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英語ペラペラのふりをしていたら、英語ペラペラの彼女に惚れられた件  作者: 螺旋


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第15話「研修と、終わりにしようと思った日」

英語研修は、都内のビルの会議室で行われた。


 参加者は十二人。他社からの参加者が多く、全員がスーツを着ていた。テキストが配られた。英語で書かれていた。


 一哉は受付でテキストを受け取りながら、「なんでここにいるんだ」と思った。


 三秒後には「わかってる、翠さんがいるからだ」と思っていた。


 翠が隣に立っていた。


「緊張しますか?」と翠が聞いた。


「……少し」


「私も」


 翠が少し笑った。


 緊張している翠というのを初めて見た。それが、なぜか、少し嬉しかった。


(緊張している翠さんが見られたのが嬉しい、という感情は、研修の前に持つべきものではない)


---


 午前中は座学だった。


 講師がビジネス英語の理論を説明した。一哉は八割理解できた。勉強を続けてきた成果が、ここで初めて数字ではない形で出た。八割、というのは一哉の感覚で、正確には測れないが、三ヶ月前の自分とは明らかに違った。


 翠が隣でメモを取っていた。一哉もメモを取った。


 講師が「では演習に入ります」と言った。


 一哉の体温が、少し下がった。


---


 演習は、二人一組でのロールプレイだった。


 一方がクライアント役、一方が担当者役になり、英語でビジネス交渉を行う。制限時間は五分。


 一哉と翠はペアになった。


 翠がクライアント役、一哉が担当者役だった。


 翠が英語で話し始めた。流暢だった。完璧だった。ただし、容赦なかった。


「We'd like to renegotiate the terms of the contract, specifically regarding the delivery timeline and the penalty clauses.」


 一哉は聞き取った。六割。残りの四割は単語の輪郭だけつかめた。


 renegotiate は「再交渉」。terms は「条件」。delivery timeline は「納期」。penalty clauses は——


(違約金条項だ。福田さんの契約書で見た)


 メモ帳に書いたことが、ここで出た。


「We understand your concerns. Could you specify which aspects of the timeline you'd like to adjust?」


 一哉は言った。


 翠が一瞬だけ、目を見開いた。


 次の翠の発言は、さらに込み入った内容だった。一哉の理解が五割に落ちた。でも「何を求めているか」の大枠はつかめた。


 五分間、一哉は全力で走った。


 完璧ではなかった。どこかの単語を聞き取れなかったときに止まって、翠が言い換えてくれた。一度だけ「Sorry, could you repeat that?」と言った。


 でも五分間、逃げなかった。


---


 演習が終わった後、講師が「ではフィードバックをしましょう」と言った。


 各ペアに、課題点を伝えていく。


 一哉と翠のペアに講師が来た。


「橘さんは英語の流暢さは申し分ない。ビジネス交渉のテンポがもう少し落ち着くといいかな」


「ありがとうございます」


「桐嶋さんは……頑張りましたね」


 一哉は「はい」と言った。


「聴解に苦労している部分があったかな。でも諦めずに対応しようとしていた。その姿勢は本番でも活きます」


「……ありがとうございます」


 講師が次のペアに移った。


 翠が一哉を見た。


 一哉は翠を見た。


「……苦労してるの、見えてましたか」


「見えてました」と翠は言った。


「……そうですか」


「でも」


 翠が少し間を置いた。


「一番最後まで、ちゃんとやってた」


 それだけ言って、翠は次の演習のテキストを開いた。


 一哉は自分のテキストを開きながら、「聴解に苦労している」という講師の言葉と、翠の「見えてました」という言葉が、並んで頭の中にあるのを感じた。


 もう隠せない、という感覚があった。


 でもそれが、怖くなかった。


---


 研修が終わったのは、夕方五時だった。


 ビルを出ると、秋の風が来た。翠が隣にいた。


 二人で駅に向かって歩きながら、一哉は思った。


(いつまでこれを続けるんだろう)


 第四週目のある夜に、一哉が初めて持った問いだった。あのときは答えが出なかった。でも今日、答えが出た。


 終わりにしよう。


 嘘を、終わりにしよう。


 翠に全部言おう。英語ができないこと。翻訳ツールを使っていたこと。翠の議事録に乗っかっていたこと。翠に聞いたことをメモして、翠に返していたこと。それが全部。


 それと、もう一つ。


 好きだということ。


「一哉くん」


 翠が言った。


 一哉が翠を見た。


「……正直に話してほしいことが、あるんですけど」


 翠が少し緊張した顔で、一哉を見た。


「今日の研修。一哉くん、思ったより苦労してましたよね」


「……はい」


「苦労してた、というより……」


 翠が一秒止まった。


「私が今まで思っていたより、英語が……そうじゃない、というか」


 翠は「英語ができない」という言葉を、最後まで使わなかった。


「……そうじゃない、で合ってます」


 一哉は言った。


 翠が一哉を見た。


「一哉くん」


「はい」


「……ちゃんと、教えてもらえますか」


 一哉は少し息を吸った。


 終わりにしよう、と思った。


「言います」


 翠の目が、少し揺れた。


「……全部?」


「全部」


 信号が赤になった。二人で立ち止まった。


 一哉は信号を見ながら、明日の言葉を頭の中で並べ始めた。


 英語ができないこと。入社初日の「英語得意です」が嘘だったこと。翻訳ツールを使い続けたこと。翠の力を借りて、翠に返し続けたこと。そのすべての期間、翠のそばにいたかったこと。


 信号が青になった。


「……明日、話させてください」


「はい」


「ちゃんと、全部」


 翠が「わかりました」と言った。声が静かだった。怒っていない。怖がっていない。ただ、聞く準備ができている、という声だった。


 駅の改札で「おやすみなさい」と言って、別れた。


 電車の中で、一哉はさくらへのチャットを開いた。


「研修、どうだった?」というさくらのメッセージが来ていた。


「……終わりました」と一哉は返した。


「そっかー」


 それだけだった。さくらはそれ以上聞かなかった。


 一哉は画面を閉じた。


 明日、全部言う。


 怖い、とは思わなかった。ただ、長かった、と思った。入社初日から今日まで、どれだけの距離を走ってきたかが、電車の窓の外に流れていくように見えた。


 TOEICアプリは、今夜は開かなかった。

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