第16話「全部言ったら、知ってたと言われた」
翌日、一哉は翠に「少し時間をもらえますか」と声をかけた。
昼休みに、小さな会議室に二人で入った。
椅子に座って、向かい合った。
翠が一哉を見た。一哉が翠を見た。
一哉は一秒だけ息を吸った。
「実は俺、英語ほとんど話せません」
翠が動かなかった。
「TOEICのスコアは、430点です。入社したとき受けて、それから一度も受けていない」
翠がまだ動かなかった。
「自己紹介で『英語得意です』と言ったのは嘘でした。翠さんに最初に英語メールの確認を頼まれたとき、スマホで翻訳ツールに入れて、それっぽいコメントを返しました。会議では翠さんの議事録を横から読んで、わかったふりをしていました。翠さんから教わったことをメモして、次の相談のときに翠さんに返していました」
一哉は言い終わった。
全部だった。入社初日から今日までの嘘を、一分もかけずに言い終わった。
部屋が静かだった。
翠が、ゆっくり口を開いた。
「……知ってた」
一哉は翠を見た。
「全部じゃないですけど」と翠は続けた。「途中から、気づいてきました」
「……どこから」
「第五週くらい」
一哉が「え」という顔をした。
「あの、福田さんの契約書のとき。一哉くんが whereas を知らなかった。でも翌日には使えるようになってた。調べたんだと思ったけど、それだけじゃないなって」
「……気づいてたのに」
「聞けなかったんです」
翠が少し俯いた。
「一哉くんが、全部一生懸命やってるのが見えてたので。聞いたら、止まっちゃうかなって思って」
一哉は翠の「止まっちゃうかな」という言葉を聞いた。
(翠さんは、俺が止まることを、心配していた)
「……怒らないんですか」
「怒ってないです」
「でも、俺はずっと翠さんを」
「利用してたわけじゃないと思うんですけど」と翠が言った。
「でも俺は翠さんに頼って、翠さんに返して」
「知ってます」
翠が一哉を見た。
「知ってて、それでもずっと一緒に仕事してました。私も一哉くんに頼ってたし、一哉くんが日本語を整えてくれるから、私の英語が伝わった部分もあって。お互い様だったと思ってます」
「……お互い様、か」
「そう言ったじゃないですか、前に」
一哉は「お互い様ですね」と翠が言った昼の日を思い出した。あの日も、今日も、翠はこの言葉を使う。
「翠さんは」と一哉は言った。「英語の裏の意図まで読める、と俺のことを言ってくれましたよね、最初の頃」
「言いました」
「あれは全部、翠さんから教わったことを返してただけです」
「知ってます」
「……知ってたのに」
「でも」
翠が少し笑った。
「一哉くんって、私が言ったことを、私よりうまく整理して返してくれるんですよ。日本語で。私が英語で思ってたことを、一哉くんが日本語にすると、なんかすごくちゃんとした言葉になってた」
「……それは」
「それは一哉くんの力だと思います。私から借りてたとしても」
一哉は何も言えなかった。
「裏の意図を読んでた、というのは、当たってると思います。英語の裏じゃなくて、私の意図の裏を、ちゃんと読んでくれてた」
翠がそこで止まった。
「……それが、ずっと、嬉しかったです」
一哉は翠を見た。
翠の「嬉しかった」は、過去形だった。でも過去形で言い切れる言葉ではない顔をしていた。
「翠さん」
「はい」
「もう一つ、言わないといけないことがあります」
翠が一哉を見た。
「言えないことが、二種類ありました。一つは英語のことで、今言いました」
「……もう一つは?」
一哉は翠を見た。
「翠さんのことが、好きです」
部屋が静かになった。
翠が一哉を見ていた。一哉が翠を見ていた。
「……入社初日からですか?」と翠が聞いた。
「正確にはわかりません。途中からだと思います」
「どのあたりから」
「……格好いい、と言ってもらったあたりから」
翠が「あー」という顔をした。
「あれ言ったとき、一哉くんの顔が変わったんで、もしかしてって思いました」
「……気づいてたんですか」
「そっちも全部じゃないですけど」
翠が少しだけ笑った。
「私も、言えないことがありました」と翠は言った。
一哉は黙って聞いた。
「一哉くんのことが、好きです。いつからかはわからないですけど、気づいたらそうなってました」
「……翠さんは」
「はい」
「嘘をついてた俺を、知った上で、好きですか」
翠が一哉を見た。
「知ったから、好きになったのかもしれないです」
「……それはどういう」
「嘘をついてたのに、諦めないで、勉強して、メモして、早出して、研修にも来て」
翠が少し声を落とした。
「その全部が、一哉くんのことだったので」
一哉は翠の言葉を、ゆっくり聞いた。
「……嘘から始まったのに」
「そうですね」
「翠さんは、そういうのが嫌じゃないですか」
「嫌かどうかと、好きかどうかは、別の話だと思います」
翠がまっすぐに言った。
「嫌だったかもしれないけど、好きです」
一哉は少し息を吸った。
「……ありがとうございます」
「なんでお礼言うんですか」
「言いたかっただけです」
翠が「変ですね」と言って笑った。
一哉も笑った。
会議室の外で、誰かが廊下を歩く音がした。
---
昼休みが終わって、フロアに戻ると、さくらが一哉を見た。
一哉の顔を見て、翠の顔を見た。
それから「あー……」と言った。
「なんですか」と一哉は言った。
「いや、なんか」
さくらがお菓子の袋を開けながら言った。
「早く言えばよかったのに」
「……最初から言えるわけないじゃないですか」
「そうだね」
さくらが笑った。
「でもよかった。二人とも、顔が違うから」
翠が「そうですか」と言った。
一哉は何も言わなかった。
自分の席に座って、画面を開いた。
仕事があった。翻訳の確認が来ていた。翠のメールに、英語の文章が添付されていた。
一哉は翻訳ツールを開こうとして、止めた。
自分で読んだ。
七割、わかった。残りの三割を、翠に聞いた。
「これ、どういう意味ですか」
「あ、これは——」と翠が教えてくれた。
一哉はメモ帳に書いた。
今日も翠から教わった。でも今日は、嘘ではなかった。




