて」
「……研修?」
「来月、外部の英語研修があって。うちから一人参加するんだけど、桐嶋くんが一番英語できるからって」
一哉の思考が止まった。
外部の英語研修。
参加すればプロに英語力を見られる。受講者と話す機会がある。課題がある。発表がある。TOEIC430点がどこかで露呈する可能性がある。
「……俺が参加するのが適任かどうか、もう少し考えさせてもらえますか」
「なんで? 桐嶋くん英語できるじゃない」
「……研修の内容によっては、もっと適した人間がいると思うので」
「あ、謙虚な感じね」
さくらはそう解釈した。例によって、悪意なく、完全に逆の意味で。
「まあ、今週中に返事してくれればいいから」
さくらが去った。
一哉はしばらく机を見つめた。
断る理由は作れる。「専門外の内容だと思うので」とか「他の業務が立て込んでいて」とか。でも断った場合、「なぜ英語の神様が英語研修を断るのか」という疑問が生まれる。それはそれで怪しい。
参加した場合。
英語力が試される。今の自分の英語力は——毎日勉強するようになって、一週間。TOEIC430点が少し上がっているかもしれないが、「研修で通用するレベル」には程遠い。
(どうする)
三秒後には「なんとかなるかもしれない」と思っていた。でも今回は、その三秒後に「いや、なんとかならないかもしれない」という声も聞こえた。
楽観と現実が、初めて同じ重さで天秤に乗った。
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夕方、翠が「今日も一緒に帰れますか」と声をかけてきた。
駅までの道を歩きながら、翠が言った。
「英語研修の話、さくらさんから聞きました」
「……そうですか」
「一哉くんが候補に挙がってるって」
「……まだ決まってないです」
「私も、英語のスキルアップしたいと思ってたんです」と翠が言った。「もし一哉くんが参加するなら、私も申し込もうかなって」
一哉は翠を見た。
「……翠さんが英語研修に参加する必要はないんじゃないですか。翠さんのほうが俺よりよっぽど」
「でも私、英語は大丈夫なんですけど、英語でのプレゼンの構成とか、ビジネス交渉の組み立て方とか、まだ勉強したくて」
翠が少し照れたように続けた。
「二人で参加できたら、お互い補い合えるかなって。私が英語を見て、一哉くんが日本語のビジネス感覚を」
一哉は前を向いたまま、頭の中でその提案の意味を処理した。
二人で参加する。翠が横にいる。でも翠が横にいる研修で、俺の英語力が明らかになる可能性がある。
(それは)
(翠さんに、嘘がバレるかもしれないということだ)
信号が赤になった。二人で立ち止まった。
「……一緒に参加できたら、いいですね」
一哉はそう言った。
翠が「じゃあ一哉くんも申し込むんですか?」と聞いた。
「……考えます」
「考えるんですね」
「はい」
信号が青になった。二人で渡った。
一哉は歩きながら、「考えます」という自分の言葉の意味を確かめた。
今まで「考えます」は「断るための時間稼ぎ」だった。でも今日の「考えます」は違った。本当に、考えていた。
参加したい、という気持ちがあった。翠と一緒に、という理由が、そこにあった。
翠と一緒に参加して、嘘がバレるかもしれない。それが怖い。でも翠と一緒に参加できる、という事実も、ある。
どちらが重いかを、今夜ちゃんと考えようと思った。
それが「本気で考える」ということだと、一哉はわかっていた。
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その夜、一哉はTOEICアプリを開いた。
三十問解いた。二十一問合っていた。
閉じる前に、翠が「お互い補い合えるかな」と言ったときの顔を、一秒だけ思い出した。
それから英語研修の申し込みフォームを開いた。
氏名の欄に、桐嶋一哉と入力した。
送信ボタンの前で、三秒止まった。
押した。
後戻りできない、という感覚があった。でも今回は、その感覚が怖くなかった。




