線を引くということ
線は、引いた瞬間に意味を持つ。
それまでは、ただの曖昧な境目。
越えても、越えなくても、誰もはっきりとは言わない。
でも一度引けば、話は変わる。
こちら側と、あちら側。
どちらに立つのかが、はっきりする。
午前の講義は、いつも通りだった。
特に問題もなく、
討論も、穏やかに終わる。
それなのに。
(……静かすぎる)
リリアは、そう思った。
意見は出ている。
対立もある。
けれど、どこか遠慮がある。
踏み込まない。
ぶつからない。
線を、引かないようにしている。
(逆に、目立つな)
その空気の中で、
あえて線を引かない自分の立ち位置が。
昼過ぎ。
小さな課題が出された。
内容は単純。
「本日の討論において、
最も妥当な意見を一つ選び、理由を述べよ」
また、選ぶ課題。
けれど今回は、小規模。
名前を出す必要はない。
内容だけを選ぶ形式。
(少し、優しい)
直接的な対立を避けるための配慮。
でも。
(だからこそ、出る)
誰がどう考えているか。
見えない形で。
リリアは、少しだけ考えたあと、書いた。
――選ばない。
理由。
複数の意見が、それぞれ異なる前提で成立しているため、
単一の妥当性で比較することができない。
提出。
周囲は、静かにペンを走らせている。
誰も、何も言わない。
ただ、書く。
結果が出るのは、すぐだった。
老女官が、淡々とまとめる。
「多数意見は、段階的改革案」
数人が、わずかに息をつく。
予想通り、という反応。
「少数意見は、即時改革案」
これも、想定内。
そして。
「選択なし、一名」
視線が、ゆっくりと集まる。
名前は出ていない。
でも、分かる。
(まあ、そうなるよね)
老女官は、何も言わなかった。
評価も、特に触れない。
ただ、それで終わる。
解散。
席を立つ音が、重なる。
その中で。
「逃げてますよね」
静かな声。
振り返ると、セレナがいた。
責めるような口調ではない。
ただ、確認するような声。
「そう見えますか」
「はい」
即答だった。
「選ばないことで、責任を避けている」
「そうですね」
否定しない。
「でも、それって」
少しだけ、言葉を探す。
「この場にいる意味、ありますか?」
空気が、わずかに張る。
強い言葉ではない。
でも。
(ちゃんと、線を引いてきた)
リリアは、少しだけ息を吐いた。
「ありますよ」
「どこに?」
「選ばないという選択肢を、残すことに」
セレナの表情が、わずかに動く。
「それは、選ぶことから逃げる理由にはなりません」
「逃げてますからね」
あっさり認める。
一瞬、言葉が止まる。
「……開き直るんですね」
「事実なので」
「それでいいと?」
「よくはないです」
少しだけ間を置く。
「でも、必要だと思っています」
「何に?」
「選ばない人間が、ここにいることに」
静かな沈黙。
周囲の音が、少し遠くなる。
「全員が選び始めたら」
リリアは、ゆっくり言う。
「選ばないという選択は、最初からなかったことになります」
「それの、何が問題ですか」
「最初から一つの答えしかないなら、
選考じゃなくなります」
セレナは、しばらく何も言わなかった。
視線だけが、真っ直ぐに向けられる。
「……理屈は分かります」
やがて、静かに言う。
「でも」
一歩、距離を詰める。
「それで、誰が救われますか?」
その問いは、少しだけ重かった。
正しさではなく、結果を問う。
リリアは、少し考えた。
そして。
「分かりません」
そう答えた。
正直に。
「でも」
視線を外さずに続ける。
「少なくとも、切られ方は変わります」
「……」
「それだけでも、意味はあると思っています」
セレナは、目を伏せた。
短い沈黙。
それから。
「やっぱり」
小さく息を吐く。
「やりにくいです」
「そうですね」
「でも」
ほんの少しだけ、笑う。
「嫌いじゃないです」
その言葉は、前と同じ。
でも。
少しだけ、重さが違った。
セレナは、そのまま背を向けて歩き出す。
リリアは、その場に残った。
(線を引いた)
はっきりと。
選ぶ側と、選ばない側。
もう曖昧ではない。
どちらが正しいかは、分からない。
でも。
どちらにも、戻れない。
第6章は、静かに進んできた。
けれど。
ここで一度、はっきりぶつかった。
小さな衝突。
でも、確実に。
何かが、決まった。




