第14話「さくらさんが、また正しいことを言った」
翌日の朝、出社すると翠が席にいた。
いつも通りの朝だった。翠が「おはようございます」と言い、一哉が「おはようございます」と言った。
昨日のことについて、翠は何も言わなかった。一哉も言わなかった。
でも昨日と今日の間に、何かが変わっていた。
具体的には変わっていないのかもしれない。翠は仕事をしていて、一哉も仕事をしていた。でも一哉には、翠が「知っている」という事実が、昨日と今日とでは違う重さで胸の中にあった。
翠は「全部じゃないけど、途中から気づいてきた」と言った。
どこまで気づいているのか。入社初日の「英語得意です」まで遡っているのか。翻訳ツールを使っていたことか。会議で翠の議事録に乗っかっていたことか。
全部ではないと言った。でも「途中から」と言った。
一哉はその「途中」がどこなのかを知りたいような、知りたくないような気持ちで、午前中の仕事をした。
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昼休み、さくらに呼び止められた。
今日はプリンを持っていた。珍しくプリンだった。
「桐嶋くん、少しいい?」
「はい」
さくらが一哉を会議室に連れて行った。二人で座った。
「昨日、橘さんと何かあった?」
「……なんで知ってるんですか」
「今朝の二人の空気が違ったから」
さくらはプリンのフタを開けながら言った。観察眼が鋭すぎる。
「……少し、話しました」
「英語のこと?」
一哉は一秒止まった。
「……少し」
「橘さん、気づいてるよ」
「……知ってます。昨日言われました」
さくらがプリンを一口食べた。
「怒ってなかったでしょ」
「……はい」
「だと思った」
さくらがスプーンを置いた。
「桐嶋くん、橘さんが怒らなかった理由、わかる?」
「……翠さんが待ってくれてたから、だと思います」
「そうじゃなくて」
さくらが一哉を見た。
「好きだから怒らないんだよ」
一哉は返せなかった。
「好きな人が一生懸命何かをしてたら、それがどんな動機から始まってても、応援したくなるじゃない。橘さんはずっとそうしてたんだと思う」
「……宮本さんは」
「うん」
「なんでそんなに、翠さんのことがわかるんですか」
さくらが少し笑った。
「私は橘さんが好きだから、橘さんのことわかるんだよ。同じ理屈で、橘さんは桐嶋くんのことがわかる」
一哉はその言葉を、頭の中でゆっくり展開した。
さくらが翠を好き、というのは友人として、という意味だろう。そしてその「好き」が観察を深くする。翠が俺を——
「……翠さんが俺のことを好きだとしたら」
「うん」
「俺は、嘘をついたまま好かれていたことになります」
「そうだね」
「それは……」
「苦しいよね」
さくらがあっさり言った。
「でも、ここからどうするかの話だから」
「……はい」
「橘さんは待ってる。桐嶋くんが言えるときまで」
「言われました」
「じゃあ、言えるときはいつ?」
一哉は答えなかった。
さくらが「まあ、考えてみて」と言って、残りのプリンを食べた。
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午後、一哉は仕事をしながら、「言えるときはいつ?」という問いを頭の中に置いていた。
翠が自分のことを好きかもしれない、という可能性は、もう「わからない」では保留できなかった。
さくらが言った。好きだから怒らない。好きだから待つ。好きだから、気づいていても聞かない。
翠の行動を遡った。
毎朝「おはようございます」と声をかけてくること。差し入れを持ってきたこと。帰り道が同じ方向だと嬉しそうだったこと。「一緒に飲みたい」と言ったこと。「補い合えるかな」と言って研修に一緒に申し込んだこと。メモ帳の中身を見て、怒らなかったこと。「自分で言いたいときに言えばいい」と言ったこと。
全部を並べると、答えは一つだった。
(翠さんは、俺のことが好きだ)
一哉はその結論を、頭の中に置いた。
今まで「わからない」「保留」「考えるな」で逃げてきた結論が、今日、初めてはっきりした。
そして同時に、もう一つのことも、はっきりした。
(俺も、翠さんのことが好きだ)
言葉にするのが今日が初めてだった。「確実にアウト」とか「心臓が余計に動く」とか「考えないことにする」とかで回避し続けてきたが、言葉にすると、たった一行だった。
翠さんのことが好きだ。
一哉はその言葉が頭の中に生まれたのを確認して、少しだけ息を吐いた。
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夕方、翠が「今日も一緒に帰れますか」と声をかけてきた。
駅まで歩きながら、翠が「明後日の勉強会、また来られますか?」と聞いた。
「はい」
「よかった。研修まで、あと二週間なので」
「……頑張ります」
「私も頑張ります」
翠が少し笑った。街灯の下で、翠の横顔が見えた。
(好きだ)
今日初めて言葉にした感情が、翠の横顔を見て、また静かに確認された。
「一哉くん」
「はい」
「最近、なんか、ちゃんと向き合ってる感じがして」
「……そうですか」
「うん。前より、なんか」
翠が少し言葉を探した。
「……近い感じがします」
一哉は翠を見た。翠は前を向いていた。
近い感じ。
「……俺もそう思います」
一哉は言った。
翠が「そうですか」と言った。声が少し嬉しそうだった。
信号が赤になった。二人で立ち止まった。
並んで立ちながら、一哉は思った。
言えるときはいつか、とさくらに聞かれた。まだわからない。でも「言わない」という選択肢は、今日から消えた。
信号が青になった。二人で歩き出した。
改札で「おやすみなさい」と言って、別れた。
電車の中で、一哉はTOEICアプリを開いた。
四十問解いた。三十一問合っていた。
閉じてから、翠の「近い感じがします」という言葉を思い出した。
研修は来週だった。その後に、言う。
一哉はそれだけを決めた。それで十分だった。




