36 とあるひとつの結末
派手な痕跡を点々と残すアレスを追うことは容易だった。
荒野の追走の果てに、オートモービルは森に囲まれた山の麓へ辿り着いた。
発作的な暴走で当たり散らして森を潰し、山を崩した爪痕も深い。
そして不自然に静かだ。
オートモービルを降りてもそれは変わらない。
耳を澄ましても、鳥のさえずりや獣の嘶きは聴こえない。
ここは鳥も獣も、魔物すらも恐れをなして逃げた死せる山なのだ。
自然が溢れ、生息に適していた山から生物を放逐した強大な絶対者、すなわちアレスはここだ。
ここにいる。
ジンは確信めいた予感を得る。
「日没まで偵察する」
足音を消し息を殺して人跡を探し歩いた。
人間どころか小動物の足跡も古いものしかなかったが、別の収穫があった。
山間を吹き抜けた風に混ざる匂いだ。
猟犬を思わせるジンの鋭敏な嗅覚は、一度鼻を鳴らすとその匂いとアレスが垂らした尿のそれと一致させた。
後は地形と風向きを読んで風の通り道を逆行する。
匂いは山中の崖にポツリと口を開けた廃鉱へ続いていた。
虎児はいないというのに、愚かにも虎穴に入った冒険者や山賊の骨と折れ曲がった刀剣が辺りに散逸している。
オリガを待機させて忍び寄れば、奥からは人が啜り泣く嗚咽が岩肌を木霊した。
加えて真新しい男の足跡もある。
証拠は揃った。
しかし狭い洞窟内で襲うのは得策ではない。
ジンの脚が生かせる逃げ場がなく、あちこちが傷んだ古い廃鉱では崩落の可能性も高い。
だからジンは待ち伏せを選択した。
オリガと合流した後に廃鉱を監視できる地点に移動して夜を過ごした。
向かいの山の中腹に水と食料を運び込み急造した、仮の拠点で廃鉱の様子を探りし続けた。
震えて眠る獲物が憔悴し我慢の限界を迎えるまで、火も起こさず、用を足すときも顔が見える距離で待ち伏せた。
春期でも夜は冷え込む。
依然狩った魔物の皮を使ったオリガの外套は肌寒さと夜露をよく防ぎ、冷たい保存食を食む体を守った。
「寒くないのか?」
交代で休んでいた夜半も緊張で寝付けないでいたオリガはジンに訊いた。
〝塔〟でもそうだったが、これといって厚手という訳でもないコートを羽織っただけのジンが夜風に吹かれているのは見ている方がどうかしそうだ。
おまけにたまに干し肉と水を飲むだけの半病人並の食事しかしていなかった。
「俺は寒さも飢えも感じにくく出来てる」
木に背中を預け、視線は廃鉱に向けたまま腕組みしてジンは言う。
「それは痛みもか?」
「そうだ」
「……そうか」
オリガは剣を抱き寄せると苔が覆う古木に寄り掛かって目を閉じた。
動きがあったのはそれから一日半経った昼。
さしもの狂人も恐怖より空腹が勝ったということだろう。
遠目にも分かるような怯え方で鉱内の暗がりから顔だけ顔だけを出してかれこれ三十分は周囲を窺っている。
「ここに居ろ」
相も変わらず木に寄り掛かっていたジンが突如消失する。
オリガの視界の外れで木の葉の向こうに一瞬だけブーツの踵が映った。
丁度ジンの背中があった辺りで割れた木片が、木を背筋のうねりで突き飛ばして急加速したのだと教えてくれた。
風の如く速く静かに森の中を走り抜ける。
あれよあれよと山を下り渓流を越えていく。
一方、廃鉱ではアレスがふらつく足取りで這い出して来ている。
頻りに振り返り焦点も定まらない目で何かを恐れている。
先日の戦闘より遠く離れた茂みから、オリガは単眼鏡でそれを隠れ見ていた。
幼児にも劣る牛歩を逃げ腰で引き摺るアレスはしかし、確実に茂みへと進む。
視線を落としていたアレスは経験則から違和感を感じた。
己の影が二つある。
頭上を見上げれば、上空には廃鉱の掘られた断崖の縁から飛び降りたジンが通常より二回りは長く、刃が金色に輝く山刀の一振りを垂直に構えて刺し殺さんとしていた。
ものの数分で山間を横断して遠回りまでしてのけたジンにオリガは驚くだけで済んだが、勇気を振り絞って一時的に悪夢を克服したばかりのアレスは恐慌状態に陥った。
