第17話「お互い様ですね、三度目」
告白の翌日、出社すると翠がいつも通り席にいた。
いつも通りだった。
でも一哉が「おはようございます」と言ったとき、翠が顔を上げてにっこり笑った。その笑い方が、昨日より少しだけ、はっきりしていた。
それだけで、世界の解像度が少し上がった気がした。
(まだこういうことが起きるのか)
(起きる、と一哉は思った。しばらくは起き続けるかもしれない)
自分の席に座った。PCを開いた。今日も仕事があった。翻訳の確認があった。英語のメールが来ていた。
一哉は自分で読んだ。八割わかった。残りの二割を翠に聞いた。翠が教えてくれた。一哉はメモ帳に書いた。
それが今日の始まりだった。昨日と同じで、昨日と違った。
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昼休み、さくらが「二人ともちょっといい?」と声をかけてきた。
三人でいつもの休憩スペースに行った。さくらがプリンを三つ持ってきた。配った。
「昨日、何かあったよね」
さくらが言った。断言の形で言った。
「……はい」と一哉は言った。
「全部言ったんだね」
「全部言いました」
さくらが「そっか」と言った。翠を見た。翠が「はい」と言った。さくらがうなずいた。
「よかった。二人とも、今日顔がちゃんとしてるから」
「ちゃんとしてる?」と翠が聞いた。
「なんか今まで、どこかぼんやりしてたんだよ。特に桐嶋くんが」
「……俺が?」
「うん。ずっとどこかに重いものを持ってる人の顔してた」
一哉は「そうだったかもしれない」と思った。思い返せば、入社初日から昨日まで、何かをずっと抱えていた。嘘の重さが、顔に出ていたのかもしれない。
「宮本さん」
「うん」
「最初から言えばよかったんですかね」
さくらが一哉を見た。少し考えた。
「……最初から言えばよかったのに、とは思う」
「ですよね」
「でも」
さくらがプリンをひとくち食べた。
「最初から言ってたら、今の桐嶋くんにはなってないんじゃないかな」
「……どういうことですか」
「毎朝早出して、研修受けて、メモ帳びっしり書いて、TOEICの問題解いて——それ全部、嘘がなかったらやってた?」
一哉は答えられなかった。
「やってなかったと思う」とさくらは続けた。「嘘から始まったのが、結果として本物になった。それって、最初から言ってたら手に入らないものだから」
「……そうですね」と翠が言った。
一哉は翠を見た。翠がさくらを見ながら「私もそう思います」と言った。
「一哉くんが諦めないで頑張ってたから、私も頑張れた部分があって」
「翠さんが?」
「英語研修に一緒に行こうって言ったの、私なんですけど」
「はい」
「あれ、一哉くんが勉強してるの見てたから、私も基礎からやり直そうって思ったんです。一哉くんのせいで、私もちょっと変わったので」
翠が少し笑った。
「だから、お互い様かな、って」
三度目だった。
「お互い様ですね」という言葉が、今日で三度目になった。一度目は昼食のとき、二度目は告白の日、三度目は今日。
一哉は「そうですね」と言った。
さくらが「なんかいい締めになったね」と言いながらプリンを食べ切った。
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午後、翠が「少しだけいいですか」と声をかけてきた。
近くのコーヒーを買いに行きながら、翠が言った。
「昨日、一哉くんが全部言ってくれた後に、私も聞きたかったことがあって」
「なんですか」
「止めなかった理由、聞かれましたよね。私が気づいてたのに止めなかった理由」
「はい」
「昨日は『止めたら一哉くんが止まっちゃうかなって思って』って言いましたけど」
「はい」
翠がコーヒーのカップを両手で持った。
「本当の理由は、もう一つあって」
「……何ですか」
「一哉くんが、本気になっていくのを、見ていたかったんです」
一哉は翠を見た。
「最初の頃の一哉くんって、なんかこう……なんとかなると思ってる顔してたんですよ。悪い意味じゃなくて、なんか根拠なく大丈夫そうな感じ」
「……そうでしたか」
「でも途中から、変わってきて。朝早く来るようになって、メモを真剣につけるようになって、昨日の研修でも最後まで諦めなかった」
翠がカップを見た。
「その変化が、見ていて……なんか、すごく好きだったんです」
「変化が、好き?」
「本気になっていく人って、かっこいいじゃないですか」
一哉は「かっこいい」という言葉を聞いた。
入社して三週目に翠が言った「かっこいい」とは、文脈が全部違った。あのときは「静かで落ち着いてる」という誤解からの言葉だった。でも今日の「かっこいい」は——
「……本気になってたのは、翠さんに嘘をついてたからです」
「知ってます」
「それでも?」
「それでも」
翠がまっすぐ言った。
