第13話「勉強会と、メモ帳の話」
二人での勉強会は、火曜日の夜に始まった。
残業が落ち着いた後、翠が「今日、少し時間ありますか」と声をかけてきた。
研修まであと三週間。翠が「一緒に準備しましょう」と言い出したのは自然な流れだったが、一哉にとっては「嘘がバレる可能性が最も高い状況」への自発的な参加だった。
二人でフロアの端のミーティングスペースに移動した。翠がノートPCを開いた。
「まず、研修の事前課題を一緒にやりましょう。英語でのビジネスメール演習なんですけど」
「……はい」
「じゃあ、これを英語に直してみてください」
翠が日本語のメール文を見せた。
一哉は読んだ。内容は把握できた。これを英語にする。
一哉はゆっくり書き始めた。翻訳ツールは使えない。翠が横にいる。自分の頭の中にある英語だけで書く。
三分かかった。書いたものを翠に見せた。
翠が読んだ。
翠の顔に、一瞬だけ何かが走った。
「え、」という顔だった。正確には、「え、そんなに基礎的なところが?」という顔だった。
一哉は見ていた。ちゃんと見ていた。
翠がその顔を、次の瞬間に切り替えた。
「……あの、一哉くん、もしかして私の教え方がわかりにくかったですか?」
(来た)
(予想通りの着地だ)
「……違います」
「でもここ、少し」
「俺の問題です」
「でも——」
「翠さんの教え方は、わかりやすいです」
これは本当のことだった。わかりにくくはない。俺の基礎力が終わっているだけです。
翠が一哉を見た。それから手元のメモを見た。それからまた一哉を見た。
「……じゃあ、基礎から一緒にやりましょうか」
「……お願いします」
一哉がそう言うと、翠が少し驚いた顔をした。
「素直に言ってくれるんですね」
「言わないと進まないので」
翠が「そうですね」と言って、最初のページを開いた。
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一時間後。
翠が「動詞の使い方」の説明をしていた。一哉は聞きながら、メモ帳に書いていた。
翠が「こういう場合は——」と言いながら画面を操作した拍子に、一哉のメモ帳が少し傾いた。
翠の視線が、メモ帳に落ちた。
三秒間。
「……一哉くん」
「はい」
「このメモ帳、前にも見たことあります」
「……え」
「第五週の金曜日。残業してるとき。私が帰ろうとしたら、一哉くんが書いてて」
一哉は止まった。
あの夜のことだ。翠に見られた瞬間に閉じた、あのメモ帳だ。
「……そのときは、中身見えませんでしたけど」
翠がそのメモ帳をそっと引き寄せた。一哉が「あ」と言う前に、翠がページをめくっていた。
そこには、翠から教わったことが、びっしりと書いてあった。
「クレームメール:謝罪→再発防止→感謝の順」「please の多用は弱く見える」「whereas:前文で背景を説明する定型表現」——
翠が一ページ、また一ページとめくった。
「……これ」
翠の声が、少し変わった。
「私が言ったこと、全部書いてある」
「……参考にしてました」
「全部?」
「……大事なことは」
翠がメモ帳を閉じた。一哉に返した。
それから、少し考えるような顔をした。翠が「考えてから答える」顔だった。
「一哉くん」
「はい」
「……もしかして、なんですけど」
一哉の心臓が、余計な動きを始めた。
「もしかして、英語……」
翠がそこで止まった。
「……苦手なんですか?」
一哉は答えなかった。
三秒間。
翠が一哉を見た。一哉は翠を見た。
「……苦手、というか」
「というか?」
「……得意でも、ないかもしれない、です」
翠が一哉を見つめた。一秒、二秒、三秒。
それから「そうですか」と言った。
それだけだった。怒った顔でも、驚いた顔でもなかった。ただ「そうですか」だった。
「……怒りませんか」と一哉は言った。
「なんで怒るんですか」
「俺がずっと……翠さんの英語を参考にして、答えてたので」
「知ってます」
一哉が翠を見た。
「……知ってた?」
「全部じゃないですけど、途中から気づいてきました」
翠がそう言って、少し首を傾けた。
「でも今日は、もしかしてって思っただけです。全部がわかったわけじゃないし……ちゃんと聞こうと思ったら、言えそうじゃなかったので」
一哉は「言えそうじゃなかった」という言葉を聞いた。
「……翠さんが聞かなかったのは」
「一哉くんが、ちゃんと向き合ってるのが見えてたから」
翠が静かに言った。
「このメモ帳も、毎朝早く来て勉強してるのも、今日素直に基礎からって言ったのも……見えてました」
一哉は何も言えなかった。
「だから、今日は『もしかして』で止めます」と翠は言った。「ちゃんと聞くのは、もう少し後にします」
「……後にする理由は?」
「一哉くんが、自分で言いたいときに言えばいいと思ったので」
翠がそう言って、ページを開いた。
「続き、やりましょうか」
「……はい」
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勉強会が終わって、二人でフロアに戻ったとき、さくらがまだ残っていた。
お菓子を食べながら、二人を見た。
「……なんか、いい感じじゃない」
翠が「そうですか?」と首を傾けた。
一哉は何も言わなかった。
さくらが「うん」と言って、お菓子の袋を閉じた。
その夜、電車の中で一哉は翠の「自分で言いたいときに言えばいいと思ったので」という言葉を、何度も頭の中に置いた。
翠は待っていた。
俺が言えるようになるまで、翠は待っていた。
(それを知ってしまった)
一哉はスマホを取り出した。TOEICアプリを開いた。
三十五問解いた。二十七問合っていた。
閉じる前に、もう一度だけ「自分で言いたいときに言えばいいと思ったので」という言葉を思い出した。
その言葉が、苦しかった。でも苦しいのとは別に、なんか、あたたかかった。