弱った足腰では身軽には動けず、上からはジンが来る。
「あああああっ!!?」
行動の自由は無い。
顎を外れんばかりに開き反射的に放った。
アレスを軸とした同心円の範囲に球体の力場が形成されて地面が抉れ、岩石が押し出される。
遠くなった理性が選択したのは、結果として最善策だった。
目に見えない物を斬る男が相手でなかったのならば、だが。
打ち据えようと衝撃波が迫る中、コートの内からもう一刀を抜いて、逆手に握っていた山刀を順手に持ち変える。
体を弓なりに反らして力を溜め、解放した。
二刀を空の余白に叩きつける。
一瞬の拮抗。
不快な金属音を響かせて、何かが壊れた。
斥力の波を、風景の歪みの遠近感だけを頼りに間合いを読んで切り裂いたということだ。
自由落下を再開したジンの切っ先が立ち竦むアレスの防御膜に刺さる。
鋭く尖った切っ先は最後の一線を果物のように容易く切り開いていく。
勿論、アレスとて無抵抗でいるはずもない。
「ち、か、よ、る、なぁーーっ!!」
破れかぶれの衝撃波をジンの懐へ撃つ。
間一髪、刹那の見切りでそれを斬ったが、二つに分かたれた余波がジンを襲う。
アレスが立て続けに衝撃波を見舞う。
接近するのは回避を捨てるのと同意であり、直撃は避けれない。
腰を落として腕と肩と膝を盾に、体の側面のみを向けて最低限の前方面積で受け止める。
四肢が軋む。
腕を千切ろうとする力場を筋力で強引に捩じ伏せる。
踏ん張る脚は重圧に耐えきった。
しかし体勢は最良とは言い難く、左腕の感触も思わしくない。
破れた血管と肌から血液が滴り、肩は外れていた。
やむを得ずジンは後ろへ跳んで間合いを仕切り直す。
左腕を前方へ伸ばしてから真横に向け三角筋を締め上げれば関節は填まった。
戦闘に支障はない。
ジンが離れたのを見るやすかさず空中へ逃げたアレスは先日を彷彿とさせる苛烈な攻め手が始める。
ただし、今度は全方位だ。
逃げ場はどこにも無い。
「いいいいいああああ!!」
防御膜を斬られ、幻の感覚を刺激されたアレスは感情を爆発させる。
直径五十メートルはあろうかという広範囲の爆撃が地上を包む。
小川の魚は水を伝わる振動で内臓が掻き回され、樹木は倒れる。
これを食らった人々は、爆風に巻き込まれる前に衝撃波が揺らした血液が毛細血管を破って内臓を引き、裂き穴という穴から吹き出して死に至った。
節制とは程遠い連射でジンを近づけまいと必死だ。
しかし衝撃波の到達速度は見切っている。
韋駄天走りにフィールドを駆けるジンに必殺のパワーをぶつけるのは不可能だった。
「お前を壊せば、わたしのわたしはぁあああッ!?」
アレスの言葉はもはや支離滅裂で、バラバラに砕けた知性を発露しているだけだった
幾度の攻撃もフットワークでタイミングを調整され、二刀の連撃に切り伏せられていく。
圧倒的な攻撃密度は高い魔力を保有する証左に違いないが、アレスとて人間。
無限に力が湧き出る訳ではない。
息も乱れれば疲労感や目眩も出る。
やがてはジンの動きの速さに翻弄され始める。
いつしか集中力は途切れ、衝撃波の間隔に狂いが生じるようになっていた。
ジンはそれを勝機と見た。
あえて速度を緩めて狙わせ、間隔の波が大きくなるように誘導していく。
制御が曖昧なままアレスはそれを愚直に追う。
最大限まで引き付けた斥力を斬ったジンが、忽然と消える。
瞬間、剛脚が地面を抉り、地響きが崖まで揺らした。
果たして本当に人間にこんな脚力が備わるものなのか。
最高速度を叩き出した一歩が捲れた地面に刻まれている。
〝塔〟でのように、身体能力の本領を発揮したジンを肉眼で捉えるのは困難となる。
アレスの次の鼓動が鳴るより速く、付近から発生している斥力のその内側へ、跳躍したジンは飛び込んでいた。
コントロールの機微を無くした状態で狙った事が裏目に出た。
恐怖に操られ無意識のままで攻撃していたならば、間隔は不規則で読めなかったが、今回は殺気を孕ませた事が回避を簡単にさせてしまった。
山は崩せても、人間に直撃させる精度はない。