「動機がどこから始まっても、本気だったのは本当のことじゃないですか」
一哉は翠の言葉を、ゆっくり受け取った。
「……翠さんって、たまに、ものすごく正確なことを言いますね」
「たまに?」
「……いつも、か」
翠が「それは褒めすぎです」と言って笑った。
一哉も笑った。
秋の日差しがあって、二人でコーヒーを飲みながら、会社に戻った。
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夕方、フロアで翠が日本語のメールを書いていた。
一哉は自分の仕事をしながら、翠の画面が視界の端に入った。
「一哉くん」
「はい」
「このメール、見てもらえますか。なんか硬すぎる気がして」
翠が画面を向けた。日本語のビジネスメールだった。
一哉は読んだ。確かに少し硬かった。三ヶ所、直した。
「こうするとどうですか」
「……あ、ずっとこれが読みやすかったんです。どうしてこう書けるんですか」
「日本語なので」
「それだけですか」
「……翠さんの英語を、ずっと日本語に直してきたからかもしれないです」
翠が「なるほど」と言った。
「ちなみに」と翠は続けた。
「私、日本語のビジネスメール、今でも苦手です」
一哉が翠を見た。
「……知らなかったです」
「言ってませんでした」
「翠さんの日本語、問題ないと思ってました」
「話し言葉は大丈夫なんですけど、書くと硬くなって」
翠が少し困った顔をした。
「一哉くんに教えてもらえますか、これから」
「……俺が翠さんに日本語を教えるんですか」
「はい」
「翠さんが俺に英語を教えて、俺が翠さんに日本語を教える」
「……それ、おかしいですか」
「おかしくないですけど」
一哉は少し考えた。
「……お互い様ですね」
翠が一哉を見た。一秒だけ見て、それから笑った。
「そうですね」
四度目だった。「お互い様ですね」が今日で四度目になった。でも今日の四度目は、一番しっくりきた。
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帰り際、一哉がコートを着ていると、翠が「一緒に帰れますか」と声をかけてきた。
「はい」
いつもの道を、二人で歩いた。
話した。今日の仕事の話と、研修の課題の話と、それから翠の日本語の話と。特別なことは何も起きなかった。
改札の前で、翠が「じゃあ」と言った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
翠が改札に入った。一哉も入った。
ホームで別れる前に、翠が振り返った。
「一哉くん」
「はい」
「明日も、よろしくお願いします」
一哉は「よろしくお願いします」と言った。
翠が笑って、電車に乗った。
一哉も電車に乗った。
座席に座って、今日一日を振り返った。さくらの「最初から言えばよかったのに、でも最初から言ってたら今の桐嶋くんにはなってない」という言葉と、翠の「本気になっていくのを見ていたかった」という言葉と、「お互い様ですね」が四回になったことと。
全部が、ちゃんと収まった気がした。
TOEICアプリを開いた。
四十五問解こうとして、途中で止まった。
今日はいいか、と思った。
勉強する理由が、今日は少し変わった。嘘のためでも、翠に追いつくためでも、並んで立つためでもなく——もう少し、翠と一緒に仕事をするために。それだけで十分な気がした。
アプリを閉じた。
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翌朝、出社すると、メールが来ていた。
翠からだった。昨日の帰り道に書いたらしい。件名は「明日の確認」で、本文は日本語だった。読みやすかった。昨日直した書き方を、翠がさっそく使っていた。
一哉が「ちゃんと直せてますよ」と返信しようとしたとき、メールをもう一度見た。
本文の最後に、一行だけ英語が混じっていた。
見たことのない表現だった。
一哉は三秒考えた。わからなかった。
「翠さん」
翠が顔を上げた。
「これ、どういう意味ですか」
一哉はメールの最後の一行を指した。
翠が画面を見た。一秒だけ見て、それから一哉を見た。
「……一哉くんならわかると思って」
一哉は翠を見た。
翠がまっすぐな顔でそう言っていた。入社初日に「英語の確認をお願いしていいですか」と言ったときと、同じ顔だった。
「……わかりません」
一哉はそう言った。
翠が一秒だけ止まって、それから笑った。声を出して笑った。一哉も笑った。
「教えてください」と一哉は言った。
「教えます」と翠は言った。
フロアの端で、さくらがお菓子の袋を持ったまま二人を見て、「あー、また始まった」とか「でもまあいいか」とかいう顔をした。声には出さなかった。
窓の外に、秋の光が来ていた。
英語の勉強は、まだ終わらない。でもそれは、もう全然、悪くなかった。
【完】