衝撃波を全周に垂れ流しにしていれば勝つ道もあったはず。
それが躍起になって獲物を追いかけ回してワンパターンな攻撃をしていては、有効打は望めない。
いくら気勢が充実していようとも、疲労した心身では捉えきれなかった。
なまじっか狙ってしまったがために、一定のリズムを繰り返すだけという致命的なミスも犯してしまっていた。
ジンは飛び付いた勢いをそのまま、防御膜に斬り付け一部を割った。
切り開いた幅は高々30センチメートル。
そこから山刀を入れても届かない。
しかし充分に必殺の圏内だ。
死の一閃から身を守っていた命綱を断ち斬られたアレスが恐怖に凍る。
ジンの渇いた精神を憐憫が湿らせるが、同志に歓迎ではなく敵意を向けてしまうまでに心に入ったヒビ割れは、もう治らない。
一刻も早く慈悲を与えてやるべきだ。
「今、楽にしてやる」
重力に引かれるジンが向けたのは金色に煌めく山刀。
剣の部類にしてはやや小振りな刃渡り。
されどその威力や死神の鎌に等しい。
「貫け、奴の胸を」
詠唱が紡いだ雷は山刀を満たし、溢れた。
切っ先に収束された雷撃は防御膜の切れ込みから無防備な胸部に吸い込まれ、全身の筋肉、神経、血管、臓器をズタズタに焼き付くした。
明確な死だ。
その昔、武威に敬意を払って小さき巨人と呼ばれた男は、数億ボルトの電流に焼かれて走馬灯を見る間もなく死んだのだ。
アレスがこれまでに見た、そしてこれからも見るであろう悪夢を考えると、この死は確かに慈悲深い。
飛行が解除されて地上に躯が落ちる。
炭化して服も肌と一体化したアレスだったものは非常に脆く、激突の振動ではぜた。
小動物の骨やら随分と古びた注射器が炭となった服から転がり出る。
散々に衝撃波を受けた崖が震え始める。
壁面から土が剥がれている。
アレスが暴れ回って山肌にダメージが溜まり、地滑りが起ころうとしている。
一際強い揺れが足の下を突き抜けたと思うと、地面が動いた。
崖はおろか山の斜面がグシャグシャに蠢いて泥の濁流となる。
流石のジンもこれに飲まれるのは避けたい。
あっという間にアレスを飲み込んだ激流に背を向け、オリガを待たせる野営地に走る。
決着を見届けたオリガは荷物を纏めて離れる用意をしていた。
以前にも増した激闘も二度目ともなれば心構えは出来ていて、呆けることも慌てることも無かった。
「お疲れ。怪我は?」
景色までも変える強烈な衝撃波に曝された肉体の
奥深くに浸透する類いの攻撃だった故に、内臓へのダメージが危惧される。
「もう治した」
トントンと叩いた首には注射痕があった。
アレスの死体の回収は諦めるしかない。
土砂に埋もれてもこちらの問題はクリアされる。
どちらにしても二度と地表に現れないのならば同じこと。
「帰るぞ」
荷物を取って下山を始めた足取りは危なげ無い。
負傷者のそれではないだろう。
「アレスはどうしてああなったんだ?」
一騎当千の精鋭がなぜああまで気が触れてしまったのか。
執念を燃やしていてもアスベルは正気のままだったのに、ほぼ同じ状況に思えるアレスはなぜ壊れたのか。
森を歩く中、オリガはふと疑問を覚えた。
「さあな。戦場のストレスだけとは思わん。そんな惰弱な奴では無かった筈だ」
答えを知るアレスは物言わぬ消し炭となって土砂の下にいる。
真相は闇の中。
アレスが永眠した方角を見る。
仲間に殺されるなど、犬死に他ならない。
肩を並べて進む未来は儚くも露と消えたのだ。
ジンは共に戦う道もあった仲間を亡ぼした手を握る。
「最後まで戦ってきた男の結末には哀し過ぎるよ、ジン」
守りたい物があったのだろう。
守りたい人もいたのだろう。
しかし、それらを奪われた挙げ句、アレスは正気までも失った。
最後の最後まで報われる事は無かった男の悲哀は如何程か。
「……残念だ」
停めていたオートモービルに荷物を積み、荒れ地へ発進する。
「後は任せろ」
高速で後方へ去る褐色の地へゴーグル越しに悲願の達成を誓う。
〝安らかに眠れ〟
そして永久の別れを告げた。




